六話
女学校の卒業が近づくと、祖父はまた祝言の準備の話を持ち出した。滝元家とも話を進めなければいけないと、祖父は家長としての勤めを果たそうとした。
姫子は師範学校へ行きたいと頼んでみた。もちろん、許可は降りなかった。女学校へ行くだけでもわがままを聞いてやったのに、まだ望むのかと叱られてしまった。
祖父は姫子が勉強だけを頭に詰め込んで頭でっかちになり、行き遅れになることを望んでいなかった。
辰巳の後を追いかけるように外国語の勉強を始めた姫子だったが、今は辰巳なんて関係なくまだ勉強したいと思うようになっていた。
それに、タエに頼んで辰巳の後をつけてもらうこともした。辰巳はそう頻繁ではないが、他の軍の仲間と一緒に花街に消えていくことがあった。そして朝には門のところまで同じ商売女が見送りに来ていることもわかった。
辰巳だって結婚という檻の中に縛られるのは嫌なはずだ。姫子と結婚したら、恋人との時間が減ってしまうのだから。逃げ出したかった。結婚から、子供を生むことから。でも、愛されたかった。
姫子は何度も祖父の説得しようとした。言葉を変えて何度でも。その度に、祖父は「これ以上、辰巳さんを待たせる気か!」と怒った。実際はこれ以上、栗花落家の事業拡大を先延ばしにする気か! ということだろうけども。
辰巳だって他に恋人がいるのに、姫子と結婚したいはずがない。あの人にとって姫子はいつまでも子供で恋愛の対象にはならないのだから。だから、辰巳は姫子を愛してくれない。
結婚したら姫子は不安に苛まれるだろう。辰巳が帰ってこないのは、恋人の元に行っているから? 早く跡継ぎを産めという周りの圧力に押しつぶされてしまうのではないか。
子供は欲しくないのに、子供を愛せるのだろうか。そして自分の結婚がうまくいかなかったことで幸せな物語が嫌いになるのだろうか。
「強情な。女学校に行けただけで満足せんか」
祖父との仲は険悪になった。母は弱い体に無理を言わせて、姫子と祖父の間を取り持とうとした。といっても、母も祖父と同じような考えで、姫子を説得しに掛かった。難しい時期の娘の説得は男ではなく、女がやった方が良い結果になると母も信じていたようだ。
姫子を結婚に向かわせるための説得は母にとってまともに面倒を見てやれなかった罪滅ぼしであり、親の責務であると感じているようだった。
「姫子、私はあなたに早く幸せになって欲しいのよ。お祖父様も同じ思いです」
母も祖父も姫子に幸せになって欲しい気持ちに嘘はないのだろう。でも、大切なことを見落としている。姫子が辰巳と結婚しても幸せになれないことを。母も祖父も、辰巳の郭遊びと恋人の存在を知らない。姫子が愛されることはない。
ただ愛されない日々よりも、愛されたいと願いながら過ごす愛されない日々の方がよっぽど不幸だ。そしてそのことを吐露しても、祖父も母も理解を示さないかもしれない。祖父は男だから、男側に立つかもしれないし、母は自分の結婚がうまくいかなかったから、自分のやり直しを姫子にさせたいのかもしれない。
姫子と辰巳が結婚することこそが、過去の母のうまくいかなかった結婚を払拭するものになると信じている。
タエだけは、姫子の不安に寄り添い理解を示してくれた。姫子がまだまだ本を読めるようになりたいから勉強したいと言っても、「難しいことは分かりませんが、お嬢様がしたいことをするのが一番の幸せだと思います」と言ってくれた。
嬉しかったのと同時にタエには申し訳ないが、少しがっかりもした。どうしてこの言葉を言ってくれたのがタエなのだろう。本当は祖父や母に言って欲しかった。タエが悪いわけではない、タエだけでも味方になってくれることが嬉しい。でも、本当に理解してほしい人には理解されない。
タエには力がない。姫子が結婚から逃げ出す算段を用意できない。静かに泥の中に沈んでいくような気がした。祖父はついに姫子の説得に耳を貸さなくなった。
姫子が何か口を開こうとしたら、黙って何処かへ行ってしまう。母はその状況がたまらなく辛かったようでまた体調を崩して、寝込んでしまった。
そんな険悪な空気の中の栗花落家に、祖父に祝言の話でもしようと呼び出されたのか知らないが、辰巳は訪れた。いつもみたいに朗らかな笑顔で、手土産に饅頭を持って。
本来、祝言の話は両家の親同士でまとめてしまう。栗花落の家に父はいないので代わりに家長として祖父がまとめる。きっと、祖父は辰巳からも姫子に結婚を前向きに考えるよう説得してくれと頼んだはずだ。うちの孫娘がまだ勉強が足りないとごねているから、説得してくれ…と。
応接間で、祖父と辰巳は将棋をしながら何か話しているようだが、姫子は部屋に居ろと言われたので外国語の本を辞書を引きながら読んでいた。
本当は、師範学校に行きたいというよりもここから逃げ出せるなら何処でもよかったのかもしれない。此処ではない何処かに行きたい。それこそ、船に乗って遠くの異国へ。外国語の勉強はその通過点なのかもしれない。
そこへタエが辰巳が応接間で話したいと呼んでいると伝えに来た。タエの表情には、少しの怒りが滲んでいる。タエとしては、どの面下げてこの家の敷居を跨いだんだ、と言いたい気分なのだろう。
姫子は不安になりながら、応接間へと向かった。応接間に祖父の姿はなく、将棋盤も片づけられていて辰巳に出された茶があるだけだった。
「姫子さん」
辰巳とは久しぶりに顔を合わせた。辰巳が栗花落の家を訪れる期間が空くことは、仕事が忙しいだろうから不思議ではないと今までは思っていた。しかし、他に恋人がいるならば、そちらを優先していたのだろう。
「あなたが、師範学校に行きたいと願っていることをお祖父様から聞きました」
「説得してくれと頼まれましたか?」
姫子は拳を握り締め、床を見つめていた。
「頼まれました。でも、あなたの願いは聞いてあげたいんです」
辰巳は穏やかに言った。でもそれは他の女の元に通っている罪悪感の裏返しではないのか。
「少し回り道になるかもしれませんが、方法を考えます。だから、姫子さんは安心してください」
辰巳は姫子の願いを叶えると約束して帰っていった。そして数日後にまた栗花落家を訪れ、祖父と話をした。話は長時間に及んだ。女中がお茶のおかわりを四回も持って行かなきゃいけなかったし、今回祖父は将棋をしなかった。
祖父は将棋をして、相手の人柄や考えていることを探ろうとしているのだろう。祖父は人を見る目はある、と言っていた。姫子にも人を見分けるには靴を見ろと言っていた。
靴の手入れにまで気を配る奴は余裕がある。逆に靴がぼろぼろだと余裕がない。靴を綺麗にしていないやつは信用しないと語っていた。辰巳の軍靴はいつも綺麗に手入れされていた。
そして長い話が終わると、祖父は部屋から出てきて姫子に「辰巳さんが望むようにしなさい」と言った。辰巳さんは少し申し訳なさそうな顔をした。二人きりになった時に話がどう纏まったかを教えてくれた。
「結論から言いますと姫子さんには少しの間、看護婦見習いとして外に出てもいいという選択肢をあげることができます」
最初の結論だけでは師範学校の話からなぜ看護婦の話になるのかわからなかったが、辰巳は順を追って説明してくれた。
祖父は今すぐ姫子を結婚させたがった。滝元の家の方でも早く結婚の話を進めたいと話が持ち上がっているらしい。祖父は華族との繋がりから事業拡大を、滝元家は傾いた家に安定をもたらしたかった。特に辰巳の母がうるさいらしく、辰巳も説得するのに時間が掛かったそうだ。
辰巳は以前、祖父に「賢い妻を持つのは美徳」だと言った。そのため、姫子が勉学に励むことには自分は何も問題がないということを伝えた。
しかし、そこで祖父は師範学校なんかに行ったら姫子は教師になってしまう。教職に就いたら仕事か家庭か選ばなければならない。姫子のことだから一度熱が灯ったら止まれないだろう。だからこそ、家庭を選ばせる苦渋の決断をさせるくらいなら、最初から選択肢なんて与えない方がいいと考えたらしい。
しかし、そこは辰巳が反論してくれた。選択肢が与えられないのはおかしいと。
そして辰巳も祖父も譲歩し合った結果、社会勉強をするくらいならいいだろうと許された。そして社会勉強をするならば辰巳の目の届く範囲──軍の管轄である軍病院で看護婦見習いをするくらいならいいだろうということになった。
「あなたが学びたいこととは違うかもしれませんが、今はこれで辛抱していただけませんか? 必ず、師範学校への受験の機会は設けます。私が周りを説得しきれないばっかりに…」
辰巳は悔しそうに、そして姫子への申し訳なさを抱えているように見えた。姫子はこの人に頼りっぱなしになるのも良くないと思った。
「私、働いてみます。師範学校の学費、自分で稼いでみたいです」
いつも、祖父や辰巳に頼りっぱなしだった。食べることに困らなないのも、季節が巡ったら新しい着物を流行色で仕立てられることも、風呂に入れて、暖かい布団で眠れるのも、祖父が稼いだ金だ。
街には職業婦人が増えているという。他の人が出来て、姫子ができないというわけはないはずだ。
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姫子が外で働くということに、一番心配したのは母だった。
「いくら辰巳さんの紹介とはいえ…姫子が外で働くなんて。この子に出来っこありませんよ」
母は祖父にそう訴えたが、祖父も社会勉強のためなら良いと許可してしまった手前、今更反対することはできないようだった。
「新しい波に乗ってこそ、時代についていけるものだ。姫子、もし辛いことをされたら言いなさい。何とかしてやるから」
軍病院で祖父の力が何処まで及ぶかわからなかったが、祖父は母と姫子の両方を安心させようとしたのだろう。女中たちも姫子が外に働きに出るのに反対するものが多かった。「お嬢様は働かなくても生きていけるのに…」と姫子の贅沢な身の上を惜しんだり、遊びの一部として仕事をすると考えている者もいた。
きっと辛くなって逃げ帰ってくる。口に出さずとも女中たちが姫子にそんな評価を下しているのはわかった。純粋に応援してくれたのは、タエだけだ。
女学校を卒業して、姫子は軍の管轄の病院で働き始めた。同級生は皆、結婚してしまい上の学校に行く人も働きに出る人もいなかった。
看護婦見習いの仕事は過酷だった。雑用ばかり押し付けられ、リネン類を洗ったり補充したり治療器具を消毒したり。手際が悪いと先輩看護師から容赦無く叱責や舌打ちが飛んできた。
姫子の手はすっかり女中たちと同じく働き者の手になった。姫子は荒れた自分の手を見て滑らかな肌を思い出そうとした。辰巳と連れ立って歩いていたら女はきっとささくれ一つない滑らかな手をしているだろう。
きっと三味線を弾くくらいしか使わないような綺麗な手を。そう思うと煮湯のような胃液が腹の底から湧き上がってくるようだった。
姫子は看護婦見習いの中で、一番働き者だった。そして一番美人だとも思った。ある日、偉い医者だという先生に呼び出された。君はよく頑張っている、他の人たちは美しさに嫉妬しているから意地悪をするんだよ、と言った。
姫子は偉い先生のお気に入りになった。そうするとぱたりと嫌味や舌打ちが消えた。先生はよく姫子を部屋に呼び出して、父と同じように愛してくれた。
美しい青絲の髪ときめ細かい滑らかな肌のことを褒めてくれた。妻は乳房が垂れ下がって美しくないと、ぼやいていた。
先生は姫子を綺麗な蝶々さんと呼んだ。でも、先生に呼び出されて愛されるようになってから、看護婦たちの間では毒蜘蛛と呼ばれるようになったのも知ってる。でもそれは愛されない人の妬みだ。
先生は姫子を愛しているという弱みがあるから姫子の言うことは何でも聞いてくれた。姫子に当たりが強い怖い婦長を左遷してくれた。働き始めてしばらくしたころ、夕食の席で祖父が職場で困っていることはないかと尋ねたが、姫子は自分で何とかできると答えた。
先生に頼めば、何でもできた。大人って意外と単純なんだと思った。毒蜘蛛の異名は、本当になっていったのかもしれない。ひらひらと舞う蝶々に見せかけて、新しく入ってきた若い医者たちを何人も食った。皆、姫子の崇拝者となり、何でも言うことを聞いてくれる。
二人きりにして部屋に閉じ込めて、服を脱いだら相手は驚いた顔をする。でもすぐに姫子に釘付けになる。中には理性で蓋をしようと頑張って視線を逸そうとする男もいる。そういう人にはここで叫んであなたに乱暴されたと先生に言う、と言えばもう姫子の言いなりだった。
「お嬢様、最近は前よりも肌艶がよくなられて。何かいいことがありましたか?」
タエは心配そうに姫子に尋ねる。慣れない仕事や辰巳の裏切りに姫子が傷ついていないか心配してくれているのだろう。
「大丈夫よ、私は仕事が大好きだから」
姫子は笑顔で返した。するとタエは緊張の糸が切れたような顔で安堵する。でもたまにタエは姫子が嘘を言っているのではないかと疑うような眼差しを向けてくることがある。
嘘は言ってない。本当のことも言わないけれど。姫子はたくさんの愛してくれる人を手に入れた。姫子の美貌の崇拝者たちは、姫子の前だと赤ん坊みたいになる。姫子を抱きしめてくれて、もちろん姫子も抱き返す。そして姫子にキスをして愛していると言ってくれる。
時々、男たちは全員馬鹿なんじゃないかと思うことがある。姫子は男たちの頭を撫でてやる。そうすると男たちは喜ぶ。
他の有象無象の男の肌は知っているけど、辰巳の肌はあの借り物の寝間着からはみ出したものしか知らない。きっとタエが見た商売女は知っている。分厚い鎧みたいな軍服の下を姫子は知らない。
でも、別に知らなくていい…と強がってみる。姫子には愛してくれる人がたくさんいるから。姫子は男たちに子供は欲しくないってことを言ってみた。辰巳にはこんなこと言えない。
男たちの反応はそれぞれで、「変わっているね」「母になってみたいと思わないの?」などなど。でも自分と姫子の間に子供ができてしまうと厄介だから、深くは聞いてこない。ちゃんと薬をくれる。医者だから、簡単に手に入る。