五話
翌日、雨はすっかり止んでいた。庭の草木は雨露を滴らせ、御影石はしっとりと湿っていた。
朝は湿った苔の匂いが充満していた。この匂いを姫子は嫌いではない。しかし、女中たちの中には頭痛を起こすものもいる。
栗花落家の朝は火の神と竈の神に祈りを捧げ朝食の用意を始める。基本的な献立は白いご飯、焼き魚──今日は焼き鮭と、汁物、季節の小鉢、お漬物、卵料理や水菓子が加わることもある。
朝、起きて辰巳が栗花落の家にいることにむず痒いものを覚えた。そして、昨日の夜中に二人で起きていたことが秘密を抱えているようで気分が高揚した。
彼が悪夢に魘され、珠の汗を浮かべ、呼吸が荒くなり水を求めたことを姫子だけが知っている。彼が悪夢を見たくないと願いながらも悪夢に出てくる戦友を忘れたくないと思っていることを姫子だけが教えてもらえた。祖父も母も、タエだってこのことを知らないのだ。
姫子だけが知っている。この優越感が朝を素晴らしい輝きで満たしていた。
朝食を食べ終わると、祖父は会社へ辰巳は屯所へ。そして姫子は女学校へと向かう。辰巳と祖父は表玄関から、出て行ったが姫子は裏玄関を使った。女子供は表玄関を使ってはならない。これは常識だ。
でも辰巳の妻になったなら、表玄関から出ることはできなくとも表玄関まで見送りに行くことができる。
裏玄関では、自動車が停まっていた。姫子を女学校まで送るためのものだ。顔馴染みの運転手が声をかけてくる。
「お嬢さん、昨日は大丈夫でしたかい?」
昨日倒れて運んでくれたから、体調を気遣ってくれているのだとわかるのだが、一瞬だけ夜中の辰巳との出来事を見透かされたのではないかと心臓が跳ねた。
「あぁ…えっと大丈夫です。心配ありがとう」
胸の中を辰巳で占めている。こんなこと、今までなかった。「まあ! 姫子さんお相手がいらっしゃったの。恋のお話がこんな近くに眠っていたなんて」友人の声が蘇ってきた。
後部座席に乗り込む。助手席に新聞が粗雑に置かれているのが見えた。
「…その新聞…」
「お嬢様も読みますか。酔わないように気をつけてください」
そう言って運転手は新聞を姫子に渡してくれた。一面には女性運動家たちが参政権を求めていることが報じられていた。世の中には、姫子が思いつきもしないようなことを実行している人がいることに、何か熱いものが込み上げてきた。
どうせ、女性に選挙に行ける権利があったとしても夫と同じ政党に票を入れさせられるだけだと思っていた。辰巳はどの政党に票を投じるのだろうか。やはり軍縮を掲げる今の首相は嫌いだろうか。
新聞を捲ると、小さく写真が載っていた。それは懐かしい感じがした。千歳花魁という人が引退する、客がそれを惜しみ彼女の最後に人が押し寄せた、という記事だった。その花魁は昔、髪結いが見せてくれた花魁だった。
前に見た時も、綺麗な人だと思ったがあの時のあどけなさがなくなり艶めかしい大人の女性になっている。花魁の意味は成長するにつれ、わかるようになってきた。栗花落の家の人たちは遊女という職を蔑むこともわかってきた。
車窓には雨に濡れた鮮やかな紅葉が日の光を受け、より鮮やかに鮮明に輝いていた。女学校に着くと、姫子は新聞を運転手に返した。遊女の写真が載っている新聞を見たなんて誰かに知られたら、はしたないと責められるかも知れなかった。
それどころか、昨夜辰巳に対して感じた淫猥な感情を誰かに気づかれてしまうかも知れなかった。あの時、姫子は確かに辰巳の逞しい腕で床に押し倒され、首を絞められたいと願ったのだ。
泡沫のように消える、一瞬の願いだったが確かに仄暗い願いを抱いた。
教室に行くと、友人たちが姫子を取り囲んだ。
「姫子さん、昨日は大丈夫でしたの? 急にお倒れになるから心配で…」
「ごめんなさい、少し体調が悪かったみたい」
友人たちは姫子に次々に、心配の言葉を投げかけお見舞いだとばかりにキャラメルや飴をくれた。ばれたら叱られるかも知れないが授業中にこっそりと食べた。
放課後は読書会の集まりがあった。姫子が倒れたことで感想を語り合うどころではなく、昨日は姫子が帰ったあとにそのまま解散になったそうだ。
読書会といっても、感想を語り合うだけでなくただの雑談に花を咲かせることもある。規則は緩い。
その中でも話題になったのは、今朝の新聞でも取り上げられていた女性運動家の話だ。彼女は本も出版しており、そのうちの一つを友人が読んでいた。友人は彼女の思想に共感し、自分も強い女性に憧れると言った。女性運動家の存在は姫子たちの間でちょっとした偶像だった。
「私、感銘を受けましたの! 何もしていなかった自分を恥じましたわ」
新しい風が吹いている、その熱狂にうら若き乙女たちも共感しているのだと思った。でもこの中の全員が、結婚して家庭に入ると決まっている。まだ婚約者がいなくて、縁談を探している途中の子もいるが、卒業後…否卒業を待たずに結婚するかも知れない。
鳥籠の鳥のようだった。自由に羽ばたくことを知らない鳥。金糸雀のように美しく囀るだけを求められる女たち。それが私たちなのだと、諦めに似た感情を姫子は抱いた。「女性も教育を受ける機会があるべきですよ」そう言って祖父を説得してくれた辰巳の声が蘇った。彼は進歩的な女性に理解があるかもしれない。
姫子は女学校の授業のおかげで少しずつだが、外国語の本が読めるようになってきた。これで辰巳の見ている世界を覗けるかも知れない。大人になったような気がしてわくわくした。
もっと勉強したかった。師範学校に行きたい。結婚を先延ばしにしたい。けれど、祖父は許してくれないだろうと思った。女学校に行くのも、祖父はかなり渋ったから。姫子が華族の奥様として、不足がないように早いうちに花嫁修行として滝元家に行った方がいいと思っていた。
祖父は姫子が相手の家に馴染めるかどうかかなり気を揉んでいるらしかった。あまり賢くなりすぎたら、生意気な嫁だと姫子がいびられやしないか心配している。
また、辰巳に頼めないだろうか。辰巳は待ってくれるだろうか。
自身の願いと、現実の難しさに悩みながら姫子は帰路についた。運転手は今日も安全に姫子を家まで届けてくれた。姫子が学校から帰った時に、丁度タエも大きな袋を抱えて買い物から帰ってきた。今日は珍しく大通りの方まで買い物に行ったらしい。
都会に浮かれて、タエは買い物に行くのが好きだ。母はタエの境遇を憐れに思って給金とは別に少しの心遣いをタエにこっそり渡す。けれどそれでタエは自分の買い物をしない。それすらも実家に送ってしまう。
けれども買い物の後は決まってタエは嬉しそうな顔をしていた。家主から頼まれた買い物なのに他に色んなものが見れるのが楽しいらしい。けれども、今日のタエはあまり嬉しそうではなかった。
それどころか、姫子をちらちらと見てきては何か言いたそうにしている。風呂から上がって髪をタエに梳かして貰っている時に姫子は思い切って聞いてみた。
「タエ、なんだか私に話したそうにしているけど何?」
そう尋ねると、タエは鏡越しでもわかるほど青ざめた。持っていた櫛が落ちる。こんなに狼狽しているタエを見るのは初めてだ。
「何か…あったのね」
姫子は震えるタエの肩を優しく掴んだ。これで震えが止まってくれればいいが。
「お…お嬢様…」
タエは覚悟を決めたように話し始めた。
「買い物に行くために今日は大通りの店を回ったんです。そうしたら、辰巳さんを見かけまして」
タエが辰巳を見かけたのはもう日も暮れようかという薄暗い時間帯だった。夕焼けの鮮やかな橙色が辺りを染めていたという。ガス燈の灯りもつき始めていた。
タエは辰巳が女と腕を組んで歩いているのを見たと言った。間違いなく、あれは辰巳だったと。女は親しげにしなだれかかり花街の中へと消えて行ったという。だから、その女は商売女だろうと予想がついた。
「辰巳さんは、誠実なお方だと思っていました。お嬢様が結婚相手なのに、他の人にうつつを抜かすなんて…!」
タエは震えながら怒っていた。タエは辰巳という存在に少し恋をして、尊敬していたのだと思う。それこそ姫子たちが女性運動家を偶像として崇めているように。だから、その理想を壊されたことに怒っている。そして自分が世話をするお嬢様である姫子が裏切られたことにも怒っている。
「本当に、辰巳さんだったの?」
姫子は尋ねた。
「間違いありません。昨日、辰巳さんの上着をお預かりした私が見間違えるはずありません。軍人さんの階級には詳しくありませんが、あれは辰巳さんの服で顔は辰巳さんでした」
姫子はタエの真剣な眼差しに、嘘はついていないと思った。そしてそれが真実なのだと受け止めると、なぜだか泣きたくなってきた。そうか、辰巳は姫子のことを好きではないのか。家同士の繋がりで仕方がなく結婚するのか。
姫子は二番目だった。否、三番目か四番目かはたまた圏外なのか。姫子と辰巳は歳が離れている。そして姫子のわがままで結婚が先延ばしになった。だから、辰巳はそれまでの間に自分の欲を持て余して商売女に走ったのだろうか。
それとも、姫子に出会うよりも先に恋人がいたのだろうか。辰巳にとって姫子は幼子を相手にしているようなものだったのだろう。
そもそも、昨日魘されていた辰巳は本当に戦友の夢を見たのだろうか。恋人の女との夢を見たのではないだろうか。戦友の名前なんて呼んでなくて、愛しい人の名前を呼んだのではないだろうか。
色々なことが溢れ出した。辰巳に聞きたかった。「あの人は誰ですか? 私のこと好きですか?」と。すると、父が母に口答えする女はいけすかないと手を上げたのを思い出した。辰巳の意思に沿わなければ姫子はいけすかない女として打たれてしまう。
姫子と結婚しても、別の女と関係を続けるつもりだろうか。妾として囲うかもしれない。そうしたら、辰巳は姫子の元へは帰ってこない。妾宅で楽しく過ごすのだろうか。
父が言っていたことを思い出した。
──父様は姫子が好きなんだよ。これは母様には秘密にしなきゃいけないよ。
──父様を裏切ったら、姫子を愛してくれる人なんていなくなるからね。孤独になってしまうぞ。
──母様は体が弱いからね。姫子が母様の代わりをしなきゃいけないよ。
──好きだよ、姫子。こんなことするのは姫子が好きだからだ。
孤独になってしまった。姫子を愛してくれる人はいなかった。父の元から離れたから、姫子は誰にも愛されなくなってしまったんだ。
どうして、男は妾を囲っても許されるのだろう。郭遊びをしたって咎められることはないし、むしろ男の嗜みのように扱われる。女は貞淑であることを求められる。
これからどうすればいいのだろうか。目の前が真っ暗になりかけた。でも、真っ暗になったら嫌な夢を見ることを知っているので姫子は爪が食い込むほど拳を握りしめることで意識を保った。
辰巳と結婚して空虚な人生を送るのをただ待つのは嫌だ。なぜ、辰巳は誰かを好きになるのが自由で姫子は辰巳に尽くすしか選択肢がないのだろう。
貞淑で控えめで、ずっと一途に夫を思っている妻になんてなってやるものか! そんな男の理想の具現化になんてなってやらない。都合の良い存在になりたくない。
辰巳が最初に裏切ったんだ。姫子が裏切ったって文句を言わせない。
誰か愛してくれる人を探さなくては。姫子を真に想い恋慕って、首を絞めてくれる人でなくてはいけない。体格差に物を言わせて、重い体でのしかかって姫子の自由を奪う人がいい。辰巳はそうしてくれると思っていたが見込み違いのようだ。
彼には他に好い人がいて、姫子を愛してくれない。