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四話

 「お嬢様、目が覚められましたか?」


 女中のタエが、心配そうにこちらを見ていた。タエはねぇねの一人が結婚して家庭に入ったので、新しく雇った子だ。田舎から出てきたばかりで、姫子と一番歳が近かった。


 「私…いつの間に帰ってきたの?」


 見慣れた天井を見つめながら、尋ねた。


 「学校で倒れられて、車で家まで運んできたんですよ。奥様は心配なさって寝込まれてます」


 姫子は張り詰めていた糸がぷつりと切れて、泣き出した。


 「タエ、私怖い夢を見たのよ。でも現実の方がもっと怖いわ。お母様の死んでしまうかも知れないもの」


 母が死んでしまったらどうしよう。そうしたら、姫子は涙が枯れるまで泣くだろう。母の遺体に縋り付いて、人目も憚らずに大泣きをする。そして白く冷たくなった母の頬を撫でる。手を握って、さすったりして体温が戻ることを期待する。

 自分の体温を分け与えて、母が生き返ることを望むだろう。棺桶に入れられた母を燃やさないでと泣き叫ぶはずだ。母が死んでしまったら、姫子は悲しさで胸が張り裂けるだろう。そして中から汚いものがどろどろと溢れ出してしまうに違いない。


 母に申し訳ないと思う。でも、どうしようもなかったのだ。幼い姫子には、父と母を繋ぎ止めておく方法なんてわからなかったのだから。だから姫子は母が死んでしまったらその葬儀に父がいないことを申し訳なく思い、悲しく思い、そしてちょっとだけ安心するだろう。そして安心したことにひどく罪悪感を抱くはずだ。


 「大丈夫ですよ、お嬢様。奥様は死にません」


 手拭いでタエが涙を拭いてくれる。


 「泣いてしまったら、目が腫れてしまいますよ。辰巳さんが、お見舞いに来てくれています。お会いになりたいでしょう?」


 タエはとっておきの秘密を打ち明けるように辰巳の来訪を告げた。タエは他のねぇねたちと同じように、辰巳が来るとのぼせたように茹蛸のように顔を真っ赤にする。タエはちょっとだけ辰巳に恋をしている気がする。でも、タエには白粉を叩いてそばかすを隠すことはしない。彼女は白粉も、紅も持っていない。給料の全部は自分の田舎に送ってしまっている。


 タエは夜中に内職をする。誰かから頼まれた繕い物をする。羽織が一枚、二圓五十銭。袴が二枚、二圓四十銭。襦袢が三枚、四圓五十銭、とタエはにやにやしながら数える。でも、文字を書くのが苦手だから、ねぇねたちが可哀想に思って帳簿をつけてやる。

 タエはその帳簿に嘘が書いてあっても気づかない。でもこの家に嘘をつく人はいない。いるとするならば、姫子が意図的に嘘を吐こうと思った時だけだ。


 姫子が起きて、支度を整えて応接間に行くと祖父と辰巳が将棋をして待っていた。辰巳がいることは聞いていたが、祖父が会社から帰ってきていたことは知らなかった。


 「辰巳さんこんにちは。…お祖父様、会社にいる時間では?」


 祖父は盤から顔を上げて姫子を見た。


 「姫子が倒れたと聞いたからあとは部下に任せて帰ってきた。医者にも診せたが疲れが溜まっていると言われたな。もう大丈夫か?」


 「はい。ちょっと疲れていただけだと思います。それよりお母様まで寝込まれたと聞きましたが…」


 姫子はここに姿のない、母を心配した。


 「母さんに顔を見せてやれ。それで元気になるはずだ」


 祖父はそう言って、辰巳との対局に戻った。辰巳は「姫子さんが回復されたようでよかった」と言った。二人は難しい顔をして将棋盤を見つめている。姫子は将棋はわからないが、何となく辰巳が勝ってるように見えた。手元にある駒が多い。きっと祖父から奪ったのだろう。


 祖父は「のらりくらりと躱しおって…」と呟き「接待はするな、とそちらが言ったでしょう」と笑った。そんな二人を残して、姫子は母の部屋に行った。


 母は布団の中にいたが、目は開いていた。姫子が来たとわかると涙を流した。


 「よかった姫子。目を覚ましたのね。ごめんなさいね、そばにいてあげられなくて。私の体質が姫子にも受け継がれてしまったのかと心配しましたよ」


 母は上半身を起こして姫子を抱きしめた。母から香水の匂いはせず、石鹸の匂いがした。それは安心すると同時に何だか母の匂いじゃない気がした。


 「私はもう大丈夫です。日頃の疲れが溜まっていただけだわ」


 「真面目なのはいいことだけれど、倒れてしまわないようにね」


 母は姫子の髪を撫でて、しばらくすると泣き止んだ。女中たちに手伝ってもらいながら、着物を着て髪を整えた。久しぶりに化粧もして、母は嬉しそうだ。


 祖父と辰巳の対局は白熱しているようで、祖父は辰巳に夕食を食べていけと言った。でも本当は夕食の後の酒に付きあわせたいのだろう。この家には祖父に付き合えるほど酒を飲める人間がいないから、たまには一緒に呑みたいのだろう。


 夕食は女中たちが張り切って用意した。母と姫子の体調がよくなったことの祝いもあったが、大食漢の軍人さんに満足してもらう夕食を作るために腕を振るっていた。


 一粒一粒米が綺麗に立った艶のある栗ご飯。七輪で秋刀魚の塩焼きにかぼすを添える。鰹のたたきは粗塩が添えられた。きゃべつのお浸し、里芋の煮物、がんもどきのつけ焼き、大根おろし、三つ葉ひたし、煮豆。豆腐の味噌汁、ごぼうとにんじんの金平、ちょうどよい塩梅に漬かった胡瓜の浅漬け。そして湯呑に注がれた茶。


 食卓には沢山の皿が並んだ。これには軍のご飯を食べ慣れているであろう辰巳もちょっと驚いたような顔をした。でも、綺麗に全部食べてしまった。いい食べっぷりだった。辰巳と結婚するには大食らいにならないといけないだろうか。そうしないと釣り合いが取れないだろうか、と心配して姫子はタエに相談した。


 タエは呆れたような顔をした。そんなこと心配するより、食費と大量の料理を作る手間を心配しなくちゃなりませんよ、とタエは言った。

 

 「でも安心してください。わたしは六人兄弟の長女だから、料理もできるし子供の世話だってできるし…とにかく何でもできます。お嬢様は心配しなくたっていいんです」


 タエは笑顔で言った。タエは姫子が結婚する時に自分も連れて行って貰えると思っている。連れて行ってもらいたそうだ。タエを雇っているのは本当は母の仕事だけど、今は女中頭に一任されている。母は使用人の管理ができるほど体調が良くないから。タエを連れていくには許可がいる。でもきっと許して貰えるだろう。姫子が真摯に頼めば、祖父も母も許してくれるし、女中頭はその決定には逆らえない。


 祖父と辰巳は予想通りに、夕食の後に酒を飲み交わし始めた。姫子は水の一滴でさえ入らないほどに腹が膨れていたから、まだ飲んで肴も食べる二人に驚いた。


 その間に、姫子は沸かしてもらった風呂に浸かった。タエはいつも好きな時に風呂に入れるのは贅沢なことだと溢していた。彼女の田舎では川で体を洗うらしい。

 姫子は綺麗好きだ。常に自分の体を清潔に保っておきたい。そうでないと、内側から腐っていくような気がした。


 父は姫子を綺麗にさせたがった。それは服で飾り立てるのもそうだし、よく風呂に入れた。だから、父がいなくなったあとも姫子は父の言いつけを守りよく風呂に入る。髪の毛をよく洗う。父が綺麗だって言ってくれたから。


 でも風呂に入るには女中たちが井戸から水を汲んできて沸かさないといけない。浴槽をいっぱいにするには何度も井戸まで往復しないといけない。彼女たちはいつも大変そうだ。


 風呂を上がった頃に、雨が降ってきた。小雨から直ぐに土砂降りになり雷鳴が轟いた。祖父は辰巳に今日は泊まっていけ、と言って彼が断るより先に女中たちに客間に布団を準備するように言いつけた。


 辰巳がこの家に泊まるなんて、今までなかったことだ。部屋は違えど、辰巳が同じ家で布団に横になっているなんて姫子は不思議な感じがした。


 いつか、不思議ではなくなるのだろうか。隣で辰巳は眠るのだろうか。祖父も母も、こんないい人はいないと言う。姫子を幸せにしてくれる人だと言う。それを信じていれば、幸せになれる。


 姫子は布団の中で目を閉じて、隣で辰巳が横になっている様を想像した。今、客間の布団で辰巳はどうしているだろうか。体を横たえ、窓の外の雨音に耳を澄ませているだろうか。


 そんなことを考えていたら、眠気なんて遠のいてしまう。水でも飲もうかと、姫子は部屋を出た。昔は暗い廊下を歩くだけで、怖かった。暗闇は冷えた蔵の中を想起させる。でも、栗花落の家は廊下は薄らと木の匂いがするから、ここは冷たい蔵の中じゃないと教えてくれる。


 暗闇の中から急に手が伸びてきたりしない。外では雷鳴が響いている。雨が打ちつける音がする。家だけが取り残されたように感じる。もしかしたらこの雨で川が氾濫して、ほかの家は流されちゃっているかも知れない。そんな不安に取り憑かれる。


 夜中にご不浄に出る時、いつもねぇねたちを起こした。でも、今は起こさない。一人で行ける。だから、一人で夜中に台所に水を飲みにいくことくらいできる。


 でも、台所に行くには客間の前を通らなければいけなかった。辰巳を起こさないように、そっと忍び足で進む。しかし、客間から魘されているような声が聞こえ、姫子は足を止めた。

 

 そっと客間の扉に耳を当ててみるが、やはり魘されている。やめてくれ、いかないでくれ、と言った懇願の中に誰かの名前を呼ぶ声がする。しかし、どんな名前なのかはわからなかった。


 今すぐにでも客間に入って、彼を悪夢から目覚めさせたかった。悪い夢を見る気持ち悪さは姫子にだってわかるから。しかし、客人が寝ている客間に無断で入ることはできなかった。


 どうすればいいのだろう。姫子は困惑した。祈るしかないのだろうか。辰巳が悪い夢から覚めるのを待つしか…。姫子はそのまま台所に向かう。そして自分の目的のため、水を玻璃の杯に注いだ。


 その時、台所の入り口付近で何かが動く音がした。お化けだ、瞬間的に姫子は思った。暗闇の中から手が伸びてくる想像が現実になってしまった。姫子は慌ててその場に蹲み込んで頭を抱えた。こうやって丸まっているのがせめてもの抵抗だ。


 「姫子さん…?」


 辰巳の声が聞こえて、姫子は顔を上げた。祖父から借りたのであろう寝間着は少し裾が短い。筋肉がついている体がはっきりとわかった。


 「灯りがついていたので。…大丈夫ですか?」


 辰巳はうずくまっている姫子を心配そうに見ている。


 「えっと…雷…雷が怖くて」


 ちょうど、その時窓の外が光った。そして雷の音が轟く。電球がちかちかと点滅し、停電の予感を感じさせた。


 「そうでしたか。私は水を貰おうと思いまして。こんな夜中に女中さんたちを起こすのも申し訳ないですし…」


 辰巳はよその家の台所を勝手に使って良いのか迷っていたようだ。それに辰巳は客人ということもあるが、滝元たきもとの家でも台所に近寄ったことはないだろう。屯所にも飯炊きなどをする人がいるかも知れない。


 「私もお水を飲もうと思ったんです」


 姫子は玻璃の杯を棚から出すと、女中たちが井戸から汲んできた水を溜めている水瓶から柄杓で水を注いだ。辰巳は台所の勝手がわからないだろうと思ったからだ。


 「ありがとうございます」


 そう言って辰巳は水を飲み干した。額には汗が浮かんでいた。やはり魘されて起きてきたようだ。夜中に辰巳と会うことなんてなかったから、不思議な気がした。姫子も水を飲みながら、夜中に辰巳と水を飲んでいるというだけで何だかいけないことをしているような心地になってくすぐったかった。


 辰巳の丈の合ってない寝間着から見える汗ばんだ素肌に、何か艶かしいものを感じて姫子の心臓は爆発しそうだった。


 「あの…眠れないんですか…?」


 姫子はおずおずと尋ねた。一瞬だけ、辰巳は虚をつかれたような表情をした。まさか幼い娘子に見透かされているとは思いもしなかったのかも知れない。


 「少し、嫌な夢を見てしまいましてね」


 辰巳は自分を少し嘲笑うかのように乾いた笑いを漏らした。情け無いと自分を責めているかのようだった。


 「大人でも、悪夢を見るんですか?」


 大人になったら悪夢は遠ざかると思っていた。否、願っていた。現実は悪夢より辛くて、いっそのこと夢であってくれと願うから。


 「大人だろうが、子供だろうが悪夢は見ますよ。いや、夢の方がよっぽどいい。現実よりはね」


 姫子の心を読んで、辰巳が姫子の望む答えをくれたのかと錯覚した。姫子と辰巳が同じ感覚を共有していることが嬉しかった。辰巳はこの感覚がわかるのだ。それがたまらなく嬉しい。


 「悪い夢を遠ざけるおまじないがあるんですよ」


 姫子は昔、ねぇねに教えてもらったことを思い出した。前までは夜中にご不浄に行きたくなった時は便所までねぇねたちのうちの誰かに付き添ってもらっていた。でもそれより前は、よくおねしょをしてしまっていた。怖い夢を見るからだ。


 だから、ねぇねはおまじないを教えてくれた。悪夢を見たら「昨夜の夢は獏にあげます」と三回唱えればいいと。そこから、姫子はこの夢喰い獏の改良を始めた。悪夢を見てしまったら獏に食べてもらう。しかし、悪夢を見ないために折り紙で人形ひとがたを折る。それが自分の身代わりになってくれると信じた。それを枕の下に敷いて寝ると、不思議と悪夢の回数は減った。


 「夢喰い獏に食べてもらうんです。そしてここからがとっておきなんですけど、折り紙の人形を身代わりに枕の下に敷くんです。辰巳さんの分の身代わり人形を作ってあげます!」


 姫子はそう言って、辰巳と自分の部屋に言った。辰巳は婚前の娘の部屋には入れないと最初は躊躇していたものの、姫子の押しに負け隅の方で姫子が小さくランプの灯りを頼りに折り紙を折る姿を微笑ましく見守っていた。


 姫子の身代わり人形は赤い着物を着た女の形だが、辰巳のは軍服を着た兵隊さんの姿で作った。折ったり切ったり貼ったりを繰り返して作り上げたものを辰巳に渡した。


 「これを枕の下に敷いたら、もう悪夢は見ませんよ」


 何かのお守りを辰巳に渡したかった。


 「ありがとうございます、姫子さん」


 辰巳は微笑ましくその折り紙の人形を眺めた。


 「戦友の夢を見るんです。彼はもういない。だから、悪夢だけれど会えるのなら、彼を忘れるよりいいんじゃないかと考えてしまうんです」


 辰巳はぽつりと溢した。それは辰巳が戦功を立てたという時の話だろうか。


 「若い娘の方に話すことではなかったですね。では、姫子さんおやすみなさい」


 そう言って辰巳は姫子の部屋を後にした。姫子は思わず引き止めたくなった。でもしなかった。彼に押し倒されたい。そして首を絞めて欲しい。

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