三話
「こうして、灰被り姫は王子様と結婚し末長く幸せに暮らしたのです」
端役の子がそう言って締めくくると拍手が沸き起こった。保護者から地域の老人たちまで暖かい笑顔でこちらを見ている。その中に辰巳の姿を見つけることは簡単だった。背の高い端正な顔立ちの男を見つければいいだけなのだから。
姫子は周りに気づかれないように小さく手を振った。辰巳は少し笑って小さく手を振り返してくれた。
煌びやかな衣装を着た姫子は皆んなと手を繋いで一礼した。劇をやり遂げた達成感はあったが、自分が演じた灰被り姫の最後にはもやもやするものを残した。
灰被り姫は王子様と結婚した。結婚したら幸せになれるのだろうか。死ぬまで、一生、幸せなのだろうか。不幸な時などないのだろうか。
結婚したら、子供をつくるのだろうか。父と母との間に姫子が生まれたように、祖父と祖母の間に母が生まれたように。女中のねぇねたちはいつか奉公の期間が終わったら結婚して子供を産んで幸せな家庭を作ることが夢だと言った。
姫子も辰巳と将来結婚する。結婚したら子供を産まなければならない。父の顔を思い出した。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
子供は欲しくない。
いつか父と母のように険悪になって、辰巳と別れて家に帰る日が来るのだろうか。辰巳は姫子を打つだろうか。そして姫子は「あんな酷い人と一緒にいるのはもう懲り懲りです」という日が来るのだろうか。
滝元家は華族のお家だ。辰巳に嫁ぐなら、姫子は子供を産まなければならない。辰巳が父親になるのはあまり想像がつかなかった。姫子も自分が母親になるのは想像がつかなかった。
辰巳は忙しい合間を縫って姫子の劇を見にきてくれていたらしく、姫子が衣装から着替え終わって他の子達が見にきた親たちと手を繋いで帰り始める頃にはもう屯所に戻らなければならなかった。
辰巳は本当は姫子を栗花落の家まで送って行きたかったらしいが、姫子は女中が迎えにきてくれることを待つことにした。
「見にきてくれてありがとうございました。ちょっとでもお話する時間があってよかったです」
「舞台、素晴らしかったですよ。私は演劇なんて向いてませんから主役なんてやったら台無しになりますから。姫子さんは凄いですよ」
辰巳は姫子を褒めた。そして名残惜しそうに、しかし時計に急かされながら屯所へ帰って行った。四十路くらいに差し掛かろうとしている担任の女教師が、姫子の迎えを教室で一緒に待ってくれた。
「栗花落さん、本はお好きですか?」
担任は国語の先生だった。
「絵のついたものなら、読みます」
「栗花落さんくらいの年齢の子にはこんな本なんて面白いですけどね」
そして先生は花塚 芽衣子という人の短編集を見せてくれた。文章は軽やかで、春に咲く甘い花の匂いを運んでくるかのようだった。
「とても素敵な文章です」
「気に入ってくれたならよかった。乙女世界という雑誌に詩や小説を載せている方なので、気になったら見てみてもいいかも知れませんね」
先生は教室で浮いている姫子を気遣ってくれたのかも知れない。それともお金持ちの家の子を贔屓しただけだろうか。栗花落家に取り入りたいのかも知れない。
それでも嬉しかった。先生は花塚芽衣子の短編集を姫子にくれた。それは姫子の愛読書になったし、祖父に頼んで雑誌を購読させてもらえるようになった。
******
辰巳が家に訪ねてきたとき、姫子はお気に入りの花塚芽衣子の短編を紹介した。姫子が好きなものを好きになってもらいたかった。
「可愛らしい話ですね」
辰巳は花塚芽衣子の小説をそう評した。辰巳はこういった話はあまり好んでは読まないようだ。しかし、歌人の句集を読んだりはするらしいので、意外と文化的な人だとわかった。
その日は体調がよかった母が、起きてきていた。暖かい日だったのに羽織を着込んでいた。
「辰巳さん、姫子の劇を見に行ってくれてありがとうございました。私が行けたらよかったんですけどねぇ」
その時、母は軽く咳き込んだ。母が口を抑えた手の指の隙間から黒っぽい血が垂れてこないか不安だった。姫子は母の側に寄り背中を摩った。
「お母様、大丈夫ですか」
「今日は調子が良いと思ったんですけれど、駄目ね。少し横になってきます。辰巳さん、応対できなくてごめんなさいね。姫子、しっかりおもてなしして」
母にそう言われて頼られることに自分が大人になって立派になったように姫子は感じた。大人になって背が伸びたら、背が高い辰巳とも釣り合える。辰巳の嫁は物凄く小さいなんて、馬鹿にされることはない。
夫が馬鹿にされるのは、妻として失格だ。だから常に夫を立てて静かにしていないといけないと祖父は言っていた。お前の祖母さんはよくできた女だった、と祖父はしきりに祖母を褒めた。姫子は祖母に会ったことはなかったが、祖父が新しい事業の波に飛び込んでいくのをいつも支えていたらしい。
祖父はよく、自分を船乗りに例える。祖母は祖父と一緒に嵐を乗り越えた人だ。祖父は姫子を祖母そっくりな立派な婦人にしたいと考えている。
姫子も、自身の夫になる辰巳が姫子のせいで馬鹿にされるなら、むかむかすると感じた。
姫子は花塚芽衣子の作品が好きだ。幸せになる、砂糖菓子のような甘い文章が好きだ。辰巳は歴史のある深い文章が好きらしい。姫子より難しい言葉をすらすら読めるし、軍の仕事の関係で外国語も読めるらしかった。
母は悲恋が好きだ。特に、恋が結ばれることはなく来世に希望を託し、心中する話が好きだ。姫子はどうしてそんな悲しい話が好きなのかと尋ねたことがある。
「幸せな話だと、嫉妬しちゃうでしょ」
母はそう言った。だから、母は末長く幸せに暮らしましたなんて結末の劇を見にこなくてよかったと思う。もし見にきていたら母は、主役の姫子に嫉妬してしまったはずだ。自分の結婚がうまくいかなかったから、母は結婚して幸せになる話が嫌いだ。
そして、父を奪った姫子のことも嫌いなんじゃないかと思う。だから、母は姫子から父を引き離したのだ。
母は姫子に父のことを忘れさせたがっている。自分の失敗をまざまざと見せつけられたくはないから。
「姫子さん」
その時、姫子は辰巳に呼ばれた。
「私はそろそろお暇しようと思います」
「えっ…。でもまだ来たばかりじゃないですか」
壁掛け時計を見やる。辰巳が栗花落家を訪問してからまだあまり時間も経っていない。
「お母様の側にいてあげてください」
辰巳はそう言って外套と軍帽を手に取った。一瞬、姫子は心を見透かされたんじゃないかと思った。体調が悪い母は心配だ。また布団から出られない日が続くだろうし、姫子はいつも母がぽっくり逝ってしまうのではないかと不安だった。
「あの…ありがとうございます。でも次はちゃんとおもてなしさせてくださいね」
姫子は辰巳に笑顔を返した。この人が優しい人でよかった。結婚するなら、酷い人より優しい人がいい。それでも不安はよぎる。いつか嫌いになってしまう日が来るのではないかと。
末長く幸せに暮らす、そんな結末が現実に存在すると姫子は信じていない。
******
尋常小学校の卒業の時期が近づいてきた頃、祖父は祝言の準備を始めようとした。しかし、姫子は上の学校に行かせてくれ、と頼んだ。
師範学校に行って教師になりたかった。教師になれたら沢山の本が読めると思った。当然、祖父は反対して祝言の準備を押し進めようとしたが、姫子を助けてくれたのは辰巳だった。
「女性も教育を受ける機会があるべきですよ」
辰巳はそう言ったがなかなか祖父が了承しなかった。早く姫子を結婚させて滝元家との繋がりを、華族との繋がりを強化して事業を広げたいと考えていた。
姫子の強い嘆願と、辰巳の説得もあり祖父は祝言の時期を姫子が女学校を卒業する時期までずらしてくれた。女学校は成績優秀でなければならないのと、月二円以上の学費を支払えるような家の子でなければならない。米が二十キロ近く買えてしまうほどの金が毎月出るとなると相当な出費だ。
しかし、栗花落家には姫子の学費を出せる余裕があった。辰巳の説得の中にあった「賢い妻を持つことは美徳です」という言葉に祖父は祖母の存在を重ねたのか、姫子の願いを聞き入れてくれた。
辰巳が姫子が女学校に行くために説得してくれたことが嬉しかった。
「辰巳さん、私のわがままを聞いてくれてありがとうございます」
姫子は説得が終わった辰巳に礼を言った。辰巳は少し不思議そうにした後に悪戯っぽく微笑む。
「貴女を幸せにするのは、私の義務ですからね」
「女学校で、私…外国語の勉強がしたいです。辰巳さんが読んでる本を読んでみたいです」
辰巳はその言葉が意外だったのか、少し驚いたように目を瞬いた。
「姫子さんならすぐ読めるようになりますよ」
その言葉が信頼されているようで嬉しかった。
女学校では周りがお金持ちばかりという環境のおかげか、妬まれることはなかった。本繋がりで友達もできて、読書会も立ち上げた。
空き教室を借りて、本の感想を語り合う。そんな時、ぽつりと友人が溢した。
「姫子さん、近ごろとみに……なんていうのかしら、とてもおきれいになられたわよね?」
そこへ別の友人が口をはさむ。
「あら、姫子さんは元からシャンだわ。美術の先生から素描のモデルに指名されたくらいですもの」
「あれは……私、美術が不得手だから、引き受ければお点がいただけるって聞いて」
姫子がもじもじしながら謙遜するが、友人たちは容赦なく好奇の目を向けてくる。
「もかして、お輿入れがきまったとか?」
「まさか。華族のお嬢様じゃあるまいし」
友人たちが盛り上がっている。姫子は友人たちに辰巳という婚約者がいることを明かしたことはなかった。尋常小学校の時はあの年齢で婚約者がいる方が珍しかったのでわざわざ目立って余計に浮くようなことをしたくなかった。
しかし女学校では寿退学もあることから、婚約者が決まっている人も少なくない。辰巳の存在を隠せとも言われていないのだから明かしてしまってもいいのかも知れない。
「祝言は…卒業してからという約束で…」
姫子は少し恥ずかしがりながらも婚約者がいることを明かした。
「まあ! 姫子さんお相手がいらっしゃったの。恋のお話がこんな近くに眠っていたなんて」
「どんなお方?」
友人たちが身を乗り出して聞いてくる。
「えっと…背が高くて、肋骨服がよく似合う…」
「軍人さんなのね」
友人たちは頬を赤らめてはしゃぎ出した。恋愛小説みたいな恋を求めている。しかし、残念ながら姫子には友人たちが期待しているような話はできない。
「黒くてかっこいい軍馬を持ってらっしゃるの」
姫子がそう言うと友人のうちの一人が夢想するようにうっとりとした。
「馬に乗って現れるって異国の王子様みたいじゃありませんこと!」
王子様──その言葉に、劇の思い出が蘇った。灰被り姫は王子様と結婚し、末長く幸せに暮らす。姫子にとっての王子様は辰巳なのだろうか。辰巳の説得と許しのおかげで姫子は今、女学校に通えている。そのことに感謝している。幼い頃から優しくしてもらえて、辰巳のことを尊敬している。好きな人だ。しかし、それは恋しているのだろうか。
恋愛として、辰巳を好きなのだろうか。夫として辰巳を愛せるだろうか。そもそも、自分が人を愛せるのだろうか。暗い景色が蘇ってきて、姫子は吐きそうになった。
「姫子さん、顔色が悪いけど大丈夫?」
「私たち、ちょっとはしゃぎすぎましたわ。ごめんなさい」
友人たちが心配そうに顔を覗き込んでくる。しかし、それすら視界に入らない。そして視界は暗転した。