十三話
「ほら見て、この新作の紅。顔の印象が華やかになってとっても千代子に似合うわ」
姫子は千代子を鏡台の前に座らせた。千代子はぼうっと自分の唇に塗られた紅に魅入られている。姫子は千代子の肩に手を置き、自分も鏡に映る。
「ねぇ、お化粧をしたら私たち本当の姉妹みたいにそっくりね」
姫子が微笑むと、千代子の顔は赤くなって照れた。姫子の唇にも同じく塗られた新作の紅はあどけない少女の顔でありながら妖艶な雰囲気を感じさせた。
「そんな! 私はお嬢様みたい白くないです。畑仕事で日焼けしちゃってるし…」
姫子は鏡越しに千代子を見つめた。
「大丈夫よ。白粉で誤魔化せば日焼けなんてばれないわ。そのうち、本当に肌が白くなるわよ」
千代子が姫子の言葉に唾を飲み込んだのがわかった。彼女は自分の日焼けした肌と姫子のきめ細やかな肌を比べたのだろう。そして、姫子が使う化粧品を使えば自分も姫子のような肌になれると期待したに違いない。
姫子は千代子に濃い化粧を施した。まず、日焼けしてしまった肌は白粉を重ねて白珠のような肌に。唇には紅を引いて、眦には長めに線を引いて目の形が違うように見えるように。
鼻や頬骨の下にはくすんだ色の白粉を使って立体感を出し、顔の形や鼻の形が違って見えるようにした。
そして姫子は千代子に寄せた化粧をすると、背格好が似ている二人が並べば雰囲気は似て姉妹のようにも見えた。
祝言の日がやってきた。この日ばかりは姫子は軟禁状態を解かれ、支度部屋として白無垢が置かれている部屋で女中たちに着付けをされていた。準備が終わると女中たちは退散し、監視役として千代子が残った。
姫子は姿見の前で白無垢姿でくるりと回転してみせる。
「お嬢様、とってもお綺麗です!」
千代子は手放しに褒めてくれる。
「ねぇ、千代子。着物、交換っこしない?」
姫子は無邪気に尋ねた。千代子は慌てたように首を振る。
「そんな、できませんよ。せっかく準備したのに。ほら、それに祝言まで時間がないし…」
千代子は必死に姫子の美しい白無垢姿から目をそらそうとしている。真正面から改めて見てしまったら、羨ましいという気持ちが膨れてしまうのがわかっているのだろう。
「時間までに戻ればいいわ。それに一度くらい袖を通してみたってばちは当たらないわ」
表玄関の方では神前式を執り行う神社の神主たちとのやり取りであったり、式後の食事だ何だと母や女中たちがばたばたと忙しそうに駆け回っていた。
姫子はお色直しの色打掛や煌びやかな簪を見せて、誘惑した。
「ねぇ、綺麗な簪でしょう。ちょっと髪に差してみたって、ちょっとお化粧してみたっていいじゃない」
年頃の娘はこういったものに憧れる。しかも今まで畑仕事ばかりしていて女っ気がなかった千代子は、姫子に可愛がられて自分が変身できると知ってしまった。だから欲が出てくる。もっと、もっと美しくなれる。
「千代子にも幸せを分けてあげたいの。私たち姉妹同然だもの! 今日しかない祝言の日を楽しみましょうよ」
ちょっとしたいたずらだ。二人だけの秘密。姉妹の秘密。祝言が始まる前に戻れば大丈夫。姫子は甘い声で囁く。千代子は熱に浮かれたように美しい着物や簪に見入っていた。
姫子は千代子の後ろに回って色打掛を千代子の体に当ててみた。
「ほらやっぱり。よく似合うわ。白無垢だってきっと似合うわ」
ちょっとだけ、ちょっとだけだから。そう言って押し切って姫子と千代子は着物を交換した。白無垢姿になった千代子に手早く顔を姫子に似せるような化粧をして、綿帽子を深く被って、俯いているように言いつけた。
「そこに座って待ってて。私、ちょっと散歩してくるから」
姫子が笑顔で支度部屋を出て行こうとすると、千代子は白粉でも隠せないほど顔色が変わった。慌てて姫子を引き止めようとするが、着物の重さに足を絡れさせる。
「お嬢様、駄目ですよ。ばれたら大変なことになります」
「ばれないわ。でも、そうねぇ…ばれたらあなたは怒られちゃうわね。そうならないために、そこでおとなしく俯いていて」
姫子は蠱惑的に微笑んだ。千代子は何かを言いかけたけど、直前になって言葉を飲み込んだ。自分が陥れられた状況に気づいたのかもしれない。
姫子は栗花落家のお嬢様であり、千代子はただの女中でしか無いことを。女中が家人の着物を勝手に着たようにも見える。それは姫子の証言次第だ。
どれだけ、可愛いやら姉妹同然だと言われても雇っている側と雇われている側の溝は埋まらない。褒められて、煽てられて、可愛がられて、千代子は少し勘違いをしてしまったようだ。
姫子は騙した側が思うのも何だが、そのお頭の弱さはどうにかした方がいいと思った。同じ文盲でもタエの方がよっぽど賢かった。
姫子は女中の格好で、静かに裏玄関に向かった。表玄関には滝元家の人たちやその応対に追われる母や女中たちがいるだろうから。
裏玄関からそっと外に出ようとしたが、裏玄関にも人の気配を感じ、窓から外に出た。きっと裏玄関には食事を手配した女中と届けにきた人がいるだろう。祖父が祝いの席だからと、寿司や何やら奮発して用意したはずだから。
裏玄関が使えないとなると、庭木に登って塀を越えるしか家の敷地内から抜け出す方法はない。姫子は庭木で一番大きく丈夫であろう桜の木に向かった。
早くしなければ、千代子の身代わりがばれてしまう。姫子は焦っていた。桜の木を目の前にしたとき、姫子は不安に襲われた。木登りなんてやってこなかったから、こんな状況で初めてやらなければならないことに関してもそうだったが、逃れたとして何をすればいいのかわからなかった。
祖父や母たちが危惧したように、姫子も累の後を追うべきなのだろうか。しかし、一人で死ぬのは怖かった。毒もない、毒を混ぜるワインだってない。何よりもう累がいないことが苦しかった。
それでもこのままおとなしく家にいれば、結婚させられる。今まで監視の目が厳しかった。祝言の日までおとなしくすることで油断させたのだ。祝言の日まで来てしまえば、もう逃られないと祖父はたかを括っているだろう。
桜の太い枝に、手を伸ばした時だった。
「そこの方。どこに行かれますか」
低い男性の声だった。姫子もよく知っている声だ。姫子は恐る恐る振り向いた。そこには軍の礼服を着て腰からサーベルを下げた辰巳が立っていた。
「姫子さん」
辰巳は優しく姫子の名前を呼んだ。逃げだそうとしたことを咎めることはしないというように。どうして新郎が庭なんてほっつき歩いているのだろう。逃げだそうとしている花嫁も大概だが。姫子は頭を抱えたくなった。
「いつか、花見をしようと約束したことがありましたね」
辰巳はなぜ、昔の花見の約束の話を今したのだろうか。辰巳は本題を隠していると思った。
「結局、毎年仕事で約束を守れずに申し訳ありません」
姫子は自分の不安や恐怖を隠すように、辰巳を睨みつけた。生意気だって打たれても良かった。
「何が言いたいんですか?」
姫子は冷たく尋ねた。
「あなたを蔑ろにしてしまったことを申し訳ないって思っているんです」
それは自分にも姫子という婚約者とは別に恋人がいることを申し訳なく思ったいるという意味だろうか。申し訳なく思っていても、姫子を大切にするために恋人との関係を切る、などしないあたりこの人は本当に申し訳ないと思っているのだろうか。
だが、そんなことはどうでもいい。姫子だって累という恋人がいたのだから。お互い様だ。
「謝らなくていいです。私も謝りませんから」
姫子は決めていた。累を愛したことを恥じないし、悪しきことにはしたくないと。堂々としていたかった。彼を愛したことを間違っていたとしたら、姫子の気持ちを自身で踏み躙る行為だし累にも失礼だと思った。
「私、あなたと結婚できません。子供を産んであげられません。跡継ぎは恋人さんに産んでもらってください」
姫子は目を逸らさずに言い切った。目を逸らしたら負けだと思った。
「恋人…? 何のことですか。姫子さんと婚約を結んでから、私に恋人はいません。あなただけです」
辰巳は冷静だった。恋人の話題を出せば、彼は動揺するかと思っていたがそんなことはなかった。それどころか、本当に何のことかわからないように見える。
「ご…誤魔化さないでください。タエが見たんです。あなたが商売女と歩いてるところ。花街に消えていくところ」
辰巳は首を傾げて何か考えているようだった。そして合点がいったというような表情をした。
「軍の付き合いで、料亭などにいくことはありました。そこで私の相手をしてくれたのが、吉乃という芸者です。誓って肉体関係はありません。彼女には宴席に花を添えるために、三味線を弾いてもらっただけです。付き合いで行く時に何度か顔は合わせましたが、相手も商売です。そのところは弁えていますよ」
じゃあ、姫子がタエから聞いたのは店から迎えに来た吉乃と歩く辰巳の姿ということなのだろうか。しかし、辰巳がその吉乃という女と一緒に歩いている姿を目撃したのは一度ではない。タエには頼んで何度も尾行してもらったのだから。
「あなたの恋人だった星野累さん。彼は幼少期、孔雀屋という女郎屋にいたそうですね。吉乃も禿として孔雀屋にいたそうです。孔雀屋は火災に遭って、全ての遊女を食わせていくには金が足りなかった。楼主の伝手を頼って吉乃は帝都の花街の置き屋で暮らすようになったそうです。累さんの身辺調査をする際に、吉乃に話を聞きましたが、軍の付き合い以外で会ったのはそれだけです」
辰巳は淡々と語った。一つ一つの誤解を正すように。先生がつきっきりで生徒に教えるように丁寧に。姫子は茫然とした。では、今まで勘違いをしていたのか。辰巳には恋人がいるという勘違いを。
「いくら付き合いとはいえ、あなたには不快ですよね。あなたに誤解させてしまって申し訳ありません」
姫子は言葉が出なかった。何か喋ろうとしたが、舌が絡れた。では、姫子が裏切られたと感じたこと自体が勘違いだったのだ。今まで信じてきたことが崩れていくような気がした。
辰巳を誤解しなければ何か違っただろうか。それでも、姫子は累と出会わなければ過去の傷を直視して克服することはできなかった。累がいなければ今も、傷を癒すことはできない。
「私はあなたを誤解で裏切ったのに、どうして結婚しようとするんですか?」
姫子は尋ねた。捨てられても仕方がないのに。姫子の問いに辰巳は穏やかに笑い、なぜ当たり前のことを聞くのか…というような表情をした。
「あなたを大切にしようと誓ったからですよ。出会った時から、あなたを幸せにしようと思っていました。でも最初の頃はあなたのことを義務感で幸せにしなければと思っていました。でも、私が悪夢で苦しんだ時に寄り添ってくれたから私は心からあなたを幸せにしたいと思ったんです」
姫子は辰巳からの一途な思いを知って胸が痛かった。この人の気持ちを裏切り続けたのだと。しかし、だからといって姫子が改心して結婚することはできなかった。累のことが好きだ。何より彼は姫子にプラトニックな愛を証明してくれたのだから。
「私、幼少期に父から酷い目に遭わされました。その時から生娘ではありません。辰巳さん、あなたはいい人だと思います。でも、私は子供を産みたくありません。そういう行為をするのも怖いし、気持ち悪いです」
姫子の悲痛な叫びを聞いて、辰巳は驚いたように瞳を揺らし険しい顔をした。そこには、姫子の過去への驚きと父への怒りが感じられた。祖父は姫子の父から受けた苦痛を辰巳には話していなかったのだろう。
「それは…さぞ、歳が離れた私のことも怖かったでしょう」
「……ごめんなさい」
姫子は心苦しくなって謝罪の言葉を述べた。でもこれは累を愛してしまい、辰巳を裏切った謝罪ではない。辰巳に父を重ねてしまったことへの謝罪だ。
姫子が累に出会わなければ。何も問題なく辰巳と結婚していれば。姫子は辰巳に父がしたことと同じことを求めただろう。首を絞めたり、縄で縛ったり、打ったりといったことを。それが愛だと思っていた。
累と出会わなければ、姫子は愛を苦しいものだと思い込んでいただろう。ずっとそのまま。
「あなたはここから逃げて、累さんの後を追いますか?」
辰巳は静かに尋ねた。どこか悲しそうな声だった。姫子はその問いに答えられなかった。自分でもまだはっきりとはわかっていなかったから。
島の輪郭さえ見えない大海原に一人放り出され、漂流している気分だった。
「……わかりません」
姫子がそう言うと辰巳は何かを決めたように頷いた。
「あなたが絶対に自死に走らず、天寿を全うすると約束してくれるなら結婚の話は無しにしましょう」
辰巳の提案に、姫子はすぐには頷けなかった。
「どうして…?」
辰巳にとって利益のない話にしか思えなかった。滝元家は斜陽の華族一族だ。いくら辰巳が真面目に国に仕えても、一人の給料では家を支えられないところまで来ていた。滝元家は代々の浪費が重なって、破産寸前だ。それを栗花落家の援助で生き長らえていた。祖父が、弱みに漬け込んだのだ。
「あなたを幸せにしたいからです。私は、あなたを性的に搾取したいわけでも苦しめたいわけでもない」
姫子は辰巳の言葉を聞いて、涙が一筋溢れていた。辰巳の想いに応えられないからといって、彼の想いが無価値だと決めつけてはならない。累の愛が崇高なものだったように、きっと辰巳の想いも累に負けないもののはずだ。
きっと姫子は辰巳に大切にされていたのだろう。それを知るのがこんなに遅くなってしまった。
姫子は辰巳と約束した。絶対に自死には走らないことを。彼は戦争で苦しんだ。彼にとって自ら死を選ぶということは決して許せないものだったのだろう。
辰巳はどうやって滝元家と栗花落家を丸め込んだのか知らないが、約束通り結婚をなかったことにしてくれた。祝言当日での急の取りやめに両家からの反発はあっただろうに、彼はそれに苦戦している様子を一切姫子に見せなかった。
そして姫子が望まない結婚をしないように栗花落家から引き離して貰えた。祖父は最後まで反対していたが、なんと母が祖父に反抗し説得を手伝ってもらえた。「これで許されたなんて思っていません」と母は言った。母は姫子に贖罪をしようとしたのだろう。
母が姫子の幸せが結婚だけではないと気付いてくれたことが嬉しかった。
姫子は辰巳の伝手で、栗花落家からも滝元家からも離れた地方の病院で働き始めた。彼とは年賀状をやり取りする。彼は遠くから姫子が約束を守るかどうか見守っているのだろう。
姫子は毎年、累の墓参りに行く。崇峰に場所を教えてもらった。墓参りに行くと、累に会えるような気がする。返事のない話を長々と話して、姫子は毎回名残惜しくなりながらも墓を後にする。
姫子は自分で働いた金で、師範学校に行った。看護婦をしていた経験から、学校看護婦となった。手紙で辰巳に近況報告をすると、辰巳は喜んだ様子の返事をくれた。彼は家督を弟に譲ったらしい。
栗花落汽船は風の噂で、業績も良く順調だと聞いた。滝元家は栗花落家の援助に頼らない方法を模索していくという。
姫子の頭にはいつも累から貰った翡翠の簪が輝いている。




