十二話
「大変、申し訳ないことをした。辰巳さん。姫子があんな馬鹿なことをしでかすとは思わなかった。あの子の行動力を甘く見ていたわしの失態だ。こんなことになるなら、社会勉強などといって外で働くことを許すんじゃなかった」
栗花落 慎介は頭を下げた。畳に手をついて拳を握りしめる。爪で畳が削れるような感覚がした。辰巳には姫子の醜聞を口外しないように多額の金を積んだ。滝元家に支援している額よりも、もっと多くの金を。
「都合のいいことだとはわかっているが、どうか栗花落家との縁を切ろうだなんて考えないでくれ。姫子は…あの馬鹿はわしの妻の実家に送って閉じ込めることにする。代わりの婚約者として、姫子の従姉妹の鶴子なんてどうだろうか」
慎介は畳を見つめていた。会社を時代の流れに合わせるため、そして大きくするため、頭を下げるのには慣れている。しかし、これほどまでに申し訳なく切腹してでも詫びたいと思いながら、頭を下げるのは初めてだった。
「顔をあげてください」
辰巳の声に怒りは混じっていなかった。自分より歳上である慎介に頭を下げさせているという居た堪れなさが滲んでいた。
姫子は慎介にとって目に入れても痛くない可愛い孫だった。あの狂った男から、酷い虐待を受けた可哀想な孫だった。加奈子が姫子を必ず幸せにすると誓ったように、慎介だってこの命に変えてでも姫子を幸せにしてやる気だった。
子供は欲しくないと狂ったように呟く姫子の姿が浮かんだ。きっとあれは何かの間違いだ。姫子は子供を持ったことがないからあんな考えになるんだ。辰巳と結婚し、幸せな家庭を築けば子は宝であり、自分の幸福であると気づくはず。
慎介にとって体が弱くても加奈子は大事な娘だし、孫の姫子だって大切だ。親としてあんな狂った男に嫁がせてしまったことは加奈子には申し訳なく思っている。結婚話を用意した、慎介に責任があるし不甲斐ないと思っている。
「婚約の件ですが、私は姫子さんでなければ意味がありません」
辰巳の発言に慎介は驚いて顔をあげた。目の前の男がどんな表情をしているのか確かめなければならないと思ったからだ。辰巳は他の男と心中を図った姫子のことを許してくれる寛大な心を持っているのだろうか。もしそうなら、仏として拝みたいくらいだった。
「本当に、うちの馬鹿姫子を見捨てずにやってくださいますか」
「もちろんです」
辰巳の真剣な眼差しに、慎介も心が固まった。やはり自分の目は間違っていなかった。この男は姫子を幸せにしてくれる。家同士の付き合いを続かせるために、鶴子を姫子の代わりに嫁に出すことも考えていたが、やはり可哀想な孫には幸せになって欲しい。
そして妻の実家に姫子を送って監視しておく必要がなくなったのにも少し安堵した。姫子が他の男と心中を図ったと知った時は眩暈がした。そして辰巳からの情報で、姫子が病院で様々な男を手玉にとっていたと知った時には血圧が上がり、倒れそうだった。
姫子の色狂いは異常だ。一時は癲狂院に入れる話も出たが、加奈子が「姫子を気狂いにする気ですか!? あんなところに入ったら終わりです」と言ったため、妻の実家に軟禁するつもりだった。
しかし辰巳が姫子と結婚してくれるなら話は丸く収まる。姫子が幸せになれる道が潰れていないことに慎介は安堵した。
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入院していた期間はとても長く感じた。毎日、タエが謝りに来るのでそれも少しうんざりしていた。いくらタエが謝ったってもう累は帰ってこないのに。
しかし、タエを責める気力すら姫子は湧かなかった。タエだってまさか姫子たちが心中しようとしていたなんて知らなかっただろう。タエが考えれた結末は、せいぜい姫子と累が駆け落ちして遠くに行ってしまうことだろう。
しかし、姫子たちはどこにも行けなかった。実際に栗花落の家や滝元の家が追いかけてきたように、逃げても逃げても追われる。それに、生まれ変わらなければ姫子は幸せを掴めない気がした。綺麗な体に生まれ変わらなければ累とも幸せに生きていけない気がした。
そして、綺麗な体に生まれ変わることもなく姫子は残された。退院の日、姫子は女中たちに囲まれながら車に乗って家に帰った。その監視の中にタエはいなかった。
家に帰ってきた姫子を祖父は叱り、怒りに任せて頰を打った。姫子が結婚しないと宣言したが、祖父は気の迷いだと思ったようで無視をした。
厠へ行く時も、風呂に入る時も女中の監視の目があった。姫子は変な気を起こして後追いしてしまうかもしれないと警戒されていた。
祝言の話は姫子が知らないところで進んでいた。姫子が病院にいたことは辰巳以外の滝元家の人々には病に罹っていたと説明したらしい。
辰巳はもう全て知っているのに、姫子との婚約を解消するどころか祝言の話を進めているらしく恐ろしかった。辰巳と話す機会は訪れなかった。祝言当日にしか会えないだろう。きっと今頃は仕事と恋人で忙しいはずだから。
閉じ込められている姫子の元へ、体調が良ければ母が訪ねてきた。同じ家の中にいるのに顔を合わせるのは久々な感覚があった。
母は、辰巳は姫子を幸せにしてくれると説得しようとしてきた。だから、結婚しないなんて言わないで、と。
「どうして、命を投げだそうとなんてしたの。そのことについては、私もお父様と同意見です。なんて馬鹿なことをしたの」
母は泣きながら姫子を責めた。母にどれだけ必死に説明してもわからないだろう。それは姫子と累の二人だけの世界であり、孤独でふたりぼっちで閉塞感があり逃げ場がなく、禁断の果実を齧るように姫子たちは次の人生に身を任せる道を選んだ。次はどうか、周りから誹られずに結ばれることができる関係で出会いたいと。
母は悲恋が好きだ。恋が結ばれることはなく来世に希望を託し、心中する話が好きだ。それなのに、母は心中を選ぶしかなかった姫子たちの気持ちに理解を示したり寄り添うどころか責め立てた。
幸せな終わりだと、嫉妬してしまうのではなかったのか。母は現実では悲恋はあまり好きじゃないみたい。母は自分の考える幸せを姫子に押し付けている。自分の結婚がうまくいかなかったから、結婚に関して未練があり結婚を神聖視している。
「お母様は結婚こそが幸せだと思う?」
姫子は静かに尋ねた。水面が揺れるような声だった。
「ええ。もちろんですとも。私の結婚はあまりうまくいかなかったけど、あなたの結婚は幸せにしますからね」
だから安心して、というように母は微笑んだ。どうして、うまくいかないという現実を知っているのに母はまだ結婚に夢を見ているのだろうか。
「私はお父様にあんなことされたのよ! 生娘じゃないって言うわ。向こうもこんな娘お断りなはずよ」
姫子は髪を振り乱して叫んだ。姫子が抗議を示すように暴れても、母は落ち着いていた。
「姫子、確かにあなたは可哀想な目に遭ったかもしれない。でも、それだけの理由で結婚という当たり前の選択肢を奪われてほしくないのよ」
母は姫子を可哀想だと言った。姫子の苦痛をそれだけと切り捨てた。姫子は歯を食いしばりながら、涙を流していた。
「私の幸せは累と一緒にいることだった。お母様、信じてもらえないかもしれないけど、累──亡くなった彼とは肉体関係はなかったの。彼はプラトニックな愛を証明してくれた。私の価値は身体だけじゃないって教えてくれた。私を搾取しなかった」
母は姫子の悲痛な叫びを、前までは自身は身体しか価値がないと思っていたことなどを知って驚いているようだった。自分の元夫の影響がここまで残っていたなんて、母は考えていなかったのだろう。
母の中で酷いことをされた姫子を父から引き離したところで終わっているのだ。引き離して、万々歳。これでめでたしめでたし。姫子がその後歩んできた苦痛なんて全く想像していなかったのだ。
姫子を夫から引き離してそれで全て終わったと思っていたのだろう。自分の罪を見ないように、姫子の傷から目を逸らし続けた。姫子に必要だったのは幸せな結婚じゃない。傷に寄り添ってもらうことだったのに。
傷に寄り添って、でも傷は癒えることはなくて。傷だらけでも、歩いていける…そう思った先にやっと幸せが何かを見つめることができるのに。
結婚の全てが不幸せだとは思わない。でも結婚が幸せの全てじゃない。
母は姫子の傷の深さを思い知らされたのか、何も言えなくなっていた。下手に自分が声をかけたら傷を抉ることになりかねないと分かったのだろう。母は青い顔をして姫子の部屋から去っていった。
母との対話はどうしてわかってくれないのだろうというやるせなさに襲われる。それでも閉じ込められている姫子にとっては数少ない刺激だ。
姫子は大人しくして、鬱々と閉じ込められる日々を過ごした。監視している女中を見てタエがいない違和感を覚えた。女中の一人に聞くと、祖父が怒りに任せてタエを解雇したそうだ。タエが病院に見舞いに来てくれていた時にはすでに栗花落家からは解雇されていたらしい。
それを聞いて姫子は泣きたくなった。唯一の味方のタエがいなくなってしまった。それに主人の怒りを買って解雇となれば、次の職に就くまでに苦労するだろう。タエのことは勝手に姉のように思っていたから、悲しかった。タエが苦労してないといいが、姫子には何もしてやれない。
タエが解雇されることになったのも、全て姫子のせいだ。姫子が累に会いに行く時など、タエは協力してくれていたからそこがばれて祖父の怒りに触れたのだろう。
タエは純粋に姫子を応援してくれていただけなのに。累だってそもそも姫子が好きにならなければ、死ぬことはなかったかもしれない。
累は死んでしまった。姫子のせいで。その罪悪感が、退屈で情報が入ってこない日々で鈍くなった頭にのしかかってきた。
「私も一緒に死ねたらよかった」
祖父や辰巳は、意図的に累の救命活動を行わずに見殺しにしたのだ。勝手に邪魔者が死んでくれて幸運だと思ったのだろう。あの場ではそれができた。
姫子と累の心中現場を発見した祖父や辰巳がどう思ったのかは実際にはわからない。でも、彼らが姫子だけを素早く助けたのだという事実は変わらない。
姫子は密かに脱出の機会を伺った。見張につく女中たちの観察。彼女たちだって人間だ。食事を取らねばならないし、厠にだって行く。その隙間を縫って脱出できないかと姫子は考えていたが、流石にそこまで甘くなかった。
祖父の厳命なのか、必ず一人は姫子を見張っているような仕組みになっていた。姫子はその中で、タエの代わりに新しく雇われた千代子という女中に目をつけた。
千代子は姫子より歳下で、故郷の田舎から出てきたらしい。きっとタエを解雇してしまった罪悪感からタエに似た境遇の子を受け入れて雇ってやることで気持ちをすっきりさせようという母の自己満足の人事が見て取れた。
姫子は千代子が監視の時になると、千代子に優しく接した。女学校時代の教科書を見せてやったりした。千代子は女学校という自分は行けない世界に強い憧れがあったらしく、食いついて教科書に載っている詩や俳句、短編小説などを姫子が音読してやると嬉しそうにした。
「ずっと千代子みたいな妹が欲しかったの!」
そう言って姫子は千代子を可愛がり、自分のお古の女中の賃金ではとても手に入らないような着物を着せてやったり、椿油を髪に塗りこんでやって髪を梳かしてやったりした。
千代子は最初は、自分にはもったいないと遠慮していた。しかし姫子が「私は千代子のこと、妹のように可愛く思っている」「千代子が受け取ってくれないと悲しい」と涙を見せると、心苦しくなったのか、それとも自分が憧れていた贅沢に少しでも触れられるからか、姫子に懐くようになっていた。
千代子は新しく雇われた人で、今までの栗花落家の様子や姫子の行動を詳しくは知らなかったのだろう。祖父の過保護によって籠の鳥な姫子を可哀想に思ったらしかった。
祖父は、栗花落家の恥としての姫子の行動を外部に漏らしたくなかったのか今までにいた女中たちには臨時に給料をあげて口止めをし、新しく入った千代子には詳しい事情は話さなかったのだろう。
千代子からしてみれば、自分を可愛がってくれる優しいお嬢様をなぜ一人きりにしてはいけないのかわからなかっただろう。
「本当…お祖父様ったら過保護よねぇ」
千代子の前で、愚痴を言ってみる。千代子から見れば、姫子の監視は過保護を通り過ぎて異常だと感じたのだろう。頷いてくれた。
「ねぇ、ずっと部屋にいるんじゃ息が詰まるわ。庭の散策くらい許してくれないかしら。千代子と一緒ならきっと許してもらえるわ」
姫子は千代子の困惑している瞳を見つめた。雨に濡れた子犬のように目を潤ませたら、千代子は姫子が可哀想になったようだ。千代子は女中頭に相談し、誰かが一緒なら姫子は栗花落家の敷地内なら出ても良いことになった。




