十一話
姫子は祖父にも母にも内緒で夜行列車に飛び乗った。タエだけには崇峰の家で電話を借りて栗花落の家に電話した。電話がかかってきたらまずは女中のうちの誰かが出て代わる。タエが電話をとってくれて幸運だった。他の女中だったら少し面倒くさいことになったから。
いつも、電話が鳴ったら怯えて訳の分からない生き物みたいと怯えるタエが一番に電話をとってくれたのはいなくなった姫子を心配してくれていたのだろう。
タエにだけは薺港がある港町に向かうこと。今日は家には戻らないことを伝えた。もし夜になって姫子が戻らないことを祖父や母が不審に思った時、タエがうまく誤魔化して説明してくれればいいが、そこまでは期待していない。
列車の中は埃っぽかった。姫子は遠出をしたことがない。しかし、母が言うにはまだ歩き始めて間もない頃に母の体調のため海辺の避暑地にある橘の別荘に行ったことがあるらしい。
母は橘の家で過ごしたことを語りたがらなかったから、一度、母も自分の呪縛をふと忘れてぽろりと溢した言葉だったのかもしれない。
きっとこんな三等車じゃなくて、一等車に乗り込んだのだろう。姫子は車窓から見える日が沈んで影に飲まれゆく家々を見つめた。
乗客たちは、戦争で片足を失ったのであろうやつれた男や、未亡人らしき女、若い学生などがいた。埃の臭いと汗の臭いが混じり合って、こんな嫌な場所はなかった。まだ灯りがついているからいいが、蔵の中みたいだった。
港町には夜通し列車が走ったから、朝の日が昇る前には着くことができた。姫子は崇峰の「宿で暇つぶしでもしてる頃じゃないか」と言う言葉に賭け、一件一件宿を回った。累の容姿は珍しいから、すぐ見つかるかと思ったが、数十軒回っても見つからなかった。
栄えている港町なので、船乗りたちや旅行客のための宿は沢山あった。宿の従業員たちは金を握らせると客の情報はぺらぺらと吐いた。
「おや、女のお客さんなんて珍しいねぇ」
時には売春宿に当たってしまうこともあった。累が宿代わりとして売春宿を利用している可能性が頭をよぎったが、彼の誠実さを信じることにした。姫子を捨てた途端に他の女に行くなんてことを信じたくない。彼は「どれだけ離れていようとも、僕の心は君にある」と誓ってくれた。それを信じたい。
累のような容姿の客が、来ていないことを確認すると姫子は足早に売春宿から出た。
「君ってこの辺りで男探してるんだよね? それって俺じゃない?」
下卑た笑みを浮かべた肩幅の広い男が話しかけてきた。見たところ、水夫か何かなのだろう。酒を飲んでいるのか、気が大きくなっているようだ。
「私が探してるのはあなたじゃありません」
そう言って姫子は男の傍を通り抜けようとした。日は刻々と昇っているし、船の出航時間が迫っている。宿を総当たりして、累が見つからなければ船着場で累を待ち伏せしようと考えていた。
「せっかく、相手してやろうと思ったのに何だその言い方は」
男は苛立ち、無理矢理姫子の腕を掴もうとした。姫子は慌てて、男の傍をすり抜けることを諦め逃げ出した。売春宿が立ち並ぶ狭い路地に入り込み、そこから迂回することによって大通りに戻ろうとした。
待て! と言いながら男が追いかけてくる。怖くなった。男の顔が父に見えた。年月が経って現実の父はきっと年老いているだろうに、父の顔は姫子を苦しめた時から全然変わっていなかった。
「やめて! 来ないで!」
姫子は必死に走った。売春宿じゃない、普通の宿に逃げ込もう。金を握らせた従業員なら姫子を匿ってくれるはずだ。しかし、似たような建物ばかりでどこが売春宿でどこが普通の宿なのか、覚えていない。確か二軒前は売春宿で、その前は普通の宿屋だったような…。
追いかけられているという焦りが姫子の思考を焦らせた。大通りに戻った方が安全だろうか。
とにかく宿だと思う建物に飛び込んだ。飛び込んだ瞬間、誰かとぶつかった。誰かの背中に鼻を押し付けてしまい鼻が潰れるかと思った。鼻血が出ないか思わず、姫子は鼻を押さえた。
外では、「チッ、どこ行きやがったあのアマ」という男の声が聞こえており、今外に出たら危ない状況だ。
「すみません、ぶつかってしまって…」
背の高さ、背中の広さからして男だ。今、外に突き出されたら危ないので相手を怒らせないようにすぐに謝る。顔を上げると、そこには驚いたような顔をして姫子を見つめる空色の瞳があった。
「姫子…?」
姫子はその声と顔を確認したあと、反射的に抱きしめていた。
「累…! やっと見つけた。急に病院も辞めちゃうし…海外留学って本当に行くの?」
累は片手に何故かワインボトルを持っており、割れないように注意しながら姫子を抱きしめ返してくれた。
「とにかく、部屋で話そうか。ここの宿の一室に泊まってるんだ」
累が泊まっている部屋はベッドが一つと貴重品を入れるためであろう鍵付きの棚、机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。元の建築を無理矢理洋風に改築したのだろう。元の建築の名残があった。
累は机の上にワインボトルを置いた。窓からの光が反射して中の赤ワインであろう液体を輝かせていた。
「急にいなくなってごめんね。君のことが嫌いになったわけじゃないんだ。ただ…僕たちの関係が世間的に受け入れられないことと、華族を敵に回したら父にまで迷惑が掛かる」
「辰巳さんに脅されたの?」
身を引いてくれ、と言われた時に遠回しに累を脅した可能性があることをなぜ姫子は今まで気づかなかったのだろうかと悔やんだ。
「話し合いの時、後ろに部下らしき人たちを従えてた。僕が身を引くって言わなかったらどうなっていたかわからない。それだけじゃない。僕だけで済むならよかったけど、父にまで迷惑がかかるかもしれない。それに、姫子の将来のため…って言われたら何も言い返せなかった」
累は自分のただの研修医という身分と華族であり軍人である辰巳の身分を比べたのだろう。そして自分は負けたと思い込んだ。累までもが、辰巳が姫子を幸せにしてくれると信じたのだ。
「累、わたしがあなたなしで幸せになれると思う?」
姫子は涙を浮かべて尋ねた。累は姫子の過去を知っている。そして受け入れて、その上で支えてくれた。辰巳には他に恋人がおり、姫子を愛してくれないし、何より姫子が一番嫌悪する行為をしなければ跡継ぎは生まれない。
辰巳との結婚には子供をもうけるということが必ず引っ付いてくる。そのことからは逃がれられない。
「僕も君なしの人生は幸せが褪せたようなつまらない人生になるって思ってたところだよ」
そう言って累は机の上のワインボトルに目を向けた。
「船の中でやけ酒するつもりだったんだ。分量を間違えれば毒になる薬を入れて、そのまま死のうと思ったんだ。君無しの人生は考えられない。でも君は他の人の妻になってしまう。留学からは何年で戻れるかわからないんだ。想いが時間の経過の中で薄らぎ、思い出となってしまう前に今の幸せな状態のまま死にたい」
姫子はその言葉を聞いて累に抱きついた。彼もまた抱きしめ返してくれた。彼は生涯をかけて姫子にプラトニックな愛を証明しようとしていたのだ。
「累、わたしを攫って。連れて行って。あなたがここで行き止まりならわたしも行き止まりよ」
累は姫子を強く抱きしめた後、ワインボトルを開けて鞄から取り出した粉末状の薬をワインの中に入れた。
「眠るように死ねるよう量を調節するね」
玻璃製のコップに毒入りの赤ワインが注がれる。飲む前に二人はお互いの片手を紐で縛った。黄泉の道でも逸れないように。これを見て姫子は運命の赤い糸は本当にあるんじゃないかと思った。
毒入りのワインを飲み干した。喉が焼けるように熱かった。そういえば酒を飲むのは初めてだ。女学校時代、友人の家のパーティーに呼ばれて唐辛子の入ったジンジャーエールを飲んだことがあった。シャンパンゴールドの発泡した飲み物で、少し口をつけるとピリリと舌を刺激するけれど十分甘かった。
どこか遠くに逃げ出したかった。でも、もうどこにも行かなくていい。ここで終わりなのだ。累がここにいて、姫子がここにいる。それだけで充分だった。
二人は一つのベッドに横になった。ずっと手を繋いでいた。意識がなくなっていき、呼吸が苦しくなる。まるで、累に首を絞められているみたいだった。歓喜が身体を包んだ。
父に首を絞められるのは姫子にとって恐怖と苦痛の象徴だった。父は愛しているからこそ首を絞めたのだろう。しかし、それは一方的なものであり姫子には届かなかった。毒による呼吸困難なのだとしても、累に首を絞められていると感じることによって姫子は父に首を絞められるという恐怖の行為を累との愛の行為で上塗りしたのだ。
姫子は首を絞められるという恐怖を克服した。累との愛の行為に上塗りできた。人生の最後で、この苦しみを克服できるとは思いもよらなかった。
今、累に首を絞められている。そう思うと、喜ばずにはいられなかった。
あぁ、わたしこんなに幸せでいいのかしら
喋ってみたけれど、声にはならなかった。呼吸が苦しくて喋るどころじゃなかった。累も意識を失っている最中なのだから聞こえなかっただろう。しかし、きっと伝わっているはずだという気がした。
******
「お嬢様…お嬢様、ごめんなさい」
姫子はタエの泣き声で、病院で目が覚めた。結果的にいうと心中は失敗した。姫子は生き残って、累はそのまま亡くなった。
姫子が姿を消した後、しばらくタエは黙っていたらしい。しかし夜になっても姫子が家に帰らなかったことで祖父たちは大騒ぎになり、栗花落家は総出になって姫子を探した。辰巳も捜索に参加し、警察まで出動する騒ぎになったという。
タエは姫子と一番仲が良かったことから、姫子の行き先を知らないか疑われた。タエの腕や足には無数の打撲痕があり、女中頭から拷問紛いの折檻を受けたことを示していた。
痛みに耐えきれず、タエは姫子の行き先を喋ってしまった。そのことについては仕方がなかったと思う。タエにも行き先を言わなければ良かっただろうか。しかし、それだとタエは答えを知らない拷問を耐えなければならないことになる。タエが知らないと言っても女中頭も祖父も信じなかっただろう。
捜索の手はすぐに港町まで及んだ。姫子が金を握らせたら、宿の従業員たちは泊まっている客の情報をぺらぺらと喋った。それはつまり、姫子の情報も姫子と同等かそれ以上の金を積めば喋ったということだ。
異国の風貌の男を探している女という情報はすぐに広がっただろう。
累が泊まっていた宿の主人が、心中している姫子たちを見つけたのだ。部屋を出てくる時間になっても、出てこない客をマスターキーで部屋を開けた。そこで客が心中をしていることを知り、警察に通報したのだという。
ちょうど運悪く、運良くなのかわからないが、祖父と辰巳も姫子たちの宿に辿り着いていた。そこで、祖父は姫子が知らない男と毒を煽ったことを知った。
姫子が生き残り、累だけが亡くなった。それはただ単に姫子の運が良かったとか、毒の量が違ったとかそんなことではない。毒の量の問題であれば体の小さな姫子の方が早く体に毒が回ったはずだ。
姫子と累が倒れている現場を見た辰巳は姫子を優先して救護活動に当たったらしい。累は後回しにされた。見捨てられたのだ。命を天秤にかけられて、姫子が選ばれた。
そっとしておいて欲しかった。助からなければ良かった。あのまま二人で死にたかった。やっと、父の呪縛から解放されたと思ったのに姫子だけ生き地獄に逆戻りだ。父の呪縛は累が一緒でなければ解けない。累がいない今、呪縛は解けることは永遠になくなってしまった。累の傍でだけまともに息ができるような心地がしていたのに。
姫子が入院している間、毎日のように見舞いに来たのはタエだけだった。タエは自分が喋ってしまったことへの罪悪感で毎日姫子に謝罪に来た。祖父はきっと怒っているから見舞いなんてこないだろう。
タエからの話で、母は姫子のことを聞いて寝込んでしまったと知っていた。
姫子は病院で胃洗浄などの処置を受け、しばらく様子見の入院をさせられていた。その間に、累の亡骸は崇峰に引き取られ身内だけの簡単な葬儀が行われたらしい。崇峰は「愚息が娘さんを巻き込んでこんなことになった。申し訳ない」と祖父に謝罪をし、慰謝料のようなものを払ったらしい。
それでも祖父の怒りは収まらず、華族の滝元家の力を借りたのか知らないが、圧力をかけて崇峰を研究から退かせたらしい。崇峰が抵抗らしきものを何もしなかったのは崇峰も自主的に贖罪目的で研究から退こうとしていたのかもしれない。




