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十話

 「落ち着いて。大丈夫」


 るいが穏やかに声をかけて、姫子ひめこの背中を摩った。その暖かい体温と、一定の間隔に呼吸が安定してきた。


 「自分を気持ち悪い、汚いと思うほど辛い思いをして来たんだね。辛かったね。自暴自棄になって色んな人に愛を求めたんだ。でも、もう大丈夫だから」


 累は優しく抱きしめて、姫子の涙を止めた。


 「君は何も損なわれてない」


 姫子は累のことを抱きしめ返した。


 「騙していてごめんなさい。でも好きなの。…好きなの」


 落ち着いた姫子を累は家まで送ると言った。夜道が危険なのはわかるが、累が栗花落つゆりの家まで来たことは一度もなかった。累の存在を知っているのが、辰巳たつみだけなのか、それとも辰巳が祖父たちに伝えてしまっているのかわからなかった。

 姫子は送ってもらうのは家の近くまでいいと言った。祖父が累の存在を知っていても知らなくても、目の前に累が現れたら怒り狂うだろうから。


 家の近くまで来ると、泣き腫らしたタエがこちらを見つけた。


 「お嬢様! 探しましたよ」


 タエは鼻水を垂らしながら駆け寄って来た。タエは姫子が恋人の元に行ったことを簡単に予想できただろうが、累の家が何処にあるかまでは知らなかったのでいつも姫子と別れる辺りを重点的に探していたのだろう。


 「大旦那様がお怒りで、皆総出で探してます。奥様は体調を崩されて寝込まれてます」


 タエは累を見ると頭を下げた。瞬間的に今まで姫子を保護してくれていたのが累だとわかったのだろう。


 「お嬢様の大切な方…ですよね? どうかここでお引き取りください。大旦那様に見つかったらただじゃすみません」


 タエは頭を下げていたのにさらに深く下げた。


 「家も近いし、大丈夫。送ってくれてありがとう。累」


 姫子はタエと会ったことにより、急に現実に引き戻されている気がした。辰巳たつみと結婚しなければならないという現実に。非現実を名残り惜しむように姫子は累と繋いだ手を離せなかった。やっとの思いで手を離す。


 「じゃあ、さよなら」


 累は穏やかな笑顔を浮かべて、帰って行った。最後の言葉が「またね」ではなく、「さよなら」であったことに少し引っ掛かりを覚えながらも、姫子は重い足取りで家に帰った。

 

 家に帰ると、寝込んでいると聞かされていた母は無理して起き上がってきていて、姫子を抱きしめた。


 「姫子、帰って来てよかった。よかった」


 母は女中たちもいる前で、女主人の威厳なんて捨てて泣いていた。


 「ごめんなさい姫子。お母様のこと、恨んでいるわよね。そうよね。何でもっとはやく気がつかなかったのかって。私の体が弱いせいで、あんなこと…」


 母が涙しながら懺悔をはじめた時、祖父が口を開いた。


 「やめんか、加奈子かなこ。そんなこと思い出させなくていい」


 祖父の言葉は鋭かった。鋭利な刃物のように傷つけた。累の言葉とは大違いだった。姫子は祖父の言葉は無視して母に語りかけた。


 「お母様、酷いこと言ってごめんなさい。お母様のこと大好きだけど、少し恨んでもいるの。どうして、早く私を助けてくれなかったの?」

 

 姫子の目が暗いことに母も気づいたのだろう。狼狽えて、姫子から目を逸らした。自分の罪を認めたくがないゆえに、罪から目を背けるように。姫子にも、母にも悪いところがあったのかわからない。でも、責めてしまう。


 あの時、姫子にとって頼れるのは母だけだったのに母は知らなかったのだ。だって、ずっとベッドの住人だったから。


 「姫子…お前、覚えておるのか?」


 祖父が険しい顔で尋ねた。きっと栗花落の家に来てからたちばなの家であったことを何一つ話さないので、精神に多大な負荷がかかりすっかり忘れてしまったのだろうという都合の良い幻想を抱いていたのだろう。


 「忘れるわけない。きっと死ぬまで忘れない」


 姫子が淡々と語る様子に、祖父は何か恐ろしいものを感じたようだ。女中たちはただらなぬ雰囲気を感じて固まっていた。祖父は女中たちに仕事に戻るように言いつけた。


 姫子たちは居間にそれぞれ離れて座った。母は姫子の隣にいたそうだったが、姫子は距離を取った。


 「辛かった、苦しかった。お母様は自分の夫と娘がたびたび何処に消えるか疑問を持たなかったの? お祖父様は私がすっかり忘れているなんて、何でそんな都合の良い考えを持ったの?」


 二人とも、返す言葉がないようで押し黙り俯いた。父の姫子に対する虐待がばれたのは、蔵に入っていくところを庭師が目撃し、それが女中に伝わりそこから母に密告されたのだ。

 母は寝耳に水だっただろう。自分が弱ってベッドで寝ている間、長期間に渡って姫子が苦痛を受けていたなんて。


 母が自分の体が弱かったばっかりに…と自分を責めていることは知っていた。自分が夫を受け止めねばならなかったところをその代わりを姫子にさせてしまったことを悔やんでいるようだった。


 だからこそ、姫子を幸せにすることに心血を注いでいたのだ。


 「確かにお前の父親…あの男の癖は狂っていた。大事な孫娘を傷物にされて、わしだって怒りが収まらん」


 祖父のその言葉は祖父なりに精一杯、姫子に寄り添おうとしたものだったのかもしれない。しかし、姫子は自分が「傷物」と形容されたことに対して、言いようのない失望を感じていた。


 そうか、祖父や母にとって姫子は実の父親に傷物にされた哀れで可哀想な娘であり、損なわれた状態なのだ。恵まれた生活をしても、姫子がこの家から飛び出したいと願っていたのは、無意識にでも憐憫に溢れた眼差しで見つめられるからだ。


 累の優しい声が蘇った。「君は何も損なわれてない」という言葉を。


 「私、子供は欲しくない」


 「急に何を言っておる」


 姫子がそう溢すと、祖父が叱責するような口調で言った。祖父にとっても母にとっても、結婚し子供を産むことが女の幸せだと考えているのだろう。どうして、そんな酷いことを姫子の幸せだと決めつけるのだろう。


 「子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない。

 子供は欲しくない」


 機械が一定の感覚を刻むように、姫子はそれだけを繰り返し呟いていた。その様子に祖父も母も尋常じゃないものを感じたのか、祖父が「今日はもう遅いから寝なさい」と促した。


 眠れない姫子は母が常備している睡眠薬を分けてもらい、眠りについた。あの様子だと、辰巳は祖父に姫子に恋人がいるという話をしていないようだった。それが怖かった。辰巳は何を考えているのだろう。


 薬の力で強制的に思考が断ち切られ、眠りに落ちて行った。


 次の日、姫子が病院に出勤すると皆が驚いたように見つめてきた。新しい婦長が心配そうに姫子に声をかける。


 「栗花落さん、あなたもう昨日で退職したことになってるわよ。お祖父様から連絡がありました。結婚するんですってね。おめでとう」


 姫子はその言葉を聞いて固まった。祖父が手を回したのだ。姫子の知らないうちに。時系列からして、祖父が夕食の時に話を出した時には既に病院を辞めさせる話はもうついていたのだろう。


 「星野ほしの先生も急に辞められたし、寂しくなるわね」


 婦長がそうこぼした時、姫子は自分が病院を辞めさせられていたという事実よりも動揺した。


 「星野先生も辞めたんですか…?」


 姫子は震える声で尋ねた。嫌な予感がした。


 「えぇ。なんでも、海外留学に行くらしくて。急に決まったことだそうです」


 累は何も言わなかった。昨日会った時に姫子には何も。それが婦長は知っていて、姫子が知らなかったことに信用されていなかったのではないかと不安になった。


 姫子は病院から累の家に向かった。長屋の部屋には灯りが付いておらず人の気配もなかった。姫子が累の名前を呼びながら戸を叩いていると、近所の奥さんがやって来た。


 「その部屋の人、昨日夜逃げみたいに引っ越しちゃってもういないよ。家具も売っぱらったらしくて今朝業者が引き取りに来てたよ」


 「引っ越した…? じゃあ、もうここにはいないんですか!?」


 姫子が食い気味に聞き返してきたことで、近所の奥さんは少し困ったような顔をした。


 「え…えぇ。そうね。何処行っちゃったのかしらねぇ」


 そう言ってそそくさと家の中に引っ込んでしまった。一人残された姫子はしばらく立ち尽くしていた。海外留学なんて、そんなに急に決まることだろうか。姫子が昨日訪れなかったら累は黙って姿を眩まして姫子の前から消えるつもりだったのだろう。


 累は「またね」ではなく「さよなら」と言った。もう会えないとわかっていたのだ。きっと辰巳に会って「身を引いてほしい」と言われてから、このことは計画していたのだろう。


 父の声が蘇ってきた。──父様を裏切ったら、姫子を愛してくれる人なんていなくなるからね。孤独になってしまうぞ。


 姫子はまだ父の呪縛の中にいる。逃げても、逃げてもまとわりついてくる。暗い蔵の中、伸びてくる手が姫子の首を撫でてから絞めるのを。

 姫子の顔が薄暗い中、顔が真っ赤になって息をしようと苦しくて口をぱくぱくと開く様を恍惚とした表情で見下ろすぎらりと光る父の目を。


 どうやって家まで帰ってきたのかわからなかった。いつの間にか雨が降り出して、姫子はずぶ濡れになっていた。濡れたまま玄関に立ち尽くしていた。帰った、と誰にも声をかけることをせずに。

 偶然、玄関の土間を掃除しようとタエがやってこなかったら、姫子はいつまでもその場に立っていただろう。タエは手早くタオルで姫子を拭き、風呂の準備をしてくれた。


 「お嬢様、何があったんですか? こんなに濡れて…」


 タエの姿を見ると、泣いてしまった。タエは慌てながらも姫子の世話を焼き、姫子が風呂から上がってくると部屋で話を聞いてくれた。祖父に病院を辞めさせられたこと、累も何処かへ行ってしまったこと。


 タエは慰めるように手を握ってくれていたが、彼女が姫子のために出来ることは何もないと痛感しているようだった。タエの力では祖父の決定に逆らえないし、どこかへ行ってしまった累を探す手掛かりもない。


 しかし、泣いて絶望に浸ったまま待つこともしたくなかった。何か、累が何処に行ったか手掛かりがあるはずだ。海外──もしかしたら実の父親と縁のある土地に行くのかもしれない。いや、累の母は相手が何処の国の人かもわからないのに勝手にルイと名付けてしまったらしいと聞いた。

 累は自分のルーツを知らない。留学先を特定するには至らないだろう。


 「タエ、私足掻いてみるわ」


 雨が小雨になっていたが、やはり足元はぬかるんでいた。姫子は家から飛び出すと、また軍病院へ向かった。会社から祖父が帰ってくるまでが勝負だ。祖父が帰ってきたら、祖父は姫子を祝言まで大人しくさせるだろう。部屋にでも閉じ込めて。


 姫子は軍病院で院長室へ向かった。院長先生はまた姫子が愛人として戻ってきてくれたのかと喜んだ。しかし、姫子は妻子に全てばらすと脅して、星野崇峰(たかみね)という人について知らないかと尋ねた。


 医者の業界で崇峰という人は数々の研究成果でそれなりに有名らしく院長先生は彼の自宅まで知っていた。姫子は累の養父なら累の居場所を知っているかもしれない、もしくは累が彼の元に帰っているかもしれないという僅かな望みに賭けた。


 姫子は院長先生から聞き出した住所に向かった。崇峰が住んでいると思われる住所には築浅の屋敷が建っていた。敷地面積は姫子の実家ほどではないが、一世代で住むには丁度良い程度で、庭は広く、小綺麗にしてあった。

 

 戸を叩くと、家の中から積み上げられた本か書類の山が崩れるような音がした。中から出てきたのは温和そうな四十路過ぎの男だった。


 「若いお嬢さんが私に何用で?」


 穏やかな笑みが累に似ていた。血は繋がっていなくともこの人は累の父親なんだと思った。


 「急にお訪ねしてすみません。栗花落 姫子と申します。星野 崇峰さんのお宅で間違い無いでしょうか」


 「いかにも私が星野 崇峰ですが」


 ここで合っていたと姫子は安堵した。


 「私、星野 累さんの恋人でした。彼の行方を知りませんか?」


 姫子の悲壮漂う表情に、崇峰も何か深い理由があることを察したようで「汚いですが、上がってください」と言った。家の中は廊下にも書き損じた論文のような紙が落ちていたり本が積まれていて、累の部屋を思い出した。


 広い家なのに中身は本で埋まっていて、女中も雇っていないのか崇峰本人がお茶を淹れてくれた。累が淹れてくれた時のように少し渋くて、もしかしたら累は慣れていないとか下手なのではなくて、崇峰の淹れるお茶をお茶本来の味だと思いながら生きてきたのかもしれない。


 崇峰が通してくれた客間だけは唯一、本が積んであったり紙が散乱していたりしない空間だった。


 「少し前に、累が久々に帰ってきた。大切な人の話をしてくれた。きっと君のことだね」


 お茶を啜って、崇峰は話し始めた。累が父に姫子のことを大切な人だと話してくれていたことが嬉しかった。


 「累は大切な人とは結ばれるのは難しいと言っていた。世間から非難されることだから、彼女の前からいなくならないといけないと。君たちが難なく結ばれる世ではなかったようだね」


 崇峰の話ぶりと、家の気配からここには累がいないことを薄々感じていた。


 「全部、私が悪いんです。私の問題に彼を巻き込んでしまいました。その問題は今も解決していません。でも、彼に会いたいんです」


 姫子の言葉に、崇峰は目を細めて感慨深そうな笑みを浮かべた。


 「累は自分を好いてくれる人を見つけたんだね」


 崇峰さんはなんだか泣きそうだった。しかし彼は泣かずに話を続けた。


 「累は明日の昼ごろに薺港から出航する船に乗る予定だと聞いているよ。今頃は港町の宿で暇つぶしでもしてる頃じゃないかな。すまないが、私にわかるのはここまでだ」


 姫子は涙ぐんで頭を下げた。


 「ありがとうございます。それだけで十分です」

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