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一話

 「なんてことをしてくれたんだ! お前は栗花落つゆり家の恥晒しだ」


 祖父の怒号と共に姫子ひめこは頰を思いっきり叩かれた。体が襖に叩きつけられ、それと共に畳の上に倒れる。


 「お父様、やり過ぎです! 顔を叩くなんて、痕が残ったら…」


 普段は気弱な母が姫子を庇うように倒れた姫子の肩に手を置き立ち上がらせようとする。


 「加奈子かなこ、黙っとれ。これくらいしなければ、この馬鹿者にはわかるまい」


 厳格な祖父は吐き捨てるようにそう言った。姫子はひりひりと痛む頰を抑えながら、祖父を睨み返した。


 「私、馬鹿じゃないわ」


 「姫子!」と母が心配するように声をかける。祖父に口答えするな、と伝えようとしているようだった。


 「お前のしでかしたことは馬鹿と言わずして、何という。お前は辰巳たつみさんという婚約者がいながら、他の男と恋仲になりおって!」


 祖父は倒れたままの姫子を見下ろして、続ける。


 「お前は貞淑にならないといけない」


 幼子に諭すような言い方だった。祖父も可愛い孫に手を上げてしまったことに多少の罪悪感があるようだが、自分の中にある確固たる正義の心で押し潰しているようだ。


 「加奈子、姫子を祝言の日まで見張っとれ! もう二度、馬鹿な真似は出来ないようにな」


 姫子は自分のしたことが馬鹿なことだと切り捨てられたのが、我慢ならなかった。自分の愛情が、馬鹿馬鹿しいものであると決めつけられたのが悲しかった。


 「本当に好きな人を愛することが悪いの!?」


 「姫子!」とまた母が止めようとしてくる。


 「婚約者がいる身でありながら、不貞を働いたのが良くないと言っているんだ!」


 確かに、そうだ。姫子のやったことは間違っていて祖父の言っていることは世間から見た正しいことだ。


 「私は、結婚しません」


 口にしたら、それが自分の本心なのだとしっかりわかった。


 「何を馬鹿なことを。部屋に戻って頭を冷やせ。お前には辰巳さんという素晴らしい婚約者がいて、何も心配することはない。お前のいう本当に好き、はただの気の迷いなのだからな」


 そう言って祖父は煙草をふかしに居間から姿を消した。母が、姫子の背を摩る。


 「さあ、部屋で頭を冷やしなさいな。ちょっと結婚の前に不安になっただけでしょう。大丈夫、不安は誰にでもあります」


 母はそう言って姫子を部屋に連れて行こうとする。


 「お母様だって、私が馬鹿だと思っているのね」


 「あなたは幼いから間違えただけ。大丈夫です。私も一緒に頭を下げますからね。お祖父様にも、辰巳さんにも謝りましょう」


 母は優しく姫子を宥める。


 「いっそのこと、破談になればいいのに」


 「姫子!」


 母が叫んだ。先程から、母は強く姫子の名前を呼ぶことで姫子に自分の間違いを認めさせ、自分の思う理想形に沿わせようとしている節がある。祖父に逆らえない気弱で病弱で、貞淑な母が姫子の前だけでは親の威厳を使おうと自分を大きく見せようとしている様に、姫子は苛立った。


 ずっと祖父の言いなりの母には自分の意思というものがない。自分の意思を発露した姫子にとって母は旧時代の人であり、言葉は届かない。祖父も化石みたいな人だ。


 女は家にいて、貞淑であれと説く。昔は、姫子だってそう思っていた。




******




 栗花落家は遡ればお殿様がいた時代に廻船問屋をやっていた。時代の流れに乗り今や貿易商の『栗花落汽船』として名を轟かせている。祖父はそんな栗花落汽船の会長として時代の波を乗り越えてきた実力者だと、姫子も思う。立派な人だと思う。

 しかし、思想が相容れないのならばどんなに立派な人でも無だ。


 祖父は成金と言われて、蔑まれ苦しんできた。だから、華族との繋がりを欲しがった。そうして姫子が7つになった時に組まれたのが軍功で男爵位を得た斜陽の華族一族、滝元たきもと家との縁談だった。

 十六歳上の許嫁、滝元 辰巳(たきもと たつみ)はその時には少尉の位についていた。


 縁談話が姫子に聞かされた日、祖父は酒が入っているのかと思うくらいには上機嫌で、姫子を抱き上げ髭の生えた頰で姫子の柔らかな頰に頬擦りをした。それが痛くて、高くて怖くて姫子はきゃーきゃーと泣いたが、祖父も近くで見ていた母も喜んでいるのだと勘違いしてしばらくやめてくれなかった。


 姫子は痛いこと、怖いことはしばらくじっとしていれば終わると知っていたので我慢した。

 

 「姫子〜、お前の婿さんが決まったぞ。滝元男爵の長男の辰巳さんだ。戦功立てた少尉さんでな、いい男だぞ。顔合わせの日は上等な着物を着せてやれ、加奈子」


 「まあ、あの滝元家ですか?」


 祖父と母が喜ぶ中で、姫子はじっとこの時が終わるように天井のしみを数えていた。体が安定しない空中はいつも姫子を不安にさせる。


 写真で見た辰巳は、真面目な顔をした爽やかな青年だった。尋常小学校を卒業したら、姫子はこの人と結婚することが決まっていた。


 「まぁ、姫子。端正なお顔立ちの方で良かったじゃない。素敵な方ね」


 母は写真を見ながら喜んでいた。そして優しく頭を撫でた。母は自分の愛娘の旦那に相応しい経歴と容姿を引き下げた男との縁談を祖父がまとめてきてくれたことが嬉しかったようだ。

 母は気弱だけど、可愛がられて育てられてきたからか自分の容姿を悪くは思ってない。むしろ美人な方だと思っている。だから、母は親の贔屓目もあるだろうが、私に似て美人だと姫子を褒めた。


 顔合わせの当日は綺麗な金襴緞子の着物を着せてもらった。髪結いさんも呼んで髪を綺麗に結ってもらった。髪結さんは有名な人らしく、「松の位の花魁の髪を結ったことがある」と言った。

 姫子は「おいらん」がわからなくて尋ねると、髪結いさんは新聞の切り抜きを見せた。花街一番の花魁と見出しがあって、白黒だが姫子の目には鮮やかに映った。足袋を履かない艶かしい白い脚が綺麗だった。


 「ちょっと、そんな下賤なものうちの子に見せないでくださいな」


 母が顔を顰めて髪結いさんを叱った。普段はあまり怒らない母が顔を顰めた。


 「お嬢さん、ごめんなさい」


 母が去った後、髪結いさんは申し訳なさそうに新聞の切り抜きをしまった。あんな綺麗な人を母は悪いもののように言った。それが不思議だった。


 「花魁って何?」


 姫子は髪結いさんに尋ねた。髪結いさんは先程母に怒られた手間申し訳なさそうに言葉を選んでいた。


 「沢山の男の人に好かれる仕事ですよ」

 

 そう言って髪結いは苦笑した。沢山の愛をもらえるのなら、それは羨ましいと姫子は思った。


 人形みたいに着飾らされた姫子は婚約者となる男、辰巳と料亭で出会った。彼は詰襟の軍服姿で胸にはきらりと光る徽章があった。軍帽を脱いで会釈する彼の姿は大木が折れてきたのかと思った。


 この人と結婚するんだ、と言われてもあまり実感が湧かなかった。そしてそれは相手も同じようだった。辰巳は姫子の姿を見た途端に、普段はあまり動かないであろう目の周りの筋肉を稼働させ、少し目を見開いた。


 その場で閉まった辰巳の言葉。出かかったが封じた言いたいことは何となく姫子も感じた。まだ子供じゃないか、と。


 しかし、辰巳は不満を口にしなかった。祖父が姫子が尋常小学校を卒業したらすぐにでも祝言を挙げたいと計画している話を、頷いて聞いていた。自分の感じた戸惑いなど、出さなかった。


 帰りの自動車の中で、祖父は満足げに髭を撫でながら笑った。


 「姫子、いい男だっただろう。お前は運が良い。立派な将校さんだった。滝元家は、震災のせいでな事業が失敗して資産がない。普通ならわしらのような平民とは結婚したがらない。本当に運が良いぞ、姫子。お前は結婚したら華族のお姫様に戻れる」


 「お父様…」


 母は祖父の言葉に申し訳なさそうな声を出した。


 「私が出戻ったときに、この子は幸せにするって決めたんです」


 母は優しく姫子の頭を撫でた。母がつけていた柔らかい香りの渡来品の香水の匂いが鼻をかすめた。


 栗花落は母の旧姓だった。母は父と離縁して、栗花落に戻った。姫子は五つの時までは、(たちばな)姫子だった。父と母の間にどんなやり取りがあったのかは知らない。母は病弱で妻としての役割を果たせないから、離縁したらしい。


 母は荷物をまとめて、姫子の手を引いた。流行りの洋風に建てられた橘邸の窓硝子から父は惜しそうに姫子たちを眺めていた。


 「栗花落のお祖父様のところに行くんですよ」


 母はそう言った。


 「お父様は一緒に行かないの?」


 姫子は尋ねたが、母は今まで住んでいた邸を振り返りはしなかったし、父を見ることもなかった。


 「お父様は一緒には行きませんよ。二度と会いません」


 いつも、自分の意見を言わない母がこの時だけはきっぱりとした口調だった。


 「どうして、二度と会えないの?」


 姫子はこの時、急な日常の変化について行けなかった。急に、母は荷物を纏めなさいと言った。生まれた時にお祝いで貰った人形は持って行けたけど、母の持っているものにそっくりでお気に入りだった鏡台は持って行けなかった。


 「あんな酷い人と一緒にいるのはもう懲り懲りです。姫子だってそう思うでしょう? あの人は酷いことをしたんですから。栗花落のお祖父様だって姫子が来てくださることを楽しみにしていますよ」


 姫子は二度と父のことは口にしなかった。口にできなかった。強く掴まれた手のひらによって姫子は口を塞がれてしまった。母は父を話題にすることを好まない。


 父と母はある時を境によく言い争うようになった。父は一人娘の姫子を手放したがらなかった。「あの子には橘の血が流れている。橘の子だ!」父はそう主張したらしい。しかし結局、父は橘の親族に病弱でもう子供を産む望みのない妻なんて捨てて新しい妻に子供を産んでもらえばいいという説得に頷き、母と姫子を手放した。


 父と母が口論しているのを、姫子は部屋に居なさいという言いつけを破って扉の隙間から見ていた。ある時、口論は白熱し父が口答えする女はいけすかないと吐き捨てた。母は言い返そうとして血を吐いた。母が患っている病由来の喀血かと思われたが、実際は喋りすぎて喉が切れて血が出てしまっただけだった。


 父と母があんなに激しく姫子を奪い合ったのを姫子は知っている。しかし、父と母が急に別れてしまうことになった理由を姫子は知らない。

 父は母も姫子のことも愛していたと思う。特に父は姫子のことを特別可愛がって目に入れても痛くないというのにはまさにこのことだった。


 父は橘の家を存続させていくのに、母に無理をさせて子供を産ませるのではなく、姫子に立派な婿を探してやれば良いと考えていた。


 母の香水の匂いを嗅ぐと、橘邸を離れた日のことを嫌でも思い出してしまう。あの日も母は香水をしていたのだから。


 祖父は、姫子の幸せのためを思って縁談を用意したのも間違いではない。しかし、本当は華族の肩書きを手に入れたかったのだろう。母が橘のままだったら、その願いは成就されたままだった。しかし母が離縁してただの成金一族に戻った今は、また上流階級との繋がりが欲しい。


 祖父と母が笑顔になるなら、姫子はそれで満足だ。祖父は姫子の幸せを願っているのは本当なのだから、辰巳という人は立派な人なのだろう。


 祖父も母も、姫子に最良の幸福を用意してやれたと信じて疑わない。整えてくれた道を真っ直ぐに歩けば、自分は幸せになれると姫子は盲目的に信じていた。

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