二次元彼女
同性婚は所詮おままごとですよーーーそう言って炎上したコメンテーターがいた。よくわからない肩書きで偉そうに言った奴の顔は忘れたが、テレビに向かってこれでもかと罵倒したのを覚えている。まだ世界が正常に機能していた頃の話だ。
世界から人間が消えた。ある日、突然、忽然と。寝室で眠っていた私とミクだけを残して。
スマホは消えたであろう時刻の更新で止まり、テレビは砂嵐しか映らなくなった。外を歩けば管理されなくなったゴミを漁るカラスが増え、逃げ出した元飼い犬は遠吠えをする。まるで終末期だ。一秒ごとに荒廃していく世界で、私とミクは暮らしている。
「テレビつけてたってどうせ何も映らないよ。」
スウェット姿のミクが両手にお菓子を抱えてソファーに座ろうとする。少しだけ右にズレてリモコンでテレビを消すと、聞こえてくるのは隣の飼い犬の遠吠えだ。柴犬で赤い首輪をつけた犬を散歩させていた隣人も、今はもういない。とりたてて仲が良かったわけではないが、会えば挨拶くらいはしていたのだ。一年中サンバイザーをつけ、くたびれたスポーツウェアの彼女を思い出し鼻の奥がツンと痛む。気が緩むと絶望に襲われる日々に泣きたくなる。
「また泣いてんの?」
顔を覗き込むミクと目が合った。化粧をしなくなった顔はどこか眠たげで、可愛い。こんな世界でも唯一にして最大の救いだと思ってしまえるくらいに可愛い顔なのだ。
「泣いてないし。」
「鼻声。鼻かむ?」
パリパリとポテトチップスを齧りながら足でティッシュを掴もうとする横着さに笑ってしまう。泣きそうになったり笑いたくなったり、毎日感情だけは忙しい。前はこんなんじゃなかったのに、と思うのは世界の変化だけではないのだ。
「じゃあこっち。」
ミクはティッシュの代わりにラムネを手に取る。緑色のプラスチックで出来た昔からあるお菓子だ。賞味期限が切れているせいか、ラムネは時々苦い味がする。でも私はそれが好きで、今では食料がないことを理由にラムネばかり食べていた。口を開けミクに「ちょうだい」と催促するが、不敵に笑うミクはわざとそれを遠ざけてしまう。
「ヤダ。もっと可愛くお願いして。」
「えー?」
肩を落とし口をとがらせて見せてもミクはふふんと笑うだけで取り合わない。自分はパリパリとポテトチップスを食べているのにだ。
「ミク。お願い。ちょうだい?」
いつもより声のトーンを上げて言ってみる。それだけじゃ満足しないことを見越して上目遣いもつけて。
「お。イイ感じ。もう一声!」
「あのねぇ……」
ミクは案外サバイバルに向いているのかもしれない。メンタルは常にニュートラルだし、不測の事態にも平然としている。むしろ、平常運転過ぎるくらいだ。
「トワのおねだり顔、めっちゃ可愛いから好き。もっと見せて。」
指先にポテトチップスのカスをつけたミクの手が両頬を包む。目線は近く、息遣いまでもがわかる。人類滅亡の危機でも、好きな人が触れたら嬉しいと思うのは当たり前でそれに抗うのは無理だ。好きなものは好きだし、私たちはおままごとで恋愛をしているわけじゃない。顔も忘れた炎上コメンテーターに「ざまぁみろ」と思う。お前は炎上して、それでもうこの世界から消えてるんだ。
目を閉じ、ミクの気配に意識を集中させる。こんな世界になる前は家の中でしかキスをしなかった。手を繋ぐことすら、しなかった。今は誰もいないから、何も気にしないで済む。だってもう私たちに誰も石を投げられないのだから。
「そもそも、これって夢かもしれないし」
「ん?」
唇を舐めたミクが思い出したみたいな顔で言う。ほら、覚えてる?と塩っぱさを味わう舌がしまい忘れたままちょっとだけ飛び出ている。
「いつも寝る前に言ってたでしょ?目が覚めたら天国だといいねって。」
なんで今まで忘れていたのだろう。こんな世界は嫌だね、生き辛いね、そう零しあって狭いベッドの中で身を寄せあって眠ったあの日の夜。変わったことがあったわけではなく、変わらない憂鬱に押し潰されて泣いた涙を拭ったのはやっぱりミクだった。
「目が覚めたらみんな消えてるとか思わなかったけどね。夢にしちゃ上等かも。」
散々思い出話をしてくっついたまま眠ったことを思い出す。眠りに落ちる瞬間、ミクが「おやすみ」と額にキスしてくれたことまで鮮明に。気をよくした私はラムネにミクの指ごと食らいつく。ほろりと口の中で崩れた苦味に顔を顰めた。これはハズレだ。
「また当たり引いた?」
「当たりじゃないよ、ハズレだよ」
ゴリゴリとやたら苦いラムネを齧りながらもうひとつ頬張る。当たりであれ、と思うのに苦味はさらに増して吐きそうだ。
「うぇ……ティッシュ取って」
嘔吐寸前をギリギリで堪えているのに奥歯に挟まったラムネが喋った拍子に舌先を触れ、苦味が溢れ出てビリビリと舌を刺す。これはラムネじゃない。そう気づいた途端、言葉にならない恐怖で身体が震えだした。
「トワ、おいで。」
ミクは動かず静かな目でこちらを見ている。まるで人形みたいだ。温度がなく、感情もない。ゾッとするような美しさだけが強調され、伸びる手を私は拒んだ。
「おいで。」
「い、やだ」
「どうして?」
素早く腕を取られ、抵抗するとローテーブルにぶつかった。ポテトチップスの袋が落っこちて、残骸が床に散らばる。ミクの足がそれを踏んで私に覆い被さると、恐怖しかもうなかった。怖い、怖い、苦い。無我夢中で抵抗しながら(これはミクじゃない)と強く思う。ミクは常にニュートラルで、感情的になんてならない。目の前がぐにゃりと曲がるのは、見知らぬミクを打ち消そうと意識が働いたせいだろうか。
「嫌だ!」
喉がひりつくほど叫ぶと、視界がチカチカと光る。シーリングライトの眩しさに思わず両目をギュッ、と瞑った。
「聞こえますか!」
ぼやけた意識の中で、尖った声が鼓膜を震わせる。シミひとつない真っ白な天井。ここはどこだろう。自分を覗くたくさんの顔に気づくと喉の奥が痺れた。反射的に出そうとした声は唸りになり、その歪さに驚く。
「自分の名前言える?」
見たこともない聞いたこともない他人の、どこか祈るような懸命さに澱んだ意識を揺すり動かされる。規則的な機械音と鼻を突く薬品の匂いにようやくここが病院なのだとわかった。自分を見ているのは医療関係者で、自分はここに運ばれた患者らしい。脳内を覆っていた霧が晴れていく。
「み、く、は?」
「みくは?」
覗き込む顔が同じ音を繰り返し、その顔に緊張を浮かべる。規則的な機械音が突然不規則に鳴ったのは、バイタルセンサーが小さな反応を拾ったせいだろうか。
「ミク、一緒にいたはず……」
覗き込む顔が、怪訝な顔をした。一人だけでなく全員が嫌なものを見たみたいな顔をする。さっきまでの祈るような懸命さが嘘だったように、軽蔑と呆れが混じった視線で私を突き刺す。
「あなたの言うミクは、これのことですか?」
一人の看護師らしき人物が、一枚の写真を私に見せた。モコモコの部屋着を着てポテトチップスを齧るミクだ。可愛いのに横着者で、ちょっと意地悪なミク。
「ミク!」
はね起きようとして、腕が、足が、絡まった。四肢に取り付けられていたコードが絡んだのだ。動いたらダメだと押さえつけられても看護師が隠そうとするミクを奪い取ろうと必死にもがく。
「二次元と三次元がごっちゃなのかな」
無感情な声が嘲笑う。その声の主が自分を助けた医師だと知ったのはもう少し後のことだ。
睡眠薬を大量に飲んで危うく死にかけたということも、人類は絶滅なんてしていないことも、ミクは実世界には存在しない二次元キャラクターだということも私を救う何にもならなかった。ざまぁみろ、とその手を拒んだことをミクは笑っているだろうか。嗚咽しながらそんなことを思った。