第五話
バルロッグ様のおごりのステーキを三枚、ぺろりと平らげた勇者様は、ようやくここから村まで逃げ帰れそうなくらいには体力が回復したと言う。
それなのに。私は勇者様に首根っこを捕まえられ魔王城の外へと連れ出されていた。
「何故ですか勇者様、演奏を30秒で止めるって約束を反故にしたのは勇者様の方ですよ」
「事情が変わった。それはもういい。いいか? 前に話した通り俺がこんな所で野たれ死ぬ事になったら人間の世界は終わりだ。魔王を倒せる者は居なくなり、全人類が魔物の奴隷となる」
勇者様は辺りを見回す……魔王城の正門からは左右に塀のある真っ直ぐな広い道が続いている。しかしそちらは魔王軍の精鋭達が警備しており、人間は通れない。
塀の外はねじ曲がった巨大な木々が生い茂る深い森だ。とても真っ直ぐには歩けそうに無い。だけど、魔王軍の精鋭が固める道よりはまだ希望があるのだろう。今私達が居るのは、この森の方だ。
「俺はこの森を通って逃げなくてはならない。だが森には番人、いや番犬が居るのだ。地獄の猛犬、ケルベロスがな」
「あ、あの……それが私とどういう関係が」
「ケルベロスを出し抜く方法はただ一つ。生贄の餌を与える事だ。解るな? お前がケルベロスに襲われている間に、俺は村まで逃げ帰る。これが人類を守る唯一の方法だ」
「ええええ!? 他に方法は無いんですか!?」
「ああ、無い。人類の為に死んでくれ」
じ……人類の為? そんな……人類の為なら死ななきゃならないのかしら。でも……嫌だなあ。だけど人類の為かあ。
「あの、一度店に戻って店長に一言言って来てからじゃだめですか? さっき出て来る時にちょうど出勤して来た、あの人店長だけど私の実の父でもあるんです」
「いや。もうそんな時間は無い。俺達は既に森に入っていて、ケルベロスは俺達に気付いている」
そんな……いや、私は「すみれ」に戻れればいいんですから、今、勇者様が私の首根っこから手を離してくれればいいのだ。そしたら私は魔王城に戻れる。
「あの、ちょっと手を離していただけませんか」
「駄目だ。お前を使わないと俺が村に帰れない」
「ちょっとだけでいいので」
「安心しろ、ケルベロスが来たら嫌でも離すから」
そう言って勇者様は空いた方の手で、先程私が提供したじゃがバターについていたバターを、いきなり、無造作に私の頭に塗りつける。
「ぎゃぎゃ!? 何するんですか」
「来たようだ……そうだ、お前に礼を言うのを忘れていた! カラオケという物、想像以上に良い物だったぞ! お前が死んでもあの歌は俺がきっと歌い継いでやろう。ありがとう」
ああ……話が通じてる感じがしない。
――ドド……ドド……ドドド……
何かの足音が……たくさんの足音が聞こえて来る……凄い数だ……
「急ぐぞ、さあ来い」
勇者様が私の首根っこを掴んだまま走る。私も釣られて走る。
「そろそろいいか。さらばだカラオケ店員! 魔王を倒したらお前の事も記念碑に書いてやる!」
勇者様の手が離れた。
「待って下さい! 置いていかないで! 私も村まで連れてって下さいよ!」
だけど勇者様は私を置き去りにして走り去って行く! こっちは運動不足の浪人生、とても追いつけそうにない……ああああ……
――ドドドド……ドドドドドド……
近づいて来る、ケルベロスが、逃げなきゃ、どうしよう、魔王城の方に戻ろうか、勇者を追い掛けようか、どうしよう、ああああ……
あっ……今……歪んだ木々の幹の間から一瞬見えた……
ケルベロス……? あれが……ケルベロス!
巨大な! 巨大な犬のような生き物の大群が! 木々の間を駆け抜け、こっちに向かって来る!?
恐ろしい、赤銅のような色をした長い毛並み! 体は雄牛程にでかく、手足は太く逞しく、大きな顔の中で大きな口を開き、その恐ろしき双眼は長い毛並に隠れて見えず、その巨躯に似合わぬ短めの尻尾は激しく左右に振り回されていて……
「ぎゃあああああああ!!」
先頭のケルベロスが、森の木々の合間から飛び出し、大きく口を開けたまま、私に飛びかかって来た! 私はひとたまりもなく、ケルベロスに体当たりされたまま、低い丘から転がり落ちる。
「ぎゃあああ」
落ちる間にも次から次へ、ケルベロスが、巨大なケルベロスが、大きな口を開けたまま、次々と私に突き当たって来る。
「ああああ」
たちまち前後上下左右の空間がケルベロスで埋め尽くされた。赤銅色と骨白色のダブルコートの長い毛並、輝く白い牙と長く大きな舌、それらが、斜面を転げまわる私と一緒になって、回る、回る……
「ああああ」
長い舌が容赦なく私の顔を、頭を、首筋を舐めまわす……猛犬の唾液が……ココナッツオイルそっくりの臭いのする猛犬の唾液が、額といわず頬と言わず擦りつけられる……
「ああああ」
鼻息が荒い。皆鼻息が荒いんだけど、鼻の周りまで額の毛並が迫っていて、それが鼻息の度にバフバフいって揺れる……長い毛並に隠されたその双眼は、その巨躯に対していやに小さく見えて、それがまたその……
「ああああ」
恐ろしい。何という恐ろしい獣共だろう、全身を甘噛みしながらじゃれる、じゃれる、転がっても痛くないのか!? 私が上に乗っても平気なのか!? 短めの尻尾を懸命に、懸命に振って……
何ですかこのピレネー犬みたいな連中は? ああっ!? わかった、わかったから、舐め過ぎ! 舐め過ぎ!
「おいおめえ! あれ、おめえカラオケスナックの店員じゃないか、こんな所で何してるんだー?」
森番のミノタウロスさんがやっと来てくれた……た、助けて……
「あーあ。最近ちょっと散歩をサボってたからなあ……おめえ、ヒマならちょっと遊んでやってくんねーか、そいつらと。ストレス溜まってんだあ、みんな」
遊んでやれも何も、私はバフバフいうケルベロス共に丘の上を転げ回され、モッフモフのゴロンゴロンで手も足も出ない。体でかいけど毛はめっちゃ柔らかい。
こんなのにくるまって寝たら、それこそ雪国でも野宿出来るのではないか。しかも何このココナッツオイルのような臭い。たまらん。
こっちから抱き着いても全く嫌がらない。こんなに人間好きな生き物を番犬にする意味があるのか?
私は暫くケルベロス共と戯れていた。今日は色々大変だったし、ちょっとくらい癒させていただいてもいいだろう。
お読みいただき誠にありがとうございます! もし宜しければ是非、このページの下の方のリンクから「少女マリーと父の形見の帆船」も読んで行って下さい、当作の主人公「マリ」の元になった近世大航海時代の明るく元気な主人公が織りなす明るくライトなファンタジーです、そんなに長い話ではありませんから、ぜひぜひ、軽い気持ちでお読みいただけると嬉しいです!