アルゴ船の羅針盤
眠るために真っ暗にしている部屋には、外の騒がしさがよく聞こえてきた。
男爵の部屋から僕が逃げ出したことは周知されていて、複数人いる警察官がバラバラに捜索しているようだ。
何人かが駆け足で近付いてくる音がする。
「隈なく捜索しろ! ヤツはまだどこかに潜んでいるぞ! 見つけた者は撃って良いとのことだ!」
位の低い貴族では特別部隊は動かせなかったようだ。
けれども民間警察がずいぶん血走っている。きっと男爵がそう指示したんだろう。
捜索の手はついにこの部屋のノブにも触れた。
キィと音を立たせると、廊下の灯りが四角く部屋の中に入ってくる。
「……子供部屋か?」
「さすがに起こすのは悪いんじゃ」
二人の警察官が部屋の前で立ち止まっていた。
「おい。お前たち」
これは別の人物の声で、この二人を呼んだものだ。
「その部屋は最後で良いと言われている。早く閉めろ」
「はっ!」
スピカの部屋は捜索されずにそのまま閉められた。
しばらくはバタバタと複数の足音が鳴っている。
それは遠ざかったり近くなったりしていたけど、そのうちにパッタリ聞こえなくなった。
寝たフリをしていたスピカが、もぞもぞと動いて顔を出す。
僕も遅れてベッドの裏から顔を上げた。
「はい、これ」
スピカが僕に差し出していたのは、僕の元々の衣服だった。
そうだ、危うくメイドの衣装のままで脱出を図ってしまうところだった。
「ありがとう。それにしても何でこの部屋に入って来なかったんだろう」
「お父様は私を他の人に見せたくないの。いつも病気だって言っているから」
スピカは、僕が届かない背中のファスナーを手伝いながら教えてくれた。
僕は「そっか」とだけ言って、急いで元の衣服に着替えている。
「お兄さんは怪盗なんでしょう?」
スピカは真面目な顔で僕を見上げた。
もう僕のことはアンジェだと思っていないみたいだ。
「うん。そうだよ。騙してごめんね」
スピカは首を横に振った。
「羅針盤あるよ」
「えっ?」
衣服の入った引き出しにスピカは片腕を突っ込む。
そこから取り出されたのは金属製の小箱だ。スピカが僕の手のひらに持たせる。
婚約指輪でも入っていそうなサイズ感だし、蓋の感じも似ているけど、鉄なので結構ずっしりと重い。
この中に『アルゴ船の羅針盤』があるなら、僕が思っていたよりも随分小さい。
半信半疑だった。
「これをあげたらお兄さんが帰っちゃうと思ったの。だから嘘ついてごめんなさい」
スピカは上着の裾を掴んで小さく左右に揺れていた。
僕は責めるつもりは無い。そっと腕を伸ばしてスピカの頭を撫でてあげた。
ちゃんと許されたのだと分かって、スピカはあどけない笑顔で答えている。
さあ、僕はついにこの箱を開けようと蓋に手をかけた。
「ちょっと待って」
そう言って、僕に渡してくれたはずの羅針盤をスピカは奪い取った。
今更惜しくなって取り上げたのではなくて、なにか底のゼンマイを回してからもう一度渡される。
「オルゴールなのか?」
仕掛けがありそうな箱を開けた。
すると思った通り、金属板を弾く音で音楽が流れ始める。
明るい曲調だ。歌うように流れるメロディーは優しくて心が落ち着く。
そして肝心の内部には円盤があった。
金で緻密にデザインされた透かし絵の円盤。ポイントとしてサファイアがはめ込まれていた。
これが黄金のありかを示し出す羅針盤というわけか。
かなり美しい芸術作品だけれど、方角をさす針が付いていない。
果たして羅針盤と呼べるのか……。
僕は円盤をじりじり見つめている。
「ねえ、踊って!」
「えっ!?」
僕はスピカに手を取られる。
でも僕は踊りは全く教育されていないし、それに今踊りたい気分でもない。
スピカに引っ張られる形で、なぜだかぐるぐると二人で回転していた。
するとどういう魔法だろう。この子供部屋に変化が現れだした。
辺りが徐々に暗くなり、天井や壁といった仕切りが闇に包まれて無くなっていく。
家具も消えて真っ暗になり、僕らだけが取り残されていた。
そんな変化が起こるとあからさまにビビっている僕だ。でもスピカは全然平気そうだった。
ぐるぐる回り続けていると、暗闇の中にポツリポツリと光の粒ができはじめる。
それは百個や千個の数では無い。
数万……数億……暗闇だったところを埋め尽くし、とうとう彼方まで続いている星空に変わった。
音楽が一周する間にだ。僕とスピカは宇宙の中に居るみたいになった。
「な、何が……」
当然僕のような堅い大人は理解がついていかない。
そういえばさっきから音楽にまぎれて波の音も聞こえてくる。
ここは宇宙なのか海なのか何なんだ。戸惑っていると、今度は頭上から金色の光がふわりと揺れ落ちてきた。
流れ星とは違う動きをする金色の光は、集まって幾重の帯になった。
僕とスピカを包んで海のうねりのようにゆっくり動いている。
上ばかり見ていたら足元はいつの間にか、あの円盤だった。
金の緻密な透かし絵。巨大な円形ホールの床のように広がっている。
サファイアの部分をつま先で踏むと、コツンと鳴って青い光を放った。重力は失っていない。
つまり僕とスピカは『アルゴ船の羅針盤』の上に立っている。
理屈はどうあれ僕はそう感じた。
「すごいでしょう!」
スピカは満点の星空を見上げながら嬉しそうに言う。
僕は彼女のように力を抜いて楽しむことは難しい。
だけど本当に思っていたことを返した。
「うん、綺麗だ」
僕たちが見上げる星空に、一羽の白いハトが飛んで行ったように見えた。
……いや、見間違いか。それも光が見せている幻だったのかもしれない。
「音が聞こえるぞ」
外部の声で僕とスピカは足を止める。
オルゴールは鳴り続けていた。しかし僕らを照らすのは夜空の星では無く、屋敷の廊下から漏れ出る電気の明かりだ。
開けられた扉では三人の警察官が僕らを見つけている。
「娘と男だ!」
血気盛んな若い警察官は見境が無いようだ。
僕とスピカはすぐに三つ分の銃口を向けられてしまった。
時にその中のひとりの銃口は軸が定まらずに、こんなことを口にする。
「なんだあの娘。白くて気味が悪い……」
スピカは警察官を前にして怖がっているのか固まったままだった。
……オルゴールの音が途切れた。
まるで夢の終わりを告げるかのように。
僕は羅針盤をポケットに入れたら潔く両手を上に。そして頭の後ろで手を組んだ。
これを見て警察官は、訓練通りの連携を崩さずに動き出す。
僕を捉えようと順番に部屋の中へ足を踏み入れ、手縄をかけてくるはずだ。
「その子は味方じゃないよ。連れて行くなら僕だけにしてくれ」
するとスピカの方へ向かっていた警察官は、よく言うことを聞いてあっさり引き返してしまう。
少しホッとしたような横顔を僕は黙って見送った。
ちょうど僕の真後ろには、腕に縄を掛けようと作業を始める警察官がいる。
部外者のスピカはどう対応したらいいんだろうと、話し合う声はこちらにも堂々と聞こえていた。
「……悪かった」
どうやら僕の落ち着き払った態度が、彼らには僕が観念したのだと思い込ませてしまったみたいだ。
ほんとに悪いことをした。
「うあっ!?」
後ろの警察官が悲鳴を上げて倒れる。
異常に気づき急いで僕に銃口を向けるも遅過ぎだ。
素早く相手の懐に入って腕や足を振ると、未熟な警察官は拳銃を床に落として、次にその身も倒れた。
だけど優秀な警察官は部屋の外に待機している。
「怪盗だ! 入り口や窓を抑えろ!」
僕は衝動に任せてスピカを抱きかかえた。
八歳の少女なら肩に担いで片手で持ち上げられる。
「いたぞ! 撃て!!」
「おいおい、男爵の娘に当たっていいのか!?」
廊下で鉢合わせになった警察官は躊躇いなく引き金を引いてきた。
玉が自ら少女を避けてくれるはずがない。
僕は煙幕を投げてその場を回避する。
咳き込む警察官の間を抜けて玄関へ向かうと、そこに構えるのは男爵だ。
「逃さんぞ!」
僕へ銃口を向けて狙いを定めている。渾身の一発で仕留めるつもりだ。
「お父様!」
後ろ向きに担がれるスピカは、体を反らしてでも父親へと呼びかけた。
男爵は攫われそうになる娘を目の前にしても、眉一つ動かさない。
憤るでも嘆くでもなく、僕の命を撃つことだけに集中しているようだった。
そんな僕は今更引き返して逃げるなんてしない。
「……さらば男爵。頂いていく」
そのまま真っ直ぐに突っ走り、男爵の後ろに開いた扉を通り抜けた。
煙幕の中から駆けつけてきた警察官は、男爵を置いて屋敷の外まで追ってくる。
外はもうすっかり夜になっていた。月や星が辺りを照らす明るい夜だった。
星空を見上げると僕はまた、あのオルゴールの音を思い出している。
(((これにて完結です。
(((ありがとうございました!!
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