第六話 『退避避難逃亡逃走』
――ザァーザァー
打ち付けるような雨の中、その得体のしれぬ何かは煙を上げながらこちらに近づいてくる。
体長はレーヴェさんと同じ位のものだろうか、しかしながら、その見た目は人というには様子が違い過ぎる。
体のいたるところから炎が巻き上がり、あまりの炎の激しさから表情もまるで見えない。
「……」
ハルは息を飲み、その何かのことをじっと見ていた。
全身火だるまだというのに歩みはまるで、レッドカーペットを歩くハリウッドスターかのように堂々たるものだった。
バケモノらしく叫んだり発狂したりせずに、沈黙を保って歩いてくる様が気味悪さを一層色濃くする。
「お前たちは逃げろ」
雨音だけの沈黙の中、レーヴェが最初に口を開く。
ハルからはレーヴェの表情は見えなかったが、彼の語気からも、この状況が明確に異常であることは理解できた。
「いや――お父さんも一緒に」
「ダメだ!」
レーヴェの腕を必死になって掴むアリニアの手をはらい、厳しい顔をしたレーヴェは彼女を突き放す。
恐らくそんなことはこれまで一度もなかったのだろう、アリニアは動揺した表情を見せた。
「ハル、ちょっとこっち来い――持っておけ。アリニアを頼んだ」
レーヴェはハルにネックレスを手渡す。そのネックレスには青色の宝石がはめられている。
それが一体何なのか、どうしてこのタイミングで渡してきたのか知らないが、ハルはそれを受け取った。
「無くすなよ――よし、いけ!」
レーヴェはハルの腕で無理やりアリニアの腕を掴ませた。
「お父さん! ――」
「……」
アリニアがゴネる中、ハルは一言も発することは無かった。
今、目の前で起きようとしているのが何か分かっているのにもかかわらず、まるで案山子のように指先一つ動くことなくその場に立ち尽くしていた。
「早くいけ!!」
レーヴェはそれまでに聞いたことがないほどに大きな声で、それでいて強い語気で言い放つ。
ハルは彼の言葉に強制的に動かさせられ、アリニアの腕を強く握り森の方へと走り出した。
それは、何をするべきかと考えたわけでも、感じたわけでもなく、ただその言葉のに無理やり突き動かされた。
「お父さん! お父さん!――」
「……」
ハルは無言だった。
アリニアは必死に握られた腕を振り払おうと抵抗する。そんなアリニアのレーヴェを呼ぶ悲痛な叫びは、雨なんかよりもよっぽど耳の奥で鼓膜を揺らす。
ハルはアリニアを連れ、木々の生い茂る山の中を一切振り返ることなく突き進む。
雨は次第に強さを増し、地面はドロドロ、すぐそばを流れる川は水量を増し怒鳴り声のようにごうごうと音を鳴らす。
「離して!!」
言葉と同時にアリニアは俺の手を振り払った。
その時、初めて俺は振り返った。びしょ濡れになったアリニアの表情は、俺と初めて会った日の時なんかとは、比べ物にならないほどに怒りに満ち溢れていた。
口元はゆがみ、目はゴキブリでも見ているかのようだった。
しかし、アリニアは俺にぶつけたいであろう言葉を押し殺し、来た道を戻ることを優先し走り出した。
「おい、待てよアリニア!」
二人は、もうほとんど泥道となった山道を滑りながら走る。
流石に山の中に長い間住んでいるだけあって、アリニアの方が動きが速い。
追いつけそうもないが、ハルはただレーヴェからの言葉の通りに二人で逃げることを考え、アリニアのことを追いかけた。
その時、何故だか突然アリニアはピタリと足を止める。隙をついてハルも彼女に追いついた。
「……!」
アリニアの隣までやってきたハルは目の前の光景に絶句した。
それは、家のあった方向から天高く昇る火柱だった。
『グゴオオオォォオオオ!!!』
ただ猛然とその光景を覗いている中、森中に耳を塞ぎたくなるほどのけたたましい怒号が響き渡る。
それと同時に火柱はさらに勢いを増し、黒雲満る空を貫かんばかりに巨大化した。
――ダッ! バサッ
アリニアが走り出そうとしたその時、ハルは飛び掛かるようにして彼女の進行を妨げた。
確実にヤバい。人間にまだ残っているか知らないが、野性の勘が限りなく危険感じている。
「なにするのよ! 離してよ!」
「ダメだ! 行っちゃいけない!」
ハルとアリニアは互いに引くことは無く、地面に転がり泥だらけになりながら格闘する。
「なんで止めるのよ! あなたには関係ないでしょ!」
「関係なくなんかない!――グッ」
暴れまわるアリニアの肘がハルの顔に当たり、口の中に久しく鉄臭い血の味を感じる。
「あなたなんて居なければ良かったのに……死ね、死ね!」
「……!」
アリニアのその言葉によって、むきになったハルはアリニアの口を抑える。
後ろから動きを封じられ悶えるアリニアだったが、男と女という絶対的な対格差の前にはなすすべもなく、ただ覆っている腕をつかみ返すことくらいしかできない。
「っんん……んんん!」
アリニアの文字に起こすことの出来ない声が、嫌な響きを耳に植え付ける。
「――ツッ!」
ハルの手の平からの鋭い痛みが脳に伝達され、指の間から血が垂れる。
アリニアは最後の抵抗にハルの手の平に嚙みついたのだ。しかし、ハルが手をどけることは無かった。
きっと、アリニアも分かっているはずだ。レーヴェさんの考えも、今の最善策も、何もかも、だから、お願いだから耐えてくれ……。
自分がアリニアに対して行っている酷い行為への罪悪感と、何もすることの出来ないという己の無力さに押しつぶされそうになり、ハルは目を閉じる。
――誰でもいいから。助けてくれよ……。
ハルは浅い息を繰り返し、激しい雨粒の音と、小さくなっていくアリニアのうめき声を耳で感じながら、来るとも分からない助けを求める。
――パタリ……。
アリニアは力なく地面に手をついた。