第三話 『美女と野獣と青少年』
「あれ? まだ生きてたの?」
聞きなれたその声は、目を覆いたくなるほど悲惨な光景と共に蘇る。
落書きと傷跡でめちゃくちゃになった机。その上に置かれた花瓶には一凛の白い花が手向けられている。
――どうして俺がこんな思いを……。
ただ通り過ぎていく毎日を必死に耐え、時間が解決してくれるのを待った。
しかし、時間は無情にもただ彼を放って進むだけだった。恐怖は彼の心のより深いところを蝕んだ。
――怖いよ。怖い、怖い怖い怖い……誰か……助けて。
少年は永遠に近い時間を過ごす中、英雄の到来を待ちわびた。が、彼の前に英雄が現れることはなかった。
「――ま、眩しい……」
ハルはおもむろに目を開ける。
カーテンの隙間から差し込む日の光が、悪夢から覚ますとともに夜明けどころか昼下がり時の到来を告げる。
夜空はいつの間にか木製の梁と木目に変わり、暖かいベットの上にハルは寝かされていた。
上体を起こし、霞んだ視界を右の手で擦る。
「またあの夢か……って、あれ?」
ハルは自らの体の正常な異常と対面する。
「右手が……ある」
自らの体を離れていったその右手は、まるで何事もなかったかのように忽然とそこに戻っていた。
泣き叫びたくなるような痛みもどこかに消え去り、さながらあの出来事が夢だったとでも訴えかけているようだった。
「てか、ここどこだ? 服もないし。さみぃ……」
上半身裸のハルは体を摩りながら辺りを見回す。
石でできた壁が四方を覆い、見える家具はすべて木製。まるで美術館や歴史の教科書に登場する絵の中に紛れ込んだかのような不思議な感覚だ。
と、その時、部屋の片隅にあった扉が開く。
「あら、起きたの」
扉の隙間から覗く瑠璃色の瞳と目が合った。
黒く艶のある長い髪をリボンで束ねた美少女は、窓の隙間を通る温い昼風になびかれながら、俺のベットの脇までやってきて、
「――ギュッ」
「な、なに!?」
少女は突然ハルの手を握り、何も言わずに無理やり部屋からハルを連れ出した。
「ちょ! ほんとに何!」
下りの階段に躓くのもお構いなしに少女はハルを小走りで引っ張る。
しかし、久しい女の子の手の感覚。それも美少女の柔らかい手の感覚がハルの心臓の鼓動を早くさせ、頬を赤く染める。
これから一体何が起ころうというのだろうか。
困惑とワクワクが相まって河川敷を夕日に向かって、あるいは長髪の国語の教師に向かって走っていくかのような清々しい感覚が心を満たしていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……へ?」
「さようなら――バタンッ!」
気の抜けた言葉を吐露しながら、ハルは一枚の扉を隔てて家の外に追いやられる。
ハルの頭の片隅にあった邪で都合のいい妄想は、分厚い扉の勢い良く閉まる音にかき消された。
「追い出された……」
閉ざされた扉を眺めながら、ハルはぼそりとつぶやく。
紛れもなく路頭に迷った。初めから目的なんて何もないことも相まって、ここから動くこともできない。
感覚として数時間の内に色々と起こりすぎだ。
右の手の平を不思議そうに眺め、開いたり閉じたり感覚を確かめながら、これまでの出来事を頭の中で整理する。
異世界に来たは良いものの、俺は腕を落とされ出血死――したかと思うと知らない家で目を覚まして腕も元通り……っと、どう考えても訳が分からん。
「やっぱり変だよなぁ……」
「なにが変なんだ? 掌に何か書いてあったか? 坊主」
「いや、そうじゃないんですけど……ん?」
後ろから、というか上から聞こえるその声に、ハルは顔を上にあげた。
そこには顔の半分ほどを髭で覆われたまるで獣のような男の頭があった。
「元気か? 坊主」
「は……はい」
「そうかそうか、そりゃよかった!」
海外のホームドラマのお父さん役で出てきそうな巨漢な男は、ハルのことを軽く肩に担ぐとつい先ほど追い出された家の中に入っていった。
「ただいま!」
「ちょっと、何すッグヘ!――」
「おっと、悪い悪い。この扉ちょっと低いんだ」
「お帰りなさ――って、お父さん! なんでその人連れて帰ってきたの!」
つい先ほど俺のことを家から追い出した少女は、あからさまな嫌悪感を眉間に寄せ、大男のことをまるで野良猫を拾ってきた子供のように叱咤する。
「なに、坊主なんかしたのか?」
「特に何も……」
「じゃあなんで怒ってんだ?」
「……」
いや、俺が聞きたいよ! 俺が一体何したっての!
なんて叫んでやりたいところだけれど、まぁ家にいる知らない男っていうのはゴキブリがいるみたいに気味悪く感じてしまう物なのかもしれない。
でも追い出すかよ普通。俺怪我人よ? 外傷ないけど。
心の中で喜怒哀楽のめちゃくちゃな問答を繰り広げながら、ハルはぶつけた額を摩る。
「いいから、早く追い出してよ!」
「何があったか知らんが落ち着けアリニア。なぁ、坊主。お前当てはあんのか? 家や親戚は?」
「……ないです」
それもそうだ。
俺はそもそも異世界の人間じゃない。親戚どころか、知人は疎か名前を知っている人間もまともにいない……アンノがいるがあいつはノーカン。
前世でも、無いものばかりだったというのに住所も戸籍もなくし、ついでに学生という元々安否不明の肩書をも完璧に消え去った。
正真正銘“住所不定無職”の出来上がりだ。
「ならここに住め」
「え?」
「ちょっと、お父さん! 何言ってるの!」
予想だにしていなかった男の言葉にハルは男の横顔に視線を見向け、満面の笑みを浮かべた男と顔を見合わせた。
対してアリニアと呼ばれていた少女は困惑と怒り混じりの表情を向ける。
「言ったろアリニア。コイツが目を覚まして行く当てがあるなら、そん時は行かせてやるってな。でも、コイツには行く当てがなかった。なら置いてやるしかないだろ?」
俺がどうして起きて早々追い出されたのかわかった気がする。
大方、俺に当てがあろうがなかろうが、この人が帰ってくるまでに追い出して、帰ってきたら自発的に俺がどこかに行ったとでも言うつもりだったのだろう。人助けのヒの字もない行動だ。
しかし、見ず知らずの誰かを頼ろうというのは日本人として難しかったりするもので、
「でも、そんな迷惑になるわけには――」
「うるせぇな! 男のくせに、うだうだ言うんじゃねえ。困ってんなら頼ればいいんだ。そんでこのレーヴェ様にカッコつけさせろ!」
ハルの言葉を無視し、レーヴェは少年の肩をつかみながら私情を孕んだ暴論を吐く。
しかしながら、そんな言葉はハルにとって彼が最も求めていた言葉であった。
あれほど待ちわびた“そんなもの”はアメリカンコミックの中から今、目の前でローガンばりの立髪と白い歯を見せて立っていた。
「……は、はい」
ハルは、そんな勢いのある言葉にあっさりと首を縦に振る。
「よし! そうと決まれば着替えろ。いつまでも裸のままじゃ風邪ひいちまう。お前の寝てた部屋のクローゼットのものを好きに使うといい」
肩をポンと叩きながら、レーヴェは二階を指さす。ハルは軽く会釈しながら二階へと上がっていった。
「ねぇ、勝手に話し進めないでよ」
アリニアは黒い髪を逆立てレーヴェに不満をぶつける。
「いいじゃないか、アリニア。家族が増えると賑やかになるしよ」
「いや、だって……」
アリニアの表情は怒りから不安そうな表情に変わる。
「まぁ、心配するな。父さんを信用するんだ。さあ、飯の時間だ」
浮かない顔のアリニアの頭に手を乗せ、レーヴェはそう言った。