第二話 『怪物』
「あああぁぁぁあああ!!!」
暗く静まり返った森に少年のけたたましい叫び声が響き渡る。
思い込みとは、酷く恐ろしいもので、常識や普通なんてものは、しばらく俗世から離れてしまうと案外容易に書き換えられてしまうものだ。
彼もまた長い間、理想郷にのめり込んでしまったせいで、病的なまでの錯覚を起こした。
「腕が……俺の腕が、あぁ……」
ハルはその場に倒れこみ、断面から流れ出る血液を必死に抑える。体に起こっている目に見える異常を、激痛をもってさらに理解させられる。
痛みは錯覚を治す特効薬となり、ハルの意識を理想郷から現実へと引きずり下ろした。
「おいおい、なんだよコイツ。なぁ旦那、お仲間に晴人なんか入れてんのか? イカれてるぜあんた! ギャッハハハ!」
先ほどまで自信満々だったハルの面影はまるでない。
そんな彼を見て、山賊達は指をさしながら嘲笑する。ハルの声はそんな男たちの笑い声に打ち消された。
「ほーら、落とし物だぜ」
山賊はニヤケ面で、切り落とされたハルの手を、ハンカチでも渡すかのように差し出す。
激痛の影響で錯乱状態に近いハルは、これを受け取ろうと手を伸ばした。
「――ヴッ! グフッ! ――バコンッ!」
ハルが手を手に取った瞬間、山賊から顔に一発、腹部に一発ずつ蹴りを食らう。体は勢い良く後ろに飛び、焚火にくべられた薪をあたりにまき散らした。
「はぁ、何やってんだ? お前」
煙草をふかし、呆れ顔のアンノは、ローブから水筒を取り出すと、今にもハルに引火寸前の火を消す。
「あぁ……いたぃ……」
口の中に鉄臭い血の味と砂の味が広がる。
「腕が切れてんだ。そんなもんあたりめぇだろ。それともなんだ? 切れても痛くねぇとでも思ったか? ったく、変な物拾っちまった」
地面の上をのたうち回るハルを放って、アンノは山賊のほうへと歩き始めた。
「次はあんたか? お仲間さんは、ほっといていいのかよ」
「仲間なんかじゃねぇよ。拾ったガキだ」
「なんだよ。冷たいや――バタリッ」
アンノが、そばに来た時、山賊は言葉を最後まで口に出すことなく、その場に倒れこんだ。他の山賊はそんな仲間の異変に動揺を示す。
焚火のわずかな光の中では、山賊達はアンノが何をしたのか気づかなかった。
「テメェ! 何しやがった!」
「……教えねぇよ。教える馬鹿がどこにいる」
山賊はアンノを包囲する。
アンノは両の手を上げ、山賊にローブの中身を見せるようにアピールする。アンノのローブの中は不自然に穴の開いた鎖帷子を着ていることだけが確認できる。
腰に剣もなく、武器といえるものは全く見当たらない。
「おいおい、こっちは丸腰だぜ? そんなに警戒すんなよ」
山賊は、じりじりと距離を詰める。
そして族の一人が、倒れた仲間の顔を確認したときに、倒れた理由を理解する。
仲間の首には鉄製のナイフが根元まで深く突き刺さっていた。
「ふざけやがって!」
激高した山賊は剣を振りかぶり、アンノめがけて走り出す。最初の一人を皮切りに、山賊達は次々と襲い掛かった。
「ピーピー、ギャーギャーうるせえなぁ」
しかしながら、山賊達はアンノにそれらすべてを捌かれ、切先が体に触れることはなかった。
それどころか、アンノは山賊の足をかけたり攻撃を寸前でかわすなど、あからさまな挑発行為に出ていた。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
「怖いなぁ、全くよ」
ただでさえ仲間を一人殺されている山賊達にとって、火に油を注いでいるかのようなアンノの行為に、山賊達の怒りは加速していく。
「――ウグッ!」
山賊の一人が初めの山賊のように、ぴたりと動きを止める。
アンノはどこからかナイフを取り出し、襲ってきた山賊の下顎から突き刺していた。
おそらく上顎まで貫かれたであろう山賊は、声も上げられぬまま白目をむいて力尽きる。
アンノはナイフを抜き取り、根元までべっとりと付着した血液をあたりに散らした。
そこから、アンノの反撃が始まる。
目にもとまらぬ早業は喉や心臓などの急所を的確に狙い、次々と襲い掛かってくる山賊達を一人また一人と、ただの骸へと変えていく。
……何だよこれ
ハルは右腕を抑えながら、目の前の度し難い光景を眺めていた。
それは戦いとは到底言えぬ代物だった。素人目にもわかる人数だけでは埋めることの出来ない圧倒的な実力差。虐殺、殺戮そんな言葉が、この場において最も適切な言葉に思える。
そして、そんな惨劇はあっさりと幕を引く。
「……くっそが、お前ら! 行くぞ……」
「やられっぱなしで、終われるかよ!」
「いいから、行くぞ!」
まだ煮え切らない表情の若い男を引っ張り、生き残った山賊達は森の陰に消えていった。
まるで何もなかったかのように静寂だけを残した空間には、まだ熱の残った幾体もの死体がダラダラと血液を垂らして転がっている。
――ピッ、プシュゥ。
アンノはすべての死体の首元にナイフを押し付けそのまま脈を切断する。そのたびに、噴出した鮮血が地面を真っ赤に染め上げる。
「何してんだよ……」
「なにって、生きてたらまずいだろ? こうしとけば、息が吹き返すことはねぇ」
ハルは恐れていた。
目の前の怪物に恐れていた。
顔色一つ変えず次々と人を殺していたアンノが、凶悪な何かに見えて仕方がなかった。
冷静さを少しづつ取り戻していたハルは辺りを見回す。
生々しい血の匂いが鼻を突き、初めて見る死体の数々に思わず俺は胃の中のものをすべて吐き出した。
「大丈夫か?」
ナイフについた血液を丁寧に拭き取りながら、アンノはハルの方へと近づいてくる。
しかしながら、ハルは少しでも遠ざかろうと、残った左腕と両足をバタバタと動かしながら離れていった。
「お前……なんなんだよ!?」
「なにって……」
何かを思いついたアンノは、首に掛けてるドックタグのようなものをハルに見せた。
金色のそのタグには二本の傷跡が刻まれている。
「俺は冒険者だ。階級は金二等級」
「冒険者?」
「知らないのか? あぁそういえば、お前帝国の人間じゃなかったな」
決してその職業を知らないわけではない。
しかし、俺の知っている冒険者は凶悪なモンスターを討伐したり、ダンジョンを攻略したりするような者たちのことを言う。
少なくとも今、目の前のこの惨状を作り出すような人間ではない。ゆえに、この男の言っていることが理解できなかった。
「ほら」
アンノはハルを起こそうと手を伸ばす。
しかし、ハルはそんなアンノの手助けには応じず、じっとアンノの手を見つめていた。
「ん? なんだよ、細けぇなぁ」
自分の掌を確認して、アンノは着ていたローブで手についた血を拭い再び差し出した。
「あ?」
ハルは目の前から消えていた。瞬間、視線の先の林が揺れ動いた。
アンノが目を離した隙に、奥の林の中に逃げていったのだった。
「なんだよあいつ。まぁ、こっちも仕事は残ってるから、いいんだけど、――あれどう思うよ、ドル」
アンノはため息まじりに自分の荷物を置いている場所に戻ると、どういうわけか荷物に向かって語り掛けた。
「なんだよ。寝てんのか? ったく、どいつもこいつもバカばっかがよ」
そう言って、アンノは巨大な荷物を背負い、山賊達が逃げていった方へと歩いて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
イってぇ、死ぬほどいてぇ。
背の高い木々が生い茂り、一層濃くなった闇の中を少年は走りづつけていた。
「はぁ……はぁ――」
俺は必死に逃げていた。
山賊に輪切りにされた腕は、波のように一定の感覚で激痛を全身に伝える。そのたびに、足がもつれて、何度も転げた。
まだ、顔や腹も痛い。口の中の血の味は進めば進むほど濃くなっている気がする。
でも、逃げないといけない。
それは本能的に、あのアンノという男から一歩でも多く距離を置かなくてはならないと感じていたからだ。
あれ……。
血を流し過ぎたのか、ハルの視界が少しぼやける。
「あっ!――ザザァ」
目の前の斜面に気が付かず、ハルはそのまま背中を地面で削りながら数十メートル下の地面まで滑り落ちた。
全身はボロボロ。カッターシャツについた血が体に張り付いて気持ちが悪い。
血を流し過ぎて頭はクラクラするし、体力はもうとっくに底をつきている。あんなに逃げようと必死だったのに、立つ気力すらもうなかった。
「ハッ……ハハハ――」
突然ハルは不気味に笑いだした。
「なんだよこれ。チート能力? ハーレム? 馬鹿みてぇ。誇大妄想も甚だしいな。俺は……俺は知ってたはずなんだ。現実なんてこんなものだって……転生したところで結局変わんねぇな……」
ハルはゆっくりと空を見上げる。
焚火の火もなくなったことで、より一層輝く星空が見える。
もしもこれが悪夢なら、誰か俺を――。
ハルはそっと目を閉じた。