第八話 『酒と煙草のイイニオイ』
「――ヘックション! ――あぁ、ズルズル」
「お父さん大丈夫?」
心配そうにアリニアがハルの背中を摩る。
ギルド長の吐しゃ物は、ハルの胸元から足先までその痕跡を残し、文字通りハルの服をゲロまみれにした。生まれてこの方、人にゲロをかけられたことなど一度もなかったために、ハルははその場で絶句。口を開けたまま声も出せなかった。
結局、すべての衣類を脱ぎ、汚れを洗い落とした後、パンツ一丁で毛布にくるまったハルは肩を震わせながら椅子に腰かけ机をまたいで、あの細身眼鏡のゲロ吐きギルド長と対面する。未だ肌には体を流れる生ぬるく粘っこい感触が残っていた。
「いやぁ、ごめんごめん。ついつい飲みすぎちゃってさー。ほら、お祭りごとがあると、なんていうかこう、高ぶるっていうかさぁ」
険しかった顔の理由は酒に酔い気分を悪くした人間のそれだった。
しかし、なんとも楽しい言い訳をしつつ平謝りするギルド長であったが、その片手には新しい酒の注がれたジョッキが握られている。
「まだ飲むんですか? ついさっき吐いたばっかりじゃ……」
「え? いやいや、よく言うでしょ。君……えーと、名前なんだっけ?」
「……ハルです。吉更 華」
「あー、ハル君ね。毒を以て毒を制すってさ。つまり、そういう事」
ギルド長にはまるで反省の色はなく、飲み会にいる馬鹿な大学生のような理屈をこね、口が開くたびにアルコールの臭いを辺りにまき散らしながら続ける。ハルはその強烈なアルコール臭に顔をそらした。
「あぁそうそう、私はこの冒険者ギルドのギルド長カイモス。そして、あそこにいるのが副ギルド長のダロック。まぁ何かわからないことがあったら私か彼に聞くと言い」
「ぐ!……オロロロロ――」
「大丈夫か? ダロックさん」
「……あぁ、ついていくんじゃなかった。あの酒バカ、どんだけ飲むんだよ……うっ! ――」
ピーネットに解放されながら、未だにバケツにゲロを吐き散らすダロックの姿を指さして、カイモスは言う。先ほどまであれほど大きかった体が小さく見える。
「あ……はい」
――まるで頼りになりそうにない。
ハルはそんなことを考えながら、細目で形式だけの相槌を打つ。
この組織のトップを見て、この冒険者ギルドがどうして、あんなのばかりなのかわかった気がした。
「はーい。ハルさんできたっスよー」
そんなところに、マイアーが何かを握って現れた。
「じゃあこれ、冒険者プレートっス」
そう言ってハルに手渡されたのは銅色の小さなプレートだった。
表には三本の傷跡。裏にはこの世界の文字で、おそらく名前が彫られている。
「色と傷の数で階級を表してるんっスよ。最初の階級は銅三等級。これを首でも腰でもどこでもいいので、基本的にずっと身に着けておいてくださいっス」
「――あっ、ちなみにっスけど、白金級は傷がなくて“傷なし“なんて呼ばれ方するっスよ」
わざわざ、マイアーは後半の聞いても聞かなくてもいい情報をハルに耳打ちする。
言葉の端々から、明らかにバカにされているように感じる……。
――まぁ、それはそうと、これを使って街を出入りするわけか……。
それは”住民もしくは商人や冒険者などの職を持った人間のみが街の出入りを許される”という、アンノに教わったこの街のルール。ホテルのカードキーのようにこのプレートを使って街を出入りするのだろう。
「はい、こっちはアリニアさんのっすよ~」
「わ~、ありがとうマイアーさん」
アリニアもまた同じものを受け取った。
……ん? んんん!?
「あ、アリニア!? なんで!?」
「作っちゃった!」
アリニアは付き合いたての彼女が職場に”来ちゃった!”のテンションで、冒険者プレートと笑顔を見せびらかす。
しかし、やっていることの重大さが違う。職場に来るくらいの事ならば、同僚からのウザったいからかいと、キツめの上司の間に生まれる微妙な空気だけで済む。だが、冒険者に登録してしまっては守る対象である彼女を危険にさらす可能性があった。
「ちょっとマイアーさん! なんでアリニアまで!」
「なんでって、冒険者になるのは自由っスから、ねー!」
「ねー!」
いつの間にか仲良くなっていた二人は、顔を合わせ、声を重ねてハルにそう言った。
「もしかしてハルさん、アリニアさんに階級越されるのが怖いんスか? イッシシシ、男性の方って、そういうとこあるっスよね~」
「いや、そういうのじゃなくて!」
マイアーの二度目のお門違いなお察しを一蹴し、ハルはアリニアからプレートを取り上げる。
「とりあえず、登録はなかったことにするので、これは返します」
「イヤだー!」
「ワガママ言わないでくれ、アリニア。あ、ちょっとアリニア!」
二人はたった一枚のプレートを取りあう。それはまるで、子供同士がお気に入りのおもちゃを取り合うかのようであった。
と、
「いいじゃねえか、別に」
また、いつものように煙草を吹かすアンノが面倒くさそうに言った。
「は?」
「冒険者になったところで依頼を受けねえなら、ただの一般人。依頼の中には最低人数を指定して来るようなもんまである。そういうときの数合わせにも使える」
「でも、それじゃあ。アリニアを連れて行かないと――」
「そのほうがいい。お前の性格から考えて、どーせ放って外には出れねえ。仮に出れても、”アリニア、アリニア”って頭ん中いっぱいにしてたら、できる依頼も失敗しちまう。なら、近くに置いた方が何かと都合がいいだろ」
アンノの意見は非常に的を得ていた。
この帝都ジュビアスが安全であると決まっているわけではない。むしろ、やってきてまだ一日も立っていない知らない街。晴人以外にも危険な存在がいる可能性もある。
そんなことを考えれば、一人で置いておくよりも同じ冒険者という立場で一緒に行動していた方がよっぽど安全だと言える。
「……わかった」
自分でも目に浮かぶような光景に図星を指され、ハルは下唇をかみしめ承諾した。
「やったー!」
「よかったっスねー、アリニアさん」
頭を抱えるハルとは対照的に、アリニアは飛び上がりながら喜び、マイアーとハイタッチを交わす。
「ん、ん、ん――ぷひゃー! ……あ、終わったかい?」
まるで聞いていなかった飲んだくれギルド長カイモスは、気持ちのいいほどの一気飲みをみせ、ジョッキを空にすると、知らぬ間に山のようになった空のジョッキ群の中に投げ捨てた。
この人いつの間に……てか、この細い体のどこにそんなに入るんだ。
「そういえば、君達住むとこはあるのかい」
「……ないです」
ハルの脳裏にはあの半壊した我が家がよぎる。
「だよねー。アンノが連れてきた中で、帰る家を持っている人間をこれまで私は見たことがない。――それなら、ここの宿を使うといい。普段なら一泊するにも料金が発生するんだけど、君の服汚しちゃったし今日はタダでいいよ」
カイモスは、ほとんど机に顔を乗せているような状況で、目もほとんど閉じかけでそう言った。
「アンノの連れて来たって、他にもいる――」
「ズーズー……」
ハルの質問の途中で、イビキをかきながらカイモスは死んだように眠った。
自由過ぎんだろ……。