第五話 『雲を晴らす赤薬』
三人はアンノのリュックがやっと通るほどの狭い路地を進む。
石でできた地面と壁がどことなく窮屈感をさらに煽っている。
「お前自分がやろうとしたことわかってんのか?」
「……ごめん」
アンノの背中越しに聞こえる質問に、ハルは小さくと答えることなく謝罪する。
アンノはわざわざ説明などしなかったがあのまま少女にカギを渡していたら、どんな結果になっていたのかは想像に難くない。
「あんなのにいちいち構うな。ここじゃあんなもん日常茶飯だ。一人一人気にしだしたら、買い物するだけで日が暮れちまう。同情するな。興味を示すな。目に入れるな。自分のことだけ考えろ。じゃないと引きずり込まれるぞ。――そいつも一緒にな」
「……」
今、ハルが最も重視すべきはアリニアの事である。
レーヴェさんに任された彼女のことを何としても無事に守り通さなければならない。そのために、この男についてきたわけだし、ここにやってきた理由だ。
アンノの言うように自分がすべきことを取捨選択しなければ、自分だけでなくアリニアのことも危険にさらしてしまう。
さっきの行動だって、アンノに止められなければそういうことになっていたわけだ。
ハルは握っている手をたどり、アリニアの顔を見る。
父親のことを忘れた恩人の宝物が不思議そうに目を合わせ、笑う。そんな彼女に、ハルはぎこちない笑顔を向けた。
「――うわっ!」
「お父さん大丈夫!?」
ハルは足元の何かに気が付かず石畳の床に盛大に転び、アリニアの手を放して突発的に地面に受け身をついた。
「イッテテ……」
「何やってんだ? 道もまともに歩けねえのかよ」
アンノは振り向かずに言う。
実際、石畳の床は凹凸が激しく躓きやすくはある。しかしながら、ハルはそうではない別の何かに当たった事を足元に感じ取っていた。
下唇を噛みアンノに強がって見せた後、ハルはその原因を目で探す。と、
「……足?」
道の端から延びる足。それはやけに細く、血色が薄い。昔見たB級SF映画でみたリトルグレイのまるでそれである。
異世界なのだから地球外生命体の一つや二つあってもおかしくはないが、いや……異世界関係ないな。
なんてことを考えながら、ハルは足の持ち主の全貌を見た。
「……っ!」
ハルは全身に鳥肌が立っていくのを感じる。
それは、別に本当にリトルグレイがいたとかいうわけではなく、いたのはまごうことなき人間であって、いや、正しく言い換えるのであれば、人の形をした狂気がそこに鎮座していたからだった。
「……ジュルル、ジュル――」
石壁にすがり、手首のあたりに口を当て、口と手の隙間から奇怪な音を漏らす。
そんな男は何かあるわけでもないが反対側の石壁のただ一点を瞼も瞳孔も開きっぱなしで見つめている。
奇妙なその物体を前にハルは咄嗟に立ち上がり、アリニアの目を手で覆った。
「気にすんな、そいつは晴人だ。その手どかさなきゃ何もしねえよ」
「アト?」
「――晴薬を摂取し続けた人間の末路。それが晴人だぜ。坊主」
気さくに説明する声が三人の後方から狭い路地裏に響く。
三人が通って来た道から、あの奴隷馬車を護衛していた男たち。中でも先頭の男が片腕を上げ笑顔を向けて歩いてきた。
「なにしてる。ピーネット」
「なーに、俺たちだって仕事終わったんだ。帰ってるに決まってんだろ。それによ、口下手なお前に変わって説明してやってるってのに、礼の方が先だろ? お前もそう思うよな坊主」
肩をすくめ、両の手の平を上に向け、ピーネットはハルに同意を求めるような目を向ける。
アンノは頭を抱えるがピーネットはそのまま続ける。
「そんでまあ、晴薬ってのは使えば天国に行けるっていうんで、十年くらい前から帝都で流行ってる薬でよ。使用することでものすげえ多幸感に満たされんだが、一度でも身体に入れちまったが最後、二度とやめられねえ」
そこまで聞いてハルの想像したのは麻薬という言葉だった。
前世でも本物は見たことは無いが知識として知っている。学校の全校集会なんかで体育館の固い床に尻を痛めながら見ていたあれのことだ。
「でも、そのくらいならよかったんだけどよ。その薬には別の効果があってな。使い過ぎるとゾンビになっちまうんだ」
「ゾンビ?」
「あぁ、ゾンビだ。厳密に言えば、痛みを感じなくなっちまうってことだな。使えば使うほど痛覚が消えていくんだよ。腕を切られても、足を折られても顔色一つ変えず、薬を求め続けるバケモンになっちまう。おまけに日光にも弱くなって、日中はこうやってネズミみてえに路地裏で太陽から隠れ、夜な夜な街中を徘徊するようになる。それが晴人。俺なら、ここまでして天国に行きたかないね」
ハルはリアルタイムな薬物中毒者を目の前にゴクリと息をのんだ。
「こ、こんなの放っておいていいんですか?」
もしも、前世でこんな状況を目の当たりにしたならば、大抵の場合警察を呼ぶなりの行動が要求されるものだが、ピーネットはきょとんとした表情でハルの質問を聞き、
「まぁ、どうせすぐ死ぬしな」
「え?」
「晴薬ってのは一部から”神の生血”なんて呼ばれててよ。血液と同じ色と匂いをしてやがるんだ。だからこうやって、自分の血をぺろぺろ舐めて気を紛らわせてるわけ。でもそれってよ、傷口塞がずに血を垂れ流してるのと同じだろ? だから結果的に大量出血で死んじまうんだ」
当然と言わんばかりのピーネットの表情を見て、ハルは改めて世界のギャップを感じる。
人の死の重さがきわめて軽い。死の直前の人間を目の前にして、これほど落ち着いていられる不気味な目。それはまるで車に踏みつぶされたセミを見ているようだった。
「……そうですか」
「まあ、アンノの言うようにこっちから何もしなけりゃ、襲ってきたりもしねえよ。それよりも授業料銀貨十枚で許してやるよ?」
「へ?」
これまた、さも当然と言わんばかりに差し出されたもの欲しそうな手の平を見て、ハルは声を漏らす。海外でよくある旅行者を狙った強引な詐欺。親切心やおもてなしの心に依存した日本人が陥りやすいトラップ。それの術中の中にハルはいた。
やばい。マズい。金なんか持ってるわけないし、でも、断ったらただじゃすまないよな。暴力沙汰? でもアンノがいれば……って、助けてくれる気がしない。くっそ、あれほど不用意に関わらないようにと決めたはずなのに、決めて数分でこれ? 本当にヤバい……。
焦りや自分に対する呆れがハルの額に汗をにじませ、打開策を探そうと頭の中がこれまでになくぐるぐると回転する。と、
「――ぷ、ハッハッハ。おいおい冗談だって、そんな顔すんなよ坊主」
ピーネットを含めたそこにいた男たちが、こわばったハルの表情を指さし腹を抱えて笑い出す。
「話は済んだか? とっとと行くぞ馬鹿が」
アンノは指先で自分の額を軽くたたきながらため息をつき、先を急ぐ。
「――ん、んん……アリニア行くよ」
ハルは、笑われていることに対する恥ずかしさと、それに伴って併発する苛立ちに、顔を赤くしながらアンノの背中を追いかけていった。
落とし穴に人を落とした時の小学生のような、ふざけた笑い声はしばらく裏路地に鳴り響いた。




