第四話 『中途半端な正義』
雲や屋根や鳥なんかに小窓の景色を変えながら、ハル達を乗せた奴隷馬車は街中を進む。
荷台の中の誰もがうつむき、その小窓が床に作るわずかな光の線を眺めている。アリニアもまた、手枷のついたその手でハルの服を固くつかんで同じようにしていた。
顔を上げているのは、この箱の中でハルだけである。
それは、あくまで自分が真に奴隷でないということを理解しているからでもあり、さらに奴隷という前世で馴染みのないものに対する無知が、ある種いい影響を与えているからでもあった。
――カラカラ、カラカラ……。
馬車は停止した。
先ほどまで壁一枚を隔ててわずかにあった活気ある街の音も消え去り、陰鬱な空気と静寂だけがその中には残った。
――ギイィ
暗い沈黙の中に軋む扉の音が響くとともに光が広がる。
外からは、護衛の中にはいなかった誰とも知らぬ男が姿を現した。
「……ついたぞ」
腰につけた直剣に肘を乗せ、もう片方の腕にカギを握って中に入ってくる。場の空気は光なんてお構いなしに、その眠たげな表情の男が放つただならぬ威圧感に支配された。
奴隷たちは、二人の方に近づいていくその男の道を開けるように壁にすり寄っていく。
――ガチャ――ゴンッ!
ハルに重くのしかかっていた手枷と首枷が轟音を立てて地面に落下する。
取り戻した自由を擦れた手首を触りながら確認すると、ハルはほっと息を吐いた。
「あとは自分でやれ」
「は、はい」
男はハルに錆びた枷のカギを手渡し、そのままその場を後にする。
荷台の中の人々は、消え失せた緊張感に止めていた息を吐露した。
「……アリニア手かして」
「うん……」
――ゴンッ!
再び木製の鈍い音が床を揺らす。
アリニアの枷を外したはいいものの、彼女の体はいまだに小刻みに揺れ、ハルの服を掴む力は先ほどよりも増していた。
この世界で、奴隷という物がどんな扱いを受けているのかは知らない。というか、そもそも前世ですら歴史の授業で習う程度で具体的な内容は分からない。でも、いいように扱われないことだけは、このたった数分の相席で理解できる。
「もう出よう」
アリニアの状態も考え、ハルはすぐにその場を離れようとした。
その時、
「――ねぇ、あんた」
声のする方を向くと、一人の少女の狙いすましたような瞳が真っ黒なその空間に光って見える。
「な、なんですか?」
「それ、私に渡して」
枷のついた両手を前に出し、少女はハルの手に握られていたカギを指さす。
そのカギで、枷を外したことを彼女は見て知っていた。
「なにする気?」
「わかるでしょ。馬鹿なの?」
そんなことは分かっている。
こんなタイミングでカギを使ったマジックでも見せてくれるだなんて思ってもいない。
枷を外してここから逃げる。単純明快で自然な答えだ。
「いや、でも……」
しかし、ハルはどもる。
それは当然のこと。なにせ、この少女は奴隷。言ってしまえばカールの商品だ。商人から品物を逃がして、タダで済むはずがない。おまけにあのカールという男、虫唾が走るようなあの笑顔が嫌な妄想を作り出す。
「いいから早く、人が来ちゃう。あんた達には迷惑かけないからさ!」
彼女は声を抑えながらも必死だった。というか、必死にならざる負えなかった。
奴隷という現状から打開するため、目の前でわずかに光り輝く可能性に縋り付くしかないのだ。
「早く!」
荒い息に、瞬きすらしない瞳、命乞いともいえる彼女のその振る舞いに、ハルの腕は勝手に動き出す。それは、正義感か、同情か、哀れみか、いずれにしても、ハルは無意識のうちに少女を助けてあげようと動いていた。
鍵が彼女の手に近づくにつれ、少女の表情は柔らかくなっていくのが分かる。
握りしめたたった一本のカギは実在しない質量を帯びて重く感じた。
しかし、
「おい、何やってる?」
そんな一言でその荷台の中の空気が一瞬にして凍り付く。同時に、少女の表情が一変した。目をぎょっと見開き口を開けただ一点を見つめる。
少女がはハルの後ろ。扉の方に向けられていた。
「ハル、お前……」
ハルが振り返ると、そこにはアンノの姿があった。
煙草をふかしながら近づいてくるアンノは呆れた表情を浮かべ、煙と共にため息をつく。
「英雄ごっこは終わったか? ったく」
少女とハルは、まるで時間でも止まったみたいにピクリとも動かない。
アンノはそんな彼らの目の前に立ち冷たい視線で見降ろす。そして親が子供のゲームを取り上げるみたいに、カギを取り上げた。
「――そんな……お願いだ。お願いだから! 持ってかないでくれ! なあ! なあ!」
枷のついた両腕で少女はアンノに縋り付き、ハルの時と同じように命乞いを始める。当事者が変わり、はたから見た先ほどと同様の光景を前に直視することが出来ず、ハルは顔をしかめた。
少女はバタバタとアンノのローブを揺らし、痛み以外の何かに涙ぐませ、必死に、必死にその小さな希望をせがんだ。
「おい、ガキ――」
アンノは枷ですり切れた少女の手をどかし、しゃがみ込んだ。
ハルは少女が殴られでもするのではないかと固唾をのんだが、アンノは何かを耳打ちしただけで、まるで何もすることは無かった。が、
「う……くう、うっくうっうっ……」
少女は、力なく地面に倒れこむ。
そして、張っていた糸が切れるみたいに涙を流し始めた。
いったいどんな言葉をかけたのか、ハルにはまるで想像がつかない。ただ、そんな光景を漠然と見届けることしかできなかった。
「行くぞ」
「……うん」
少女のすすり泣く音を残して、ハルはアリニアの手を取り、奴隷馬車の外に出た。
彼女の行きたかった外へ、容易に足を踏み入れることにどことなく罪悪感を覚えながら、地面に足をつく。
辺りの光景は小窓から見た景色ともまた異なり、広い平地にぽつりと体育館くらいある巨大なテントのようなものがある場所となっていた。少し遠くには、大きな壁がどどこまでも続き、四方を囲んでいる。
「おい、ソダ」
ハルが周りの景色にくぎ付けになっていた時、アンノが奴隷馬車にすがって立っている男に話しかける。それは、ハルにカギを渡したあの男だった。
アンノは今日まで見せたことのない表情をソダに向ける。
キリキリと歯を鳴らし、眉間にしわを寄せ、
「半端なことしてんじゃねえよ」
アンノが舌打ち交じりに、カギを地面に投げ落とす。
ソダはそれを目で追いはするものの、まるで取ろうというそぶりを見せず、眠たげな瞳を擦るだけだった。
「チッ――」
最後に舌打ちだけ吐き捨て、アンノはその場を後にする。
ハルはアリニアの手を握り、その背中を追いかけるように裏路地へと入っていった。
「……仕方ない人だ」
御者席のカールは、またあの不敵な笑みを浮かべそう言った。




