167話:ゆるキャラと今宵の月
「あーしんどかった」
ゆるキャラは今〈ギリィの悪知恵〉亭を抜け出して、夜道を一人で歩いている。
先程までの乱痴気騒ぎが嘘のように、ラーナムの夜の街並みは静まり返っていた。
いわゆる中世ファンタジーな世界観のアトルランでは、一般人は日の出と共に目覚め日没と共に眠る。
こんな時間まで騒いでいる冒険者がおかしいのだ。
予想外の大勢の来客とイレーヌの爆弾発言にその場は大混乱……していたのはゆるキャラとクルールくらいなもの。
他の面々は〈ギリィの悪知恵〉亭の他の客を巻き込んで宴会を始め、夜更けまで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げた。
イレーヌもあっという間に飲み比べに巻き込まれていたので、ゆるキャラが返事をする機会は先延ばしとなる。
てか現状はNOとしか言いようがないし、断っても後腐れもなさそうだが。
〈コラン君〉は設定上は雄だが、幸か不幸か転生以降その本能が機能する予感は皆無だ。
人間の男の心を持つ中の人的に、人間の子孫を残せない体というのは結構ショッキングでセンシティブな状況である。
そう、仮に前世が独身で女性の影が皆無だったとしても……!
出来るけどしないのと、最初から出来ないのとでは気分的に天と地ほどの差があるのだ。
日に日に肉体と精神のギャップが縮まっている気がするが素直には喜べない。
それはつまり人間の益子藤治としての感覚が徐々に失われているわけで……。
もういっそのこと心も〈コラン君〉なら悩む必要も無いかもな。
あとよく分からないが、最近たまに意識が飛ぶことがある。
単に気を失うのとは違って、体は意識が無い間も動いているらしく、感覚としては時間がすっ飛ばされたかのようだ。
残念ながらありのままに今起こった事を相談できる相手もいない。
今はシンクの姉たちを探している最中だが、早めに〈混沌の女神〉に会わなければ。
あの猫に会って全てが解決するとは思えないが、今よりはましになる……といいな。
月明かりを頼りに一人ぽてぽてと俯き加減で夜道を歩く。
酒が入ったせいか感傷的な気分が膨らんだので、こうして気晴らしに散歩しているのだが感情は燻ったままだ。
足元は黄色く照らされていて、見上げると月が三つ浮かんでいた。
色は白と緑と赤。
光の三原色により緑と赤が混ざって黄色く見えているようだ。
このアトルランという異世界の月には、大陸を守護する中柱の神が一柱ずつ住んでいるらしい。
つまり合計で五つの月があるということだ。
この世界は未知が多い。
ルリムやオーディリエに月の満ち欠けや公転について聞いてみたことがあるが、中柱の神にまつわる神話が聞けただけで具体的な仕組みは分からなかった。
毎晩空を見上げてみても、素人のゆるキャラでは月の軌道は全く読めない。
というか未だに一度も見たことのない月もあるし、そもそもこの世界の天体は球状なのだろうか。
月の見た目は地球のそれと同じで丸いが、実は空に開いた穴だったり、皿状だったり投影されているだけとか?
普通なら月が輝くのは太陽光の反射なわけだが、なんで緑の月だけたまに明滅してるんですかね……。
神々や魔術が存在する以上、世界の端は海が滝のように零れ落ちていて、大地は強大な亀に支えられている可能性もゼロではない。
そういえばまだ海を見たことがないな。
水平線を見ればこの世界が球状か否かくらいは分かるかもしれない。
地平線は空を飛ぶシンクの背中から幾度となく見ているが、いまいちピンとこなかったんだよなあ。
仮にこの世界が球状だとしてでも、地球より遥かに大きくて地平線の円弧に気付かなかったとか?
気分が沈んでいるからか、普段なら楽しめる未知が今は不安となって襲い掛かる。
まあ明日からは来客対応で忙しくなるし、落ち込んでいられるのも今晩までだろう。
気が付くと街の外れまでやってきていて、開けた空き地の真ん中にぽつんとある切り株を見つけた。
「よっこいしょう……」
往年の昭和ギャグを言いそうになるのを堪えて切り株に腰掛け、ぼんやりと空を見上げる。
そういえばこのギャグの元ネタとなった人は二十数年の時を経て日本に帰還したが、ゆるキャラもいつか戻れるだろうか。
何かと物騒なこの世界で、そこまで生きながらえているかは微妙だが。
「はあ……明日からまた忙しくなるし、今は一人にして欲しいんだが?」
急にゆるキャラから話しかけられて、背後に突然現れた人物が身じろぎする気配が伝わってきた。
「……どうして分かった」
「【暗影神の加護】で隠れるなら、この広場の外から発動させておかないと俺には分かるぞ」
「げげっ、〈影の狩人〉が倒されたという情報は真実だったのかよ」
背後から軽薄そうな男の声音が聞こえてくる。
「ちなみに【暗影神の加護】の秘密は誰かに喋ったのかい?」
「いいや、誰にも喋ってないが」
「なら命が惜しければ言いふらさない方がいいぜ。暗殺者は手品の種がバレたら商売あがったりだからな」
エゾモモンガの広い視野のおかげで、振り返らずとも背後の男の姿は見えている。
「お前、酒場の端で飲んでた奴か?」
「え、なんでこっちを見ずに分かるんだよ。こわっ」
言うと同時に背後の男の姿が消えて、数秒後にはゆるキャラの正面に現れた。
帝国騎士団の鎧を身に着けていて、歳は三十代後半くらいだろうか。
色黒の肌に団子鼻が特徴的で、内側に着込んでいる服は皺が寄っている。
くたびれた中年といった有様だ。
「それでお前はその商売をしに来たのか」
「いやあ、これでも今は騎士団所属なんでね。そういう商売はもうやってないんだよ」
「そのわりに殺気がだだ洩れだが」
「それはほら、師匠を倒した相手だしさ?」
「復讐か」
「どっちかというと、師匠越えをしたいみたいな―――」
言葉尻と殺気、男の姿が突然消失した。
少しの間を置いてゆるキャラの背後に男が現れると、その手には短剣が握られている。
そして刃には怪しい液体がたっぷりと、これ見よがしに付着していた。
*誤字報告ありがとうございます*




