08・蟻人の城
(フォイアーさん、大丈夫かな…)
いきなり襲われた時には確かに驚いた。街を歩きながら、あれこれ質問をしている内にフォイアーの様子が少しおかしくなって来たのには気付いていたのだが。
物影に引っ張り込まれ、激しい口付けを受けた時には大パニックだった。
苦しいし驚いたし、そもそも意味は分からないし。
その後の揉め事はもっと驚いたけど。
カイザーの容赦の無さには言葉を失った。あんなに酷くしなくたって良いのに…。
フォイアーの何かに耐える様な、それでいてどこか熱を孕んだ様な視線を思い出す。
それは理世の”帰りたい”と言う気持ちを揺るがすものでは無かったが、ある種の罪悪感を呼び起こすには十分だった。
(早く帰らなきゃ…このままだと、この人達に良くない気がする…)
理世はふと、無言で歩くカイザーに手を引かれながら、ある事を思い出していた。
クーゲルの”女王の強制力”と言う言葉。そう言えば、虫神が言っていた気がする。
『女王は雄を従わせる事が出来ます』
『雄の意思が強い場合と狂った雄は従わせる事が出来ません』
これを使えば、案外簡単に脱出出来るんじゃない?
さっきは皆、理世に従ってくれたし…。
でも。
フォイアーに押さえ込まれた時、「止めて」と言ったのにも関わらず、それには従ってくれなかった。
(あれは彼の意思が強かったの?それとも…)
理世は取り敢えず考えるのを止めた。結局街もゆっくり見られなかったし。
もう休みたいなぁ…。そう思っていた理世は、ある事に思い至る。
この世界、お風呂ってあるの?
「あの。カイザーさん。お部屋に戻ったらお風呂入りたいんですけど…」
恐る恐る聞く理世に、「分かった。直ぐ用意させる」と前を向いたまま素っ気なく答える。
ありがとうございます、と言いながら理世はホッと息を吐いた。
◇
開けた通りに出ると、前方に幾つもの別れ道があった。
その中の一つを通り、進むと更に別れ道。
道沿いには個人の家の様なものや店などが建っているが、道は行き止まる事無く細かい枝分かれを繰り返しながら何処までも続いて行く。
(ここは地下なのに…本当に蟻の巣みたいになってるのね)
理世は不安になる。こんなに複雑なんじゃ、絶対に迷う。
一人で逃げ出すのはとても骨が折れそうだ。
「着いたぞ」
ぼんやりと考えていた理世は、カイザーの声にハッと前を見る。
其処は”城”と言うよりは平屋造りの、果てしなく広大な大邸宅だった。
「わぁ素敵!」
思わず歓声をあげる理世を横目で見ながらカイザーはクスリと笑う。
女王の嬉しそうな顔は初めて見た。その愛らしさに、普段は小言ばかりで眉間に皺を寄せている事が多いクーゲルですら優しい笑みを浮かべている。
途端に込み上げる嫉妬心と独占欲から目を背けながら、「行くぞ」と再び強く手を引いた。
◇
「此処が女王の部屋だ。手前にあるのが俺達の部屋」
屋敷内に入り、奥の廊下を延々と進んだ先の金の扉の部屋を指差す。
手前には、銀の扉の部屋が左右で5部屋ずつ、計10部屋並んでいた。
ほら、と中に入る事を促され理世は頷きながら「…あの、今日はここで過ごして良いんですか?」と聞いた。
「あぁ。お前もその方が良いだろうし、俺達もその方が良い」
「後で世話係を寄越します。どうかごゆっくりなさって下さい」
理世が部屋に入るのを見届けた後、カイザーとクーゲルは踵を返し、広間に戻って行った。
◇
「カイザー…」
「あぁ。記録では読んだ事があるが、まさかここまでとはな」
「羽も触角も無い”無垢の女王”…。私も正直、自分を抑えるのに苦労しました。フォイアーに憎しみすら覚えましたから」
「俺もだ。リセの愛を得られるなら、仲間を殺しても良いとすら思った。蜂人の方も”無垢の姫”だったな」
年上の、そして前回の女王にも接触していたカイザー達ですら理性を保つのがギリギリだったのだ。
年若いフォイアーなど一溜りも無かっただろう。
こう話している間も、リセを独占したくて仕方がないのだ。
「暫くは誰もリセと二人になるな。分かったな」
「…分かりました」
「俺はフォイアーの様子を見に行ってくる」
「私は資料室へ」
”無垢の女王”と”姫”について情報を集めてみます。
そう言うと、クーゲルは資料室へ向かい、カイザーは病院へと向かって行った。
********
「あー!疲れた!」
理世は部屋に入った途端、ベッドにダイブして目を閉じた。
日本家屋に似た造りから、てっきりお布団だと思っていたけど透かし彫りの施してある木製のベッドに、金糸の刺繍の掛け布団。
「お姉ちゃん…どうしてるかな…」
姉を連れて行った蜂人はとても綺麗な顔だったけど、何となく怖い感じがした。
(お姉ちゃんに会いたい…帰りたい…)
ベッドの上で目を閉じている内に、何時しか理世は眠ってしまった。
◇
コンコン コンコン
「う…」
何かを叩く音に、薄っすらと目を開ける。
コンコン コンコン
「女王様?いらっしゃいますか?」
「もしかして、お休みになってらっしゃるのかしら。また出直した方が良さそうね」
扉の向こうから聞こえて来た女性の声に、理世はガバッと起き上がる。
「あ、はーい!どうぞ!」
慌てて声をかけると、「失礼致します」と二人の蟻人の女性が入って来た。
「シュタヘルで御座います。女王様のお世話係を拝命致しました」
「メーアで御座います。何なりとお申し付けくださいませ」
二人共、入室するなり深々と頭を下げる。思わず理世も「あ、どうも初めまして…」と頭を下げた。
――シュタヘルは長い髪を高く結い上げた大人びた容姿で、メーアはショートカットの元気の良さそうな娘。何方も若く、特にメーアは理世と歳が近そうで、理世は少し嬉しくなった。
「女王様、湯浴みの準備が整いました。お入りになられますか?」
シュタヘルに優しく問われ、理世は「はい!」と一も二も無く頷いた。
◇
「広――い!」
此処に来てから驚いてばっかりだけど、このお風呂は本当に凄い。
何だろう、大理石?薄く光っているから、あの外の階段の石と同じ物だろうか。
その淡く光る透き通った乳白色の石をふんだんに使った大浴場。浴槽の中には、透明なお湯がなみなみと湛えられている。
「えぇっと…」
裸になって大浴場に入ったものの、シャワーも無ければシャンプーなども無い。
「どうやって洗えば良いのよ…」
「失礼します」
「きゃあっ!」
突然の声に驚き、振り返りながら両手で身体を隠す。
「あ、び、吃驚した…お二人も一緒に入ります?」
何やら壺を抱えたシュタヘルと、絹の様な布と薄紫の粉を持ったメーアは、キョトンとした顔をする。
よくよく見ると、二人は裸ではなく薄絹の様なものを身に着けていた。
「女王様、此方へ。お身体を清めさせて頂きます」
シュタヘルに手を引かれ、大浴場の脇に設えてある小さな浴槽に入った。
湯の深さは膝位までで、プールの時の消毒槽の様に縁に段差が付いている。
「では清めて参りますね」
「え」
シュタヘルが壺にお湯を汲んで理世の身体にかける。するとメーアが粉を絹布に振りかけ、それで理世の身体を擦り始めた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!自分で出来ますから…!」
理世は慌てて身を捩った。
幾ら相手が女性でも、これは流石に恥ずかし過ぎる…!
「女王に自ら身体を洗って頂くなんて出来ませんわ」
「私共にお任せになって下さいな」
やんわりと押し切られ、理世は恥ずかしさを堪えながら身体を洗われ続けた。
「何てお美しい肌でしょう…」
「お髪もまるで絹糸の様ですわね!」
羽付きの皆様が羨ましい、と顔を見合わせる二人に、理世は「あの…」とおずおずと話しかける。
「私、あの人達の中から誰か選ばないといけないんですか…?」
「いえ、羽付きの方々全員を夫として選ぶ事も可能ですし、お一人、お二人のみを選ばれても構わないのですわ。ただ、女王様はまだお身体が未成熟と伺っております。お決めになるのはもう少し後でもよろしいかと…」
そう言えば、カイザー達も何回か言ってた。でも何をもってして”未成熟”?
理世はそれを問うてみた。貞操の危機が後回しになるのは有難いけど…。
「月の障りが有るかどうかです。女王はまだ幼くていらっしゃるので…」
”月の障り”って、アレだよね?いや、バリバリ有りますけど…?
黙ってた方が良い?あ、でも、そろそろアレ来ちゃうし…。こっちの世界の対処法教えて貰わないと…。
「えっと…。ありますけど…ソレ…」
「「えぇっ!?」」
シュタヘルとメーアは顔を見合わせ驚いていた。
「ほ、本当ですの!?」
「はい…」
大変、とシュタヘルは壺を置き、「メーア、此処を任せても良い?」と慌ただしく浴室を出て行った。
「え?あの…?」
「カイザー様に報告に行きました。女王が既に成熟されてるなら、話が変わって来ますから」
メーアは嬉しそうに理世の身体を洗って行く。
「女王様。シュタヘルが居ると怒られますから言えなかったのですが。羽付きの一人、クーゲルは私の兄なのです。少し神経質ですが、とても素敵な兄ですわ!」
「そ、そうなんですか…」
…やっぱり黙ってれば良かったかも。
そこで理世は、「そう言えば”馬追月”って…」と切り出した。
「馬追月に何か?」
「いえ、あの、何か無かったかなぁって…」
「そうですね、7ヶ月も先ですから、予定はまだ出ていないかと思います」
7ヶ月も先なんだ…!
7ヶ月後。馬追月の新月。
それまでは、何としても貞操は守り抜かないと――
理世は、姉に会いたい、と心から思っていた。