61・仲間割れ
「うーん…何とかして逃げられないかな…」
理世は恐る恐る、下を覗き込む。
背の高い森の木々の先端が、かなり下の位置に見えた。
今、理世の居る場所は高くそびえ立った崖の中腹に出来た、六畳位の広さの窪みである。
その窪みには柔らかな草が生え、崖からは冷たい湧き水も滲みだして来ていて半日程度なら快適に過ごせそうな場所だった。
ミランとエグルは、この場所に飛べない理世を置いて、何処かに行ってしまった。
正確にはミランが最初に出て行った。
「ちょっと出かけて来る。1時間程度で戻るから、コイツを見張ってろ。但し、絶対に手は出すなよ」
それから少しの間、理世はエグルの膝に乗せられ、髪の毛を弄り回されていた。
「あ、そうだ。今の内に仲間に連絡しておくか」
そう言うと、エグルも理世を置いて「良い子で待ってろよ」と頬にキスをしてこれも何処かに飛んで行ってしまった。
ただ、途中で一度戻って来て「ほら」と林檎に似た木の実を二つ、置いて行ってくれた。
「この岩、つるつるしてるから崖伝いに下りるのも無理だなぁ…」
どうしたものだろう。
でも、この高さではきっと恐らくどうにもならない。
ここはあの二人が帰って来るのを待つ方が無難だろう。
脱出方法はその時に考えれば良い。
理世はそう考えをまとめると、林檎の様な木の実にカプリ、と噛り付いた。
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「だーっ!痛えぇー!」
「うるっさいなクレス!さっさと脱皮しなさいよ!」
「わかってるよ!けど、痛てぇんだもん!」
「”もん”言うな!気持ち悪い!」
――理世の行方を追う為に全員で森に入って暫くすると、クレスの脱皮が始まった。
岩陰に隠れてその時を迎えていたものの、上手く脱皮出来ないのか痛がるクレスの声が響く。
「ヘラ、急かすんじゃないよ。脱皮不全になったらどうすんの」
「だって…」
ヘラはその二人組を間近で見たのだ。そして飛竜に容赦ない暴行を加える姿も。
囮になったリッカが心配なのだろう。責任感の強い子なのだ。
ジーンは小さく息を吐き、落ち着かせる為にヘラの頭をポンポンと叩いた。
「ジーン…ごめんなさい…あたしがついてながら…」
「馬鹿。そもそもアンタは誘拐されてたでしょ。気にしないで良いの」
「うん…」
目を伏せるヘラを抱き締めながら、それにしても、とジーンの口元がピクピクと引き攣る。
「ねぇ、早くしてよ!リッカに何かあったらどうすんだよ…!脱皮出来ないならこっち来てよ、ボクが皮剥がしてあげるから!」
「少年、気にしないでそこでゆっくり脱皮していてはどうだ。オレ達は先に行くが、後から適当に追いついてくれば良いだろう」
――好き勝手な事を言う羽付き二人。
頑張って必死に脱皮しているクレスよりも随分大人な筈なのに、何なんだろう、コイツ等は。
「うぅ…もうちょい…!」
「早く!早くして!」
「少年!急ぐなら急げ!急げないなら其処に居てくれ!」
「あのさぁアンタ達「カイザーさん、フォイアーさん」
見兼ねたジーンが抗議の声をあげようとした瞬間、美しいが底冷えのする声がその場に響き渡った。
ス…と一歩踏み出し、羽付き二人の前に進み出る。
「じょ、女王…」
「な、何…?」
反射的にじり、と後退る二人に、女王・ナーデルはふぅ…と呆れた様に溜息を吐きながら額をその華奢な指で押さえながら指の間から冷たく二人を見据えた。
「…甲虫人にとっての脱皮が如何に大変で大事なものか、お二人にはおわかりにならないようですわね?本来ならば、家族に囲まれて祝われるべき成虫への儀式。クレスさんはまだここにお姉さまがいらっしゃいますが、ヘラさんは怪我人を抱え、危機的状況下での事。年若いお二人が、リッカさんの為に頑張っていらっしゃるのに、大人の貴方達のその物言い。恥ずかしいと思わないのですか?…少なくとも、女王である私はとっても恥ずかしいですわ」
女王の言葉にピタリ。と動きを止めた二人は、その大きな体を縮める様にして項垂れた。
「申し訳ありませんでした、女王…」
「ご、ごめんなさい…。でも、やっぱり急いで…」
「フォイアーさん!」
「はい…」
「…私の子供達。あんな大人になっては駄目よ?」
――半目でその様子を見ていた美琴が7人の子供達にボソリと呟き、子供達は一斉に大きく頷いていた。
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齧った木の実の芯を2つとも崖下に投げ捨てた所で、ミランとエグルが戻って来た。
エグルがミランに「お疲れー」と軽く声をかけ、ミランは片眉を上げてそれに応えていた。
「お待たせお嬢ちゃん。寂しかったか?」
「ううん、全然」
「何だよ、冷てぇなぁ…」
理世の髪をさらさらと触りながら口を尖らせるエグルに眉を顰め、髪を振りほどく。
エグルと違い、ミランはじっと理世を見ていた。
「ね、ねぇ。何処に行ってたの?」
「ん?俺は仲間に連絡取ってた。ミランは…、あれ、お前結局何してたんだ?」
エグルの問いかけにも答えず、ひたすら理世を見つめるミラン。
その姿にゾクリ、と背筋が粟立つ感覚を覚えた。
「…俺は、”巣”を探してた」
「巣?何の?」
ここで漸く、ミランはエグルに向き直った。
「…誰に連絡をした?俺が戻るまでコイツを見張ってろと言った筈だろ?」
「誰って…フォーコンとカイユ、後はイロンデルとか…」
「人間の女を手に入れたって言ったのか?」
「いや?すっげぇモン見せてやるから来いよって…」
何だよ、駄目なのかよ。良いだろ?国でいつもツルんでる連中なんだから。
何処となく雰囲気の違うミランに怯んだのか、エグルは口を尖らせながらボソボソと呟く。
そんなエグルを見ながら、ミランは小さく舌打ちをした。
「で?何で今、巣なんか探してたんだ?」
「あぁ…俺とコイツの巣が必要だからな」
「「は!?」」
予想外の言葉に、エグルと理世の驚きの声が重なる。
「いや、何言ってんだお前!」
「何って、まんまだよ。コイツを俺のモノにして、俺の卵を産ませる」
ミランは澄ました顔で言いながら、首の後ろをガリガリと掻いた。
理世はそんな彼に気付かれない様に、じりじりとエグルの方に寄って行く。
「て、てめぇ!人間を独り占めする気かよ!?」
「当然だろ?人間との間に生まれる子は桁違いの能力を持つ。ヴォラティルの王家が正にそうじゃねぇか。だから王家の連中には誰も逆らえない。ここでコイツとの間に子供作れば、ソイツ使って王座を奪えるかもしれない」
だから、とミランは首の後ろを掻いていた手を外す。
その手には、巨大な鉤爪が生えていた。
「ミラッ…!」
ン、と言い終わる前に、ミランはエグルに向かって爪を振り下ろした。
エグルは間一髪の所でそれをかわす。
「ミ、ミランてめえ...!」
「ったく、他の奴等を呼んだりなんかしなきゃ俺だってこんな事しなくて良かったんだぜ?」
エグルはジリジリと後退りながらチラ、と理世を見た。
置いて逃げるかどうしようか迷っているのだろうか。
(やだやだ!ここで置いて行かれたら理世、絶対に襲われちゃうじゃない!)
理世は心を決めた。もう、今更だ。
葛藤に揺れるエグルの瞳を上目遣いでじっと見つめながら、渾身の甘え声を出す。
「助けて…お願い…!」
止めとばかりに目を潤ませ「エグル…!」と名前を呼んでみせた。
「っあ…」
エグルの両目がぼんやりとする。
驚きに目を見開いたミランの舌打ちが聞こえた所で、理世は立ち上がりエグルに飛び上がって抱き着いた。
そして反射的に抱き返して来る男の耳元に唇を寄せる。
「飛んで!早く!」
理世が叫ぶと同時に、エグルは地を蹴り大空に舞い上がった。
素早く身を翻し、大きな翼をはためかせながら一気に距離を取って行く。
(良かった…”異界の強制力”が使えた…)
ミランも即座に追って来ているが、体格も翼も大きいエグルは理世一人抱えながらもどんどんその姿を引き離していった。
「ハァ…俺、何やってんだ?何でミランと敵対してんだ?いやでも最初にミランが…」
このままインセクタまで連れて行って貰おう。
理世はブツブツと独り言を言いながら混乱の最中にいるらしいエグルの顔に手を添え、自分の方を向かせた。
「ねぇエグル。理世をインセクタまで連れてって?」
「…あ?あぁ…わかった。つかお前、”リセ”って言うんだな。あの兜の子供は確か”リッカ”って呼んでた気がしたけど」
あ。間違えた。いや間違ってはないけど。
でもまぁ良いわ。この人には理世が理世でもリッカでもどうでも良いだろうし。
それよりも、インセクタに到着したらこの人どうしよう。
”仲間に連絡した”って言ってたし、他の鳥達が来る前にインセクタから逃げたい所だ。
ヘラが無事に逃げていれば飛竜さんは今頃病院に居るだろうし、そのヘラと合流して早く帰らなきゃ。
考え込んでいた理世は、ふと顔に影が差したのに気付いた。
目線を上げると、こちらを見ているエグルと目が合う。
――その瞳に宿るのは、今まで何度も向けられた事のある光。
熱い、欲の籠った眼差し。
「待っ…!んんっ…!」
制止が一瞬遅れ、エグルの熱い唇が覆い被さり、理世の唇を塞いだ。
滑る舌が伸ばされるのを感じ、理世は慌てて首を振る。
「やだ、何いきなり…!」
「お前、お前を欲しがるミランから逃げて俺んとこ来たって事は、俺の事好きなんだよな?そうだろ?」
「す、」
好きな訳ないでしょ。
と、この状況で言っていいものか迷う。
何しろ今居るここはかなりの上空なのだ。周りを見渡しても虫一匹飛んでいないし、昆虫人達の飛行能力では到達出来ない位置にいる可能性がある。
「う、うん…そんな気がしたりしなかったりなんだけど、取り敢えずエグル、もう少し低い所飛んでくれない?あんまり高い所だと、理世怖い…。それからちゃんと前向いて飛んで?街に着いたら、何でもしてあげるから…」
「マジか!?何でも!?――とか――も!?俺のを――したりやってくれんの!?”お願い、もう許して”って可愛く鳴きながら――したり!?あ―!すげぇ!泣いても許さないけど!もっともっと――を…」
…最低!コイツ最低!
理世は顔を引き攣らせながら、それでもコクコクと頷く。
「やったぁ!」と無邪気に喜ぶ男の顔を見ながら、(一度で良いから、まともな人に好かれたいなぁ…)理世は切実に思っていた。




