59・捕獲
理世は暗い森の中をひたすら駆け抜けていた。
正直、今自分が何処に居るのか。
街に近付いているのか更なる森の奥へ向かっているのか、それすらも分からない。
ただ一つ分かっているのは、現在とんでもないピンチに見舞われている事だった。
背後から聞こえて来るのは、鳥人達の重たい羽ばたきの音。
やはり、ダメージからの回復は早く、正確に理世の後を追って来る。
それを見越して少しでも羽ばたきにくい様に、と、道ではなく繁みの中を選んで走っているのだが、どんどん近付いて来ている気がする。
「あーもう!しつっこいんだから!」
足には自信があるけれど、トレイルランニングには自信は無い。
躓きやすい木の根や滑りやすい枯葉。
それらに気をつけながら走るだけで、随分と体力を奪われた。
もう追いつかれるのは時間の問題。
「って言うか…本当に殺されないで済むのかなぁ、理世…」
背後から聞こえる、怒声の凄まじさに、理世は涙目になっていた。
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「ねぇ飛竜。大丈夫?」
「まぁまぁ…」
甲虫幼女・ヘラは傷付いた蜻蛉青年・飛竜を抱えて飛んでいた。
鳥人達の気配は全く無い。彼らは恐らく、リッカを追って行ったのだ。
「リッカ…ほんと無茶するんだから…」
帰ったら、パパにお尻ペンペンして貰わなきゃ。
「あのさ飛竜。アナタを病院まで連れてったらあたしはリッカの所に行くから。アナタはゆっくり休んだら
(改行ミス)どうかなぁ」
「…おい」
「何?」
「アトラスの事…悪かったよ。リッカに催眠術みたいなのかけられて、アイツに会えなくなってイライラしてたんだ。アイツ、お前等の前だといつも楽しそうだったから」
ヘラは意外な目で飛竜を見た。
…謝れるんだ、この人。
「シェラックに戻ったら、パパのお見舞い行ってよ。パパはアナタの事心配してたから、来てくれたら喜ぶよ」
「…あぁ」
弱弱しくもしっかりと頷く飛竜を見て、ヘラは安堵の息を吐いた。
良かった。ここでコイツが死のうものなら、リッカがどれだけ悲しむだろう。
それに、案外悪い奴じゃないし。
うんうん、と頷いていたヘラは抱えている青年を見てある事に気付いた。
「あ。飛竜、アナタ元に戻ってるよ!」
「は…?」
――工房を襲って来た時の、異形の半身が元に戻っている。
傷を負ったからなのか、リッカに会えたからなのか分からないけれど。
「良かったじゃん、これでまたリッカにアプローチ出来るね!顔だけならあの蟻人達を上回ってるし!」
「蟻人…?」
「そうそう。リッカ、羽付き二人に言い寄られてんの。これがまた変な奴等でさぁ。一人はやたらデカくて、何かあると直ぐ”リッカ…”っていじいじすんの。もう一人もデカいんだけど、こっちはムッツリっぽい。二人共にヤバい位リッカの事が好きなの。フラれたら多分、死ぬんじゃないかなぁ、あの人達」
何だそれ…と呟く飛竜に、ヘラはニカッと笑ってみせた。
「何だかんだ、アナタが一番まともな気がするよ。頑張れ!」
「そんなのと比べられてもな…」
ガックリと肩を落とす飛竜をうりゃ、と抱え直し、ヘラは限界までスピードを上げるべく力強く翅を震わせた。
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「っしゃあ!捕まえたぜ、玉虫!」
「ちょっ…触んないでよ!!」
――足元の悪い中、走り続けていた理世の体力は限界に達していた。
岩場に手をつき、息を整えていた所を背後から抱き締める様にして捕まえられた。
「どーする?ミラン。翅をぶっちぎってから殺す?殺してからぶっちぎる?」
「嫌!どっちも嫌!」
「お前に聞いてねーよ、玉虫。エグル、もっと押さえつけろ」
理世を捕まえている鳥人の男・エグルは抵抗を封じる為に、理世の身体を両腕ごと背後から抱き締めた。
ボウガンがガラン、と音を立てて地面に落ちる。
「ん…?」
「どうした?エグル」
「いや、コイツ…」
エグルは抱き締めている玉虫の少女の首元を見つめる。
翅の生え際の、硬い部分が見当たらない。
首筋から肩甲骨にかけて、僅かに太くなった部分がある筈なのに。
いつも、其処をいかに綺麗に残して抉り取るかに苦心しているので、必ずチェックする部分なのだ。
おまけに、何だかふわふわと柔らかく、心許ない身体。
このまま力を籠めると、壊れてしまいそうだ。
玉虫は確かに、兜や鍬形と比べると硬皮は薄い。
しかし、こんなに柔らかかったか…?
首を捻りながら、腕の中の少女をクルリとひっくり返し、自分の方に向ける。
顔立ちは悪くない。むしろ可愛い。
胸元より少し長い黒髪は、ほんの少し緩く巻いてあり、大きな黒目に長い睫毛。
小さな顔は透き通った様に白く、ずっと自分達から逃げる為に走っていたからか、頬が上気して薄桃色に染まり、血が通った唇は紅色に色づいていて、まるで熟れた果物の様な瑞々しさに満ちて――
「いやいやいや!おかしいだろ俺!」
「な、何だよエグル。どうした?」
驚いた様な顔のミランに問い掛けられ、エグルは何と言って良いか迷う。
――昆虫人と自分達は、種が違うのだ。これまで昆虫人達を何十人と襲って来た。
その中には見目の良い者も数多く居たが、あくまで”上物の素材”としか思わなかったのに。
「い、いや…何て言うか、その…」
「あ!?何だよハッキリ言えよ」
ヤバい。頭イカれたとか思われる。って言うか、イカレてんじゃねぇか、俺。
「か…」
「か…?」
「可愛い!可愛いんだよこの玉虫!」
「ハァ!?何言ってんだお前!」
「いや、俺にもわかんねぇけど!だってコイツ、何か可愛くね?いや、そんな訳無いか?…やべぇ、俺さっき頭とか打ったかも。あー!何か、すっげぇチューとかしてぇ!」
「触んないで変態!!」
――ぎゃあぎゃあと揉める相棒と玉虫。
呆れと言うよりも、意味不明な事を言う相棒に対して激しい苛立ちを感じたミランは、エグルの腕から理世を引き離す。
「…お前馬鹿か?ふざけた事言ってないでさっさとソイツの翅持って帰るぞ。逃げた蜻蛉と兜も追わなきゃいけねーんだから」
ミランは理世の肩をギリ、と掴んだ。次の瞬間、ミランは微かに片眉を上げた。
「痛い…っ!」
理世は痛みに顔を歪めながら、懸命に身を捩った。
「お、おいミラン。あんま乱暴にしたら…」
「黙ってろエグル」
――ミランは少女をじっと見つめる。その頭部からは触角が生えているし、翅もある。
だが、何処か不自然な気がする。
(この違和感は何だ…?)
この可愛らしい玉虫が飛ばなかった事だろうか。
いや、別に不自然じゃない。玉虫如きが俺達から飛んで逃げられる訳がない。
ならば、飛ばずに木や葉を利用しつつ地を這って逃げた方が良い。当然の事だ。
事実この少女を捕まえたのは、遮蔽物の無い開けた場所だった。
(…まさか)
肩から少し手を下ろし、二の腕の辺りを掴む。
そこにはあるべき硬い皮膚が無く、指に伝わるのは柔らかく頼りない感触。
「…成程な、わかった。悪かったよエグル。お前は馬鹿じゃなかった」
「そりゃ良かった…ってミラン、どうした急に」
理世は弾かれた様に顔を上げた。獰猛な顔で嗤うミランと目が合った。
嫌な予感がする。
「離してってば!」
ミランの腕を振り払い、その胸を強く押して距離を取る。
そのまま素早く身を翻し、茂みの中に飛び込もうとした。
「っ…!痛っ!」
背後から伸びて来た手に髪を掴まれ、強引に引き摺り戻される。
ブチブチと髪の引き千切れる嫌な音が耳元で聞こえた。
「ミラン!」
エグルの焦った様な声に、ミランは待て、と言う様に片手を挙げて制する。
「見ろよ、エグル」
ミランは理世の触角を掴み、思い切り引っ張った。
そして手にしたモノを見つめ、「やっぱりな」と呟く。
――手の中には、触覚が縫い付けられている黒のカチューシャ。
それを、頭を押さえ涙目で睨む理世の前にポイと放り投げた。
「ミ、ミラン。これって…!」
「あぁエグル。ヤバいな、俺達ツイてるぜ?コイツ”人間”だ」
「マジかよ…!人間なんて噂でしか聞いた事ねぇ…!」
「昔っから、人間は何故か昆虫共の国にしか落ちて来ねーんだよ。それでもご先祖サマが何人か虫共からかっ攫って来たらしーけどな」
すげぇすげぇ、と興奮する相棒を冷静に見つめながら、ミランは少し考えた。
さて、この少女をどうしたものだろう。
さっさとヴォラティルに連れて帰るか、それとも二人で独占するか。
(…独り占めするか、だな)
ミランは理世の背を探り、翅の留め具を探し当てると指で弾いてそれを外した。
パサ、と地に落ちた両翅を見た途端、理世の胸に恐怖が急速に込み上げる。
どうしてこの人達は昆虫人以上に”人間”に詳しいの?
さっきミランって奴が言ってた様に、このインセクタに”落ちて来た”若しくは逃げだしたりして迷い込んで来た人間は、ヴォラティルに連れてかれてたから?
――あぁ、でも何となくわかるかも。
鳥人は昆虫人よりも更に見た目が人間に近い。
仮に大昔の鳥人が今より鳥っぽかったりしても、虫よりは受け入れやすかったのだろう。
ひょっとしたら、自分の境遇とかを話したりしてたのかもしれない。
もし、それが当たらずとも遠からずってトコだったら。
――理世、今、予想以上に大ピンチなのかもしれない。




