43・無知と無邪気
理世とジーンは翌日、二人でアトラスの工房を訪ねた。
「おぅリッカ。仕事上手く行ったんだってな。良かったよ」
「ありがとうアトラスさん。忙しいのに無理させちゃってごめんなさい」
構わねぇよ。
そう軽く手を振るアトラスは、理世の背後に立つジーンを見てふと眉を顰める。
「ジーン?どうした、何かあったか?まさか飛竜の奴が…?」
「あぁ、ううん、そうじゃないんだよ。ちょっとアンタに話しておきたい事と聞いておきたい事があってさ」
「話?何だ?」
理世はジーンに「ほら、リッカ」と促されおずおずとアトラスの顔を見上げた。
訝し気な顔をして此方を見返すアトラスの前で、徐に触角付きカチューシャと背中の羽を外していく。
「な…っ…!」
驚きの余り思わず後退り、口をパクパクとさせるアトラスに向かい、理世はペコリと頭を下げた。
「あの、アトラスさん。実は私、甲虫人ではなくって…」
「ちょっと待てリッカ!」
我に返ったらしいアトラスが、急いで作業場の、開け放たれている扉まで走って行った。
そして二人の子供達、ヘラとクレスを呼ぶと「今日はもう店を閉める。客が来たらそう言っとけ。後、お前等は作業場には入って来んなよ」と言いつけ、急いで扉を閉める。
「…何てこった。リッカ、お前”羽無し”だったのかよ」
「ごめんアトラス。ずっと黙ってて」
採用面接の時にわかって、それで周りを誤魔化す為にアタシの妹の形見でリッカを擬態させたんだ。
だけどもう、アタシ一人じゃ守り切れなくて。だからアンタにも教えておこうかと思ったんだ。
”以前”の話まですると大変だから、そこは伏せておいても構わないだろう、と二人で決めた。
「…道理で、飛竜の奴の執着が激しかった訳だ。”羽無し”は男にとっちゃたまらない存在だからな」
「アトラスみたいに、既に番が居た場合はその効果は無いらしんだけどね…。まぁアタシの曽祖父も、”羽無し”に夢中になった口だし」
アトラスは片手で額を押さえながら、溜息を吐いた。
「リッカ。今後も飛竜には注意しろよ?全く、もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「ごめんなさいアトラスさん。でも、やっぱり飛竜さんは私がその、”羽無し”だから好きになってくれただけなんですね。私から離れたらきっと、何事も無かった様に元に戻ってくれてるのかな」
ホッとした様な顔の理世を見ながら、アトラスはジーンと顔を見合わせ苦笑した。
「いいや違うなリッカ。飛竜はお前に好意を抱いたからこそ、”羽無し”の香気に囚われたんだ。お前、もう少し自覚した方が良いぞ?何て言うんだろうな、決して隙がある訳じゃないんだが、お前は男の気を引きやすい雰囲気と顔立ちだから…」
――理世は適当に頷きながらも、内心は冷めた気持ちで聞いていた。
うん。だから理世も、自分が可愛いのは知ってる。よく言われるし。
でも皆、途中から理世の事好きじゃなくなっちゃうんだよ。
だから理世はその程度なの。
こっちでモテるのも恐らく”羽無し”のフェロモンのせいで、理世本人の魅力とかじゃないから。
――蛾人の里で会った姉。
たった一人の人に、強く深く、愛されていた。
理世は、女としても人間としても、お姉ちゃん程の価値は無い。
完全に八つ当たり、とわかっていても刺々しくなる気持ちを抑えられなくなった理世は、唇を噛んでふい、と横を向いた。
「あのねアトラス。聞いておきたい事なんだけど、リッカ、今自分のお店持たないかって話が来てるの。六角城の近くに元武器屋の空き店舗があるって。アンタさ、その辺りの事何か知ってる?」
理世の機嫌が悪くなった事を察したのか、すかさずジーンが割って入り話題を変えた。
アトラスはそれに気付く事無く、「おぅ知ってるぜ。ってかすげぇなリッカ」と豪快な笑い声をあげた。
「ありがとうございます。でもまだ決めてはいないんです…。そこを買う購入資金も貯まってないし。ただ、周囲の環境を一応聞いておきたくて」
「環境?」
「はい。私、飛べないじゃないですか。なので、飛べなくても大丈夫な移動手段があるのか、とか気になってしまいまして…」
アトラスはあぁ、と言った風な顔になり、腕組みをしながら教えてくれた。。
「あそこなら大丈夫だよ。近くに飛蝗便の停留所があるんだ。仕入れも問題ないと思うぜ?六角城下の街はその停留所からちょっと距離があるが歩いていけるからな」
アトラスは成程…と考え込む理世の頭を撫でながら、ジーンに向き直った。
「ジーン。妹の形見にゃ悪いがリッカを甲虫人に擬態させるのはリスク高いぜ。お前達が気にする様に俺達甲虫は飛べる。何かあった時に飛べるのに飛べない、のは変だろ?鈴虫辺りに擬態するのはどうだ?」
「うん、それは今回の話があった時点でアタシも思ったんだけど、蝶人の立葉さんや蛾人の織物職人にはもう玉虫の姿見られちゃってるし。今後の取引の時にいきなり鈴虫に変わってたら変じゃん」
うぅむ…と唸り声をあげるアトラスに、理世はハイ、と手をあげた。
「リッカ?何だ?」
「生まれつき羽がくっついて固まってて、飛べないって設定はどうですかー?」
理世は小学生の時に、蝉の羽化でそれを見た事があった。
羽化の失敗だと聞いた。甲虫でもそう言った事態があるのかはわからないが、いきなり他の虫に変わるよりは不自然で無い気がする。
「そうか。そうだな、見た事は無いが極稀にあるってのは聞いた事あるし、それで行くか。じゃあリッカ、羽の留め具を強化しといてやるから、ちょっと待ってろ。後な、その空き店舗の購入資金だっけか?足りない分は俺が貸してやるよ」
「え…ほ、本当に!?あ、でもそんなご迷惑かけられないです…」
「馬鹿。商売やっててせっかく訪れたチャンスって奴を逃がしちゃ駄目だぜ?勿論貸すだけだから、後できっちり返せよ?」
理世はオロオロとしながら縋る様にジーンを見つめる。
ジーンは安心させる様に頷いてみせながら、「本当はアタシがそう言う予定だったのに、アトラスに盗られちゃったよ」と大袈裟に肩を竦めてみせた。
「リッカ。ここは甘えておきな。借金背負っちゃったら、アンタもそうそうアトラスと縁切る訳にもいかないでしょ?コイツはそれが狙いなんだから。酔っぱらうといつも”リッカは俺のもう一人の娘みたいなもんだ”って言ってるんだよ?」
「よ、余計な事を言うなジーン!」
厳つい顔を赤く染めながら狼狽えるアトラスの顔を見て、理世はじんわりと温かいものが胸に広がるのを感じた。
色々失ったけれど、お陰でこの街で大切な人達と出会う事が出来た。
進むべき道も、見つける事が出来た。
「アトラスさん、ありがとう!」
飛び上がって抱き着き、お礼を言う理世に「わっ!止めろ馬鹿!」とアトラスは焦る。
失ったとは言え、番の居た自分には”羽無し”の香気の効果は無い。
ただそれは狂わない、と言うだけで、若くて可愛らしい娘に抱き着いたりなんかされたら普通に照れる。
「…ジーン。独り立ちさせる前に、ちゃんと教育しとけよ」
「…わかってる。誰彼構わず抱き着いたりしちゃ駄目だって、よーく言い聞かせておく」
「そうしてくれ」
――頭を抱える二人を他所に、理世は無邪気な笑顔で、いつまでもアトラスにしがみ付いていた。




