31・兆し
「うわぁ…すごい…」
丘の斜面。一面に広がる、淡い銀色の光を放つ蘭に、理世は感嘆の声を上げた。
銀の輝きを放つ蘭など、元の世界には存在しない。
「…この花の蜜は鈴目城の蜜飴の材料なんだ。鈴目城は弥未が落としちゃたから、正式な城主は不在なんだけど…蜜飴の生産は続いてるんだよ」
ほら、とフォイアーが指を差す方向を見ると、遠くの方で小柄な蜂人達が何やら立ち働いているのが見えた。
「蜜飴ね、お姉ちゃんに貰ったのがとっても美味しかったの」
「…この街で買える飴は、また味が違うから。帰りに買ってあげるよ」
本当!?と理世は手を叩いて喜ぶ。
フォイアーは理世をそっと抱き寄せ、その頬に唇を押し当てた。
くすぐったそうに首を竦めた理世は、クスクス笑いながら腕から抜け出し、銀蘭の中へと飛び込んで行く。
花を踏まない様、傷付けない様に注意しながらその場で踊る様にクルクルと回り、楽しそうな笑い声をあげた。
――銀色のストールに身を包み、銀の花に囲まれて踊る少女。
余りにも愛らしくて儚くて、フォイアーは訳のわからない不安に襲われた。
「…っリセ!」
「なぁに?」
キョトンとした顔で立ち止まり、小首を傾げる理世に向かって手を伸ばす。
「…戻って来て。ボクの所に」
「えぇー、もう少し…」
「早く!」
もう…とブツブツ言いながらも、大人しく戻って来た理世の腕を掴み引き寄せ、しっかりと抱き締めた。
何だろう、この不安は。胸騒ぎは。
「ん…フォイアー、痛い…」
「ご、ごめんリセ…」
無意識に力を込めていたのか、痛がって顔を歪める理世の顔を見て慌ててその力を緩める。
「もう少しだけ見てても良い?」
「…良いよ」
フォイアーは理世を抱えたまま座り、向きを変えて背後から抱き締め、共に銀蘭を眺めた。
今まで銀蘭は何度も目にしていたのに、リセと共に居るだけで見た事も無い美しい光景に見える。
腕の中の愛しい存在に、幸せなこの時間。
彼女を失ったら、もう自分は狂うどころではないだろう。恐らく、生きてはいられない。
確かに感じる幸せの間を縫うように、這いあがって来る不安感に、フォイアーは込み上げる苛立ちを懸命に抑えていた。
◇
「わ、銀蘭の蜜飴は飴玉も銀色なんだー。お姉ちゃんとこのは薄い緑だったけど…」
約束通り、帰り道に飴を買って貰った理世は「ご飯前なのに…」と咎めるフォイアーを無視して飴玉を一粒、口に放り込む。
「…玻璃鐘城のは翠花の蜜で出来てるから…」
「そっか、確か各お城で飴が違うんだったよね。他のお城の飴も食べてみたいなぁ」
フォイアーは内心、大きく溜息を吐く。
確かリセは”フォイアーと二人で静かに暮らす”と言ってなかったか?
あのジーンとか言う甲虫人の女と触れ合ったり、色んな所に行こうとしたり、全然静かに暮らしていないではないか。
(ボクは、リセさえ居ればそれで十分なのに…)
願わくば、誰にも邪魔されないで二人だけで暮らしていきたい。
そんなフォイアーの思いなど露知らず、理世は更に思わぬ事を言い出した。
「ね、ジーンさんが”従業員が欲しい”って言ってたでしょ?理世、お願いして雇って貰おうかな」
「ダメだよ!リセが働いたりしなくても、ボクがお金持ってるから…!」
「でも、ずーっとお金ある訳じゃないでしょ?そしたら働かないと…」
無邪気な理世の言葉を聞き、銀蘭の丘に居た時から引き摺っている不安と苛立ち、それらが一気に胸中に込み上げて来る。
気付くとフォイアーは大声を出して理世に詰め寄っていた。
「ボクが傭兵でもやれば済む話なんだよ!リセは余計な事を考えないで!もうこの話は終わりだからね?お願いだからボクを、」
フォイアーは言葉を一旦切り、理世の手を乱暴に掴むとグイグイと引き摺る様に歩き出す。
そして理世の顔を見ないまま「…ボクを、疲れさせないで」と一言呟いた。
――この時、リセの顔をきちんと見ていれば。
後に、とある場面を迎えた時。
フォイアーは、この時の事を死ぬ程後悔する事になる。
********
「姫。一つ情報が入りました。玻璃鐘城からそう遠くない所にある蟷螂人の夫婦が営んでいる宿に、リセと思しき若い娘が泊まっていたそうです。ただ、共にいたのは蟻人の若い男、だそうなのですが…。人相はフォイアーに酷似しています。しかし彼は今、先祖返りしている筈なので、情報の真意は定かではありません。その二人連れは翌日には出て行ったそうで行方が掴めたのはそこまでですが…」
――カイザーの状態を皆に話して聞かせ、ともかく理世を探して連れて来るのが先決、と決まってから今日で4日。
先ずは情報を集めましょう、とのクーゲルの提案に従い、美琴は地底王国に留まっていた。
その間、毎日カイザーの元へと通い、理世の話を聞かせていた。
カイザーは大人しく話を聞いている。
一度、試しにフォイアーの話をしてみた。
揶揄うつもりでは無く、カイザーが彼に対して何か思う事があるのなら、フォイアーには会わさない方が良いかもしれないと思ったからだった。
フォイアーの話、と言っても美琴はフォイアーの事を良く知らない。
なので、初めて会った時の理世への依存心の高さや情緒不安定気味な所が気にかかる、と何方かと言うと悪口に近い愚痴をこぼしていた。
それを聞いていたカイザーは突如激しく羽を震わせ、鉄格子ギリギリまで進み、触角でコツンコツンと金属の棒を叩き始めた。
その時美琴は、その反応が所謂、”恋敵”に対する不快感なのかと思ったが、巨大羽蟻の無機質な目を覗き込んだ時、その考えが間違っていた事に気付いた。
――カイザーは、美琴を咎めている。
フォイアーを悪く言う、美琴の事を。
美琴はそれに気付いた時、ひどく胸を揺さぶられた。
(カイザーさん、貴方は…とても優しくて不器用で、損な性格をしているのね…)
理世を深く愛するが故に、理世の愛した男を庇う素振りを見せる。
玻璃鐘城でもそうだった。狂いが進み、完全体になったフォイアーを労わる眼差しを向けていた。
自らはこんな姿になるまで、追い詰められていたと言うのに。
クーゲル達の言う様に、カイザーは楽にしてあげた方が良いのかもしれない。
理世に危険が迫るからと言うよりは、他ならぬカイザー本人の為に。
でもその前に必ず。
「絶対に会わせてあげるから。理世に」
――カイザーが、ほんの少し頷いた様な気がした。
********
「リセ。今は甘燕が産卵時期だから、たくさん飛んで来てるんだ。ちょっと遠いけど、夕方には帰って来れると思うから見に行く…?」
「フォイアー、見に行きたいの?」
「いや、ボクは別に…」
「そう、じゃあ理世も別にいい」
――ここの所、リセの様子がおかしい気がする。
フォイアーは募る不安に押し潰されそうになっていた。
気のせいかもしれない。
抱き締めてもキスしても、嫌がる事は全く無いし笑顔だって見せてくれる。
夜だって、深い求めにも応じてくれるし何も不安に思う所は無い筈なのに。
今、リセは椅子に座って1冊の本を読んでいる。
その頭部からは玉虫色の触角が生え、羽織っているストールからは同色の羽がはみ出して見えている。
「意外と、裏家業の連中には”羽無し”の存在は知られてるの。蟻人や蜂人を恐れて口にはしないだけ。だから、こうして擬態しておく方が安全だよ」
そう言ってジーンが作ってくれたのだ。
頭部の触角は理世の黒髪と同色の細いカチューシャに縫い付けてあり、まるで普通に頭部から生えている様に見える。
羽は付け根部分にクリップを付け、服の首回り部分で着脱出来る様になっており、服を変えても問題無い様に仕上げてあった。
どこからどう見ても、可愛らしい甲虫人の娘。
その愛くるしさに、先日の様に良からぬ目線でリセを見る者も多かったが”蟻人の羽付き”が理世の伴侶だとジーンが触れ回ってくれた為、そういった事態もめっきりと減った。
フォイアー的には不本意であったが、”女王以外とでは卵を作れない羽付きが、甲虫人の娘を嫁にした”と周囲からの好感度も高まり、今や二人は仲の良い夫婦として認知されている。
理世は2階に住まわせて貰っているお礼に、時々店の手伝いをやり、フォイアーは蜘蛛人の取引先に糸を取りに行ったり、力仕事をやりつつ傭兵ギルドにも登録をしていた。
今日は店も休みだし、二人で何処かに行こうかと思ったのに。
フォイアーは不安を振り切る様に、理世の元に近寄り、そっと隣に寄り添って座る。
「リセ…」
「どうしたの?」
「ボクの事…嫌いになったの…?」
「ううん。どうして?」
心底不思議そうな顔で言われ、フォイアーは言葉に詰まる。
自分でも良くわからないのだ。ただ、リセはこの所ずっと”遠慮して喋っている”気がする。
妙に物分かりが良いと言うか、我が儘を言わなくなったと言うか。
リセの可愛い我が儘はむしろ大歓迎なのに…。
「フォイアー、少し休んでたら?明日はちょっと遠出なんでしょ?無理しないで。理世に合わせてくれなくて良いから」
「違うよ、ボクは…」
合わせてなんかいない。ただ、リセと一緒に居たい。時間を共有したい。同じものを見たいだけなんだ。
口下手なフォイアーは思い通りに気持ちを伝えられず、内心歯噛みをしていた。
「リセ!フォイアー!居る!?」
どう説明しよう、と悩んでいると、階段を乱暴に駆け上がる音が聞こえ、慌てふためいたジーンの声が聞こえた。
「ジーンさん?どうしたんですか?」
一瞬二人で顔を見合わせた後、理世が返事をし、フォイアーが扉を開ける。
転がり込む様に飛び込んで来たジーンの顔は微かに青褪めていた。
「…リセ、表に羽付きと、何だか知らないけど蜂人の男の子がいる!アンタ達を探してるみたいなんだけど、どうする?フォイアーはともかく、リセは甲虫人のフリしてるからまだバレてないと思うんだけど…!」
理世は首を捻った。
何でわざわざ探しに来たんだろう。新しい女王は?それに蜂人の男の子って季彩君…?
どうして、季彩君が?
「ジーンさん、表に居る蟻人って、ちょっと怖い顔の背の高い人?」
「いやいや、眼鏡だよ。何か神経質そうな」
「…クーゲル?」
ますますもって分からない。
何か緊急に用が出来たとしても、来るならカイザーが来そうなものだけど。
「…何でカイザーじゃないんだろう」
フォイアーも不思議そうに呟いている。
理世は少し考え、「ジーンさん、彼らをここに呼んでも良いですか?」と大家のジーンに問うた。
「うん…アンタ達が良いなら良いけど…」
「すいません、お願いします」
――ジーンが階段を駆け下りて行く音を聞きながら、フォイアーは抱いている不安が具体的になっていく感覚を覚え、身体を微かに震わせた。
何なんだろう…と呑気に呟いている理世を横目で見ながら、フォイアーは唇をキツく噛み締めていた。




