26・策に溺れる
「…いいえ。確かに私の指示で、フォイアーの狂気を増幅させる様に導きました。ただ、それは貴女の為です女王。彼を救う手立ては無かった。だから、多少荒療治ですが彼を狂い蟻の完全体にしておいてから我々で討伐するつもりでした。ただ、隙をつかれて逃げられてしまいましたので」
心底すまなそうな顔をしてみせる弥未に、理世は軽蔑の眼差しを向ける。
「へぇ。じゃあ理世は貴方にお礼を言うべきなの?フォイアー、どう思う?」
「言わなくて良いと、思う…」
「「!?」」
弥未と都万赤が同時に身体を強張らせる。
「り、理性があるのか…?」
震える声で呟く都万赤を、理世は冷たい眼差しで見つめる。
「ちょっと待ってて。妬かないでよ?」
身体を屈め、フォイアーにそう囁くと硬質の輝きを放つ頭部に軽くキスをする。
そして硬直したままの都万赤に近付くと、「アナタが何とかさん?」と可愛らしく小首を傾げる。
「何とか…。私は都万赤です」
よろしくー何とかさん。そう言いながら、都万赤の薄い胸元を指先でつ…となぞる。
ビクリと身体を震わせ、目を左右に泳がせる男の顔を下から見上げながら「楽しかった?フォイアーを苛めるの。残念?理世が食べられてなくて」と甘い声で囁く。
「ねぇ…」とその赤みがかった瞳を見つめながら、スルリと都万赤の身体に腕を回し頬を摺り寄せた。
「う…」
(また、アレだ…!僕の時と同じ…!)
季彩はいついかなる時も冷静な都万赤の顔が、熱に浮かされた様になっているのを見て取った。
都万赤は何かに操られる様に両腕を持ち上げ、そっと理世の身体を抱き締める。
「女王…私は…」
「都万赤!!」
突如響いた、弥未の怒声に都万赤はすぐさま我に返った。
慌てて理世の身体から腕を外すも、妙な焦燥感に駆られている自分に気付く。
(私は…女王を欲しいと、思っているのか…?)
理世はフフ、と小さく笑うと背伸びをして都万赤の顎先にチュ、とキスしてから軽やかな足取りでフォイアーの元へ戻った。
フォイアーはガチガチと苛立たし気に顎を擦り合わせながら、理世のワンピースを噛んで引っ張る。
「リセ…!ボクの前で、誰彼構わず誘惑しないで…!」
「だから妬かないでってば。愛してるのは貴方だけよ?今のは、教えてあげたかったから」
「教えるって、何を…?」
それには答えず、理世は再びフォイアーの背に乗った。
「さよなら、お姉ちゃん。理世はフォイアーと何処かでひっそりと暮らすつもり。もう会う事は無いだろうけど、お姉ちゃんは元気な卵を産んでね」
ヒラヒラと手を振る理世に、美琴は信じられないモノを見る目を向けた。
「ま、待って理世!あなた、その姿の彼と一緒に居るつもりなの!?止めて、危険過ぎる!」
「…お姉ちゃんの彼氏よりは危険じゃないと思うよ?」
言葉に詰まる美琴に、理世はそれでも一瞬愛し気な目を向ける。
姉から目を逸らした後、打って変わって明るい声で「あ、そうそう」と立ち尽くす弥未に向き直った。
「お姉ちゃんの彼氏さんは、理世達が”ニンゲン”って知ってるのよね?じゃあ、今ので実感して貰えた?理世達は、蜂でも蟻でも無い代わりに、どの種族も誘惑出来るし卵も作れる。確か蜂人の姫だと、一度強い雄の卵を宿したらもう他の雄は姫に触れられないんだったよね?でも、お姉ちゃんは”ニンゲン”だからそれには当てはまらない。アナタ以外とも、例えばそこの何とかさんとでもアレコレ出来るし卵も作れるの」
――滝の様な汗を流しながら、此方を睨み付ける弥未を、理世は心底楽しそうに見つめた。
「アナタが、何とかさんに命令してフォイアーに理世を食べさせようとした事、理世は許してあげる。それに妹を殺されかけたとは言え、お姉ちゃんは優しいから多分許してくれるんじゃないかな?じゃあ彼氏さん、お姉ちゃんに嫌われない様に、精々頑張ってね」
クスクスと笑いながら、理世はフォイアーと共に空中に上がる。
呆然としたままの都万赤に視線を向け、可愛らしく片目を瞑ってみせると、彼の者の瞳に熱情が籠り始めたのがわかった。
理世はバイバイ、と手を振りながら「さぁ、今度はアナタが食い殺される番かもね、お姉ちゃんの彼氏さん」と小さく呟いた。
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(クソッ!あの小娘…!)
弥未はギリギリと奥歯を噛み締める。
お前の言っていた事を、俺が考えていないとでも思ったのか?全く、余計な事を…!
「…弥未。どう言う事?貴方が、理世を、食い殺させようとしたの!?」
フォイアーと共に去って行く妹の姿を、零れる涙を拭おうともせず見送っていた美琴が、頬を濡らしたまま弥未をキッと睨み付ける。
今まで、見た事も無い美琴の表情に、弥未の不安は一気に膨れ上がった。
「違うよ美琴。さっき女王にも説明しただろ?俺達はフォイアーを殺すつもりだったんだ。美琴も、打つ手が無いならそうするしかないって、思ってたんじゃないのかい?」
「じゃあどうして、都万赤さんはさっき、フォイアーさんがまだ部屋に居るみたいな言い方したの!?貴方が言う様に、ただ逃げられただけなら、どうしてそれを私に伝えなかったの!?」
「俺はただ、美琴を不安にさせたくなかっただけだ」
美琴は涙に濡れた、青褪めた顔を弥未に向けながら、無意識に腹部に触れる。
お腹の中の卵。最近、”息づいている”のが分かる様になった。
弥未。彼を受け入れる時、私に触れる手も見つめてくれる瞳も、本当に甘く優しい。
彼は私を心から愛してくれているし、私も愛している。
…でも。
許せない。これだけは絶対に許せない。よりにもよって、私の妹を。
貴方が私の大切な人を奪おうとしたのなら、私も貴方の大切な人を少しの間奪ってあげる。
取り戻したければ、私にもう一度、貴方を信じさせて。
あぁ、それにしても。
あの大男だけなら許したのに。
美琴はフイッと背を向け、「ちょっと出かけて来るわ」と言い置き、外へと通じる門の方向に向かって歩き出した。
「駄目だよ美琴。城の外へ出る事は許さない」
「貴方の許可は求めてない」
手を伸ばし、腕を掴む弥未を恐ろしく冷えた眼差しで見返しながら、その手を素っ気なく振りほどく。
そのままスタスタと歩き出し、季彩の目の前を通り過ぎながらフッと片手を挙げた。
「季彩。一緒に来て」
「えっあっ、はい!」
美琴の号令に返事を返したものの、季彩は主人と美琴を見比べ、困惑の表情を浮かべた。
どうしましょうか。そんな意を込め、主を見つめる。
弥未は”待て”と目線で返し、美琴を強い目で見つめた。
「何処に行くんだ?女王の所?」
「いいえ違う。先ずは地底王国に行く。カイザーさん達と合流して一緒に理世を探し出す。…馬追月までに」
弥未の顔が、あからさまに歪んだ。
久しぶりに見せる主の怒りに、季彩は身体を縮こめ都万赤は顔を伏せる。
「美琴。以前言った筈だよ?俺から逃げようとしたら、怖い目にあって貰うって」
「怖い目って何?弥未。私は今、貴方を信じられない。貴方は?私を信じてくれる?信じてくれるなら、私は貴方の元にちゃんと帰って来る。理世を探して、話を聞いて、あの子が望む事を全力で叶えてからだけどね?」
「…なら、俺も行く。カイザー達に接触する必要は無いだろ」
「貴方が付いてくる時点で信じてないじゃない。私が信じられないなら、もう良い。怖い目でも何でも、貴方の好きにしたら良いわ」
振り返り、どうぞ、と両手を広げて目を閉じる美琴に、弥未はゆっくりと近付いて行く。
季彩と都万赤は息を飲んだ。まさか、お館様。本当に姫を…?
(お止めしますか?)
(いや、無理だ)
目線で会話をする二人の前を通り、美琴の目の前に立つ。
長い髪が顔にかかり、弥未の表情は窺い知れない。
固唾を飲んで見守る二人の前で、弥未は両手を美琴の方に向けて伸ばした。
季彩は耐え兼ねて目をギュッと閉じる。
両手を伸ばして、そして。
――美琴を強く抱き締めた。
「酷いな…美琴は。俺がキミを傷付けられないのを知っていてそんな事を言う…。わかった。信じるよ美琴。キミが帰って来るまで、ここで、玻璃鐘城で待ってる」
美琴は目を開け、小さく微笑んだ。
「弥未。私は理世と違って、元の世界に未練は無いの。此処が私の居場所。必ず貴方の元に帰って来る。だから、私を裏切らないで。私の居場所を無くさないで。信じて待っていて」
「分かったよ、美琴…」
弥未は苦く笑いながら、美琴の頬を撫でた。
◇
季彩に抱かれて、城から飛び立っていく美琴を弥未はぼんやりと見送っていた。
地底王国まで送り届けたら、季彩ですら即その場を離れなければならない。
これは、俺への罰なのだ。
美琴。俺の傍から片時も離れないで欲しいのに。
弥未は己の失策に、叫びだしたい程の怒りを覚えていた。
俺は知っていた筈だったのに。”美琴は妹の為なら、その優しさすら容易く封じ込める”と。
クソ、さっさとフォイアーを殺しておけば良かった。
そして女王に手を出すべきでは無かった。
もし、美琴が帰って来なかったら、俺はどうなってしまうんだろう。
行かせたくなかった。でも閉じ込めてしまったら、美琴は二度と俺を見てくれないだろう。
行かせるしかなかった。美琴の顔は暫く見られないが、戻って来たら、その時はもう絶対に失敗をしない。
激しい後悔に苛まれながら、弥未は押し潰されそうな胸の痛みに必死になって耐えていた。




