24・別離
理世は自室の扉に手をかけた時、ふと違和感を感じた。
人の気配…?
しかし、直ぐに気のせいだと思い直した。
シュタヘル達はまだ此方に戻って来てはいない。他に勝手に部屋に入る者などいない筈だ。
扉を開け、部屋の中に入る。
途端に吹き抜ける強い風が、理世の黒髪をかき乱していった。
バルコニーに通じる窓が、全開になっている。
シュタヘルかメーアの何方かが、換気をしておいてくれたのだろうか。
「誰かいる…?」
――返事は無い。
やはり気のせいだったかと、衣装や下着の入っているクローゼットに向かう。
風は寒いが、窓を閉めるより先に取り敢えず服を着たい。
ギチ… ギチチ…
「ん?何、この音」
何かが擦れる様な、微かな音が聞こえて来る。
理世は耳を澄ませてみた。
ギチ… ギチ…
謎の怪音はベッドルームの方から聞こえて来る。
少し迷った後、手早く下着だけ身に着け、理世はベッドルームの方に足を向けた。
そして入り口からそっと中を覗き込んでみる。
「…ひっ!?…う、嘘…!」
――ベッドの上には、蟻神を遥かに凌ぐ大きさの、巨大な羽蟻が居た。
枕に頭部を擦りつけながら、巨大な大顎をギチギチと擦り合わせている。
理世は悲鳴をあげかけ、咄嗟に口元を押さえた。
(な、何アレ!?)
良く分からないが、この状況が危険な事は分かる。
ゆっくりと後退り、ベッドルームから離れようとした時、ギチギチ音の合間に、もう一つ音が聞こえる事に気付いた。
このまま逃げるか、音の正体を確かめるか。
理世は足を止め、音の正体を探る事を選択した。
一度後退した足を、慎重に前に進める。身体に巻き付けていた邪魔な布を外して横に置き、身体を低くし、そっと近づく。
(下着姿で四つん這いって…何だかすっごい間抜けな感じ…)
どうでも良い事を思いながら聞き耳を立てる。
「…リセ…リ…セ…」
「フォイアー!?」
聞き覚えのある声に下着姿な事も忘れ、思わず立ち上がって大声で叫んだ。
巨大羽蟻がグリンッと頭部を此方に向けた。
大顎が、まるで子供が手を叩いて喜んでいるかの様にガチガチと噛み合わされる。
「どうして!?どうしてその姿になっちゃったの!?」
「リセ…ボク…イラナイ…アイシテル…リセ…ウソツキ…」
不明瞭な声でしゃべる巨大蟻は俊敏な動きでベッドから降り、理世に迫って来る。
理世は恐怖で身体を動かす事が出来なかった。
「きゃ…!」
蟻は容赦なく理世に圧し掛かり、気遣う事無く華奢な身体を床に叩き付ける。
床は毛足の長い絨毯敷きなのでそこまでダメージは無かったが、硬皮に覆われている足で押さえつけられている所は地味に痛い。
ギチギチと鳴る蟻の大顎が理世の眼前に迫る。
(あーあ、食べられちゃうのかぁ…)
まぁ、こうなる可能性を覚悟してない訳では無かったけど。
ただ一つ、気になる事だけは解決しておきたいな。
理世はそっと手を伸ばし、巨大羽蟻の顔を優しく撫でた。
ギチ…
まるで戸惑った様に、蟻が擦り合わせていた顎の動きを止める。
「ねぇフォイアー。”うそつき”ってどう言う事?」
――先程、このフォイアーと思しき巨大羽蟻が言っていた。
”ウソツキ”の台詞がどうしても気にかかる。
彼が、この姿になったのは、その辺りに関係があるのではないかと思ったのだ。
理性が残っているのかは分からないが、聞くだけは聞いてみよう。
「う…リセ…ボクの事…アイシテルッテ…」
「うん。理世、そう言ったよね?フォイアーの事好きって。だから、ちゃんとお願い聞いてあげたでしょ?」
「ウソだ…じゃあ…ドウシテ…ボクヲ…いらないって…」
良かった。此方の問い掛けに応じてくれた。
それに、心なしか言葉が聞き取りやすくなって来た気がする。
このまま落ち着かせれば、何とか元に――
「リセ。リセ、入っても良いか…?」
控えめなノックの音と共に、外からカイザーの声が聞こえた。
フォイアーである巨大蟻は弾かれた様に頭部を上げる。
「ヤッパリ…カイザー…リセ…!」
フォイアーの声が再び軋み始める。
何てタイミングの悪い。理世は歯噛みをしながら、扉の外に居るカイザーに声をかけた。
「ごめんなさい、まだ服着替えてなくて裸なの。何か用…?」
「少し話がしたい。中に入れてくれ」
「ちょっと今は無理なの。後にしてくれないかな…っぁ…!」
――フォイアーが、その大顎で理世の首筋に噛み付いた。
激しい痛みに思わず漏れる呻き声。滴り落ちる血の感触。
「リセ!?どうした!?」
「な、何でもないから…!カイザー、また後でね!」
理世はガジガジと首を噛み続けるフォイアーの頭部を、痛みに震える手で撫で続けた。
「フォイアー…噛まないで。痛いじゃない…」
「ウ…あ…リセ…ゴメ…ん…」
――フォイアーの顎の動きが止まる。
痛みは酷いが、意識を失う程ではないので、恐らく血管には損傷は無いと判断した。
蟻が大人しくなった所を見計らって、理世はそろそろと身体を起こす。
横に置いていた布を引き裂いて血の流れる首に巻くと、汚れるのも構わず、己の血に塗れた大顎にそっと唇を触れさせた。
「待ってて。服取って来るから」
「ウン…」
理世は素直に頷く巨大蟻・フォイアーを置いてクローゼットに向かうべく、立ち上がった。
同時に扉が開け放たれる音が聞こえ、部屋の中に蒼白な顔のカイザーが銃を構えたまま、踏み込んで来た。
「もう…カイザー、入って来て良いなんて言ってないけど?」
「リセ!?コイツは、フォイアーか!?」
「そう。ねぇ、ちょっと着替えるから、二人共向こう向いてて」
コクリと頷き、ギチギチと音を立てながら大人しく後ろを向く巨大蟻に戸惑いながらも、カイザーも一先ずは後ろ向きになった。
そのまま視線を降ろし、フォイアーだと言う蟻を見つめる。
視線に気付いたのか、蟻は頭部を持ち上げてカイザーの方を向いた。
「フォイアー、お前…」
「カイザー…」
きまり悪げに、再び頭を伏せる蟻の姿を見てカイザーはひどく胸を揺さぶられた。
何故、コイツがこの姿に。狂いは抑えられていた筈だ。
「何があった」
「リセが…カイザーしかイラナイッテ…。ボクはモウ、ステルッて…言わレテ…」
「誰がそんな事を!?」
「ツマ赤…」
その名を聞いた途端、カイザーは大きく舌打ちをした。
あの冷酷な策士。アイツなら、フォイアーを騙す事などいともたやすいだろう。
だが。
都万赤は命令に従ったに過ぎない筈だ。
「クソッ!弥未の奴…!」
考えている事など、手に取る様に分かる。
玻璃鐘城で、姫と楽しそうに話をしているリセを見るあの冷たい眼差しを思い出す。
邪魔になったのだ。姫の気を引くリセの事が。
それでフォイアーを煽り、リセを襲わせようとしたに違いない。
過去に食い殺された”無垢の姫”の様に。
「お待たせー」
ヒラヒラと手を振りながら、リセが二人の元に歩いて来る。
二の腕の部分がふんわりと膨らんだ、胸元に大きなリボンのついた黒の長袖ワンピース。
宝石の様な飾りのついた同色のヒールをコツコツと鳴らしながら歩き「どう?可愛い?」とその場でクルリと回ってみせた。
「カワイイ…」
ギチチ、と顎を鳴らしながら即座に答えるフォイアー。
出遅れてしまったカイザーは、大きく頷くに留まってしまった。
「ありがと。んーと、それじゃあ行きましょうか、フォイアー」
「え…ドコにイクの…?」
「ちょっと待て、リセ!」
同時に声をあげる二人を見やりながら、理世はフワリと笑った。
「玻璃鐘城。フォイアーを騙してくれた仕返しをしに行くの。お姉ちゃんは関わっていないだろうけど、もうそんなの知らない。その後は、フォイアーと二人で何処か静かな所で暮らす。キハナ達は後で迎えに来るから」
「なっ…!リセ、お前は何を言って、」
「リ、リセ…?良いの…?ボク、頑張ってガマンするからムリしないで…!」
理世は跪き、巨大蟻の大顎の間に顔を差し出した。
チュ、と音を立ててキスをすると蟻の頭部をギュッと抱き締める。
「フォイアー。もし貴方がこの大きな蟻の姿のままでも、理世はずっと一緒に居る。理世を食べたいなら食べても良いからね?それと…あの、夜とか大丈夫だったら理世、それも平気だから」
「だ…駄目だよリセ!この身体じゃ、リセを傷付けちゃうから…!」
急に流暢に喋りだしたフォイアーを見て、カイザーは目を丸くした。
そして気付く。フォイアーは正気を取り戻し始めている。
「だから平気だってば。そこは貴方が頑張って?」
「わ、わかった…。する事自体は出来そうだから、ボク、頑張るよ…!」
うん、と頷き、理世は立ち上がった。
横を向き、呆然と立ち尽くすカイザーの顔を真っすぐ見つめると、少し悲し気に微笑みかけた。
「ごめんねカイザー。やっぱり貴方を選ぶのは止める。彼の…フォイアーの為だけじゃないの。貴方は理世の手を取ってくれなかった。貴方って、最初は割と強引だったのに、肝心な時に弱気なんだから…」
「リセ、待ってくれ、オレは…!」
「そうだなぁ…さっき、お部屋に連れてってくれてたら、また違ったかもしれない。でも、このままだと”卵”は出来ないから、多分理世がここから居なくなったら新しい女王様が来ると思う。カイザー、今度は頑張ってね?じゃあ、クーゲルやアルメー、シュバルツによろしく伝えておいて」
行こう、フォイアー。
そう言うと、理世はフォイアーの背中に乗った。
巨大蟻は羽を震わせ飛行体勢に入る。
部屋の中に強風が渦巻き、理世の黒髪を舞い上げた。
「待てリセ!オレだって、本当はお前が欲しかったんだ!お前を壊したくなかったから、だから…!お願いだ、行かないでくれ…!」
(大人の男の人の泣きそうな顔って、初めて見たな…)
理世は顔を俯け「ごめんなさいカイザー。…さよなら」とポツリと呟いた。




