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「……陛下をお許しください」
「…え」
女官長が静かに髪を梳くのにうっとりとしていたシャルンは瞬きした。振り向こうとして、軽く制され、そうだ、髪を整えてもらっていたのだったと思い出す。
「…ステルン王を、ですか」
「あなた様を苦しめたいばかりではなかったのです」
声は低く緊張している。
「…どういうことですか」
振り返ることは許されないなら、聞こえて来る声と指先に意識を集中するしかない。
けれども、女官長が他国の王妃、しかも自国の王が無礼な振る舞いをした上での弁明を口にするには、よほどの覚悟がいったはずだ。相手は絞り出すようにことばを継いだ。
「…あの曲は、私が探し出して参りました」
「…あなたが……。………お名前を聞いていいでしょうか」
「カルミラ、と申します」
「…カルミラさんはなぜ、あの曲を?」
「……陛下は……あなた様をお望みでした」
小さな声が震えるように告げた。
「……一番初めの閨で……あなた様が犬の鳴き真似などされなければ…」
「……」
シャルンは黙り込んだ。
「……あの曲は…ハイオルトの古い曲だと聞きました」
女官長は髪を梳きながら歌うように話す。
「想い合った恋人達が……ようやく結ばれて踊る曲だと」
「…私は、レダンの妻です」
「……ええ……ええ、もちろん……」
一瞬、髪を梳く手が止まる。何かを堪えるように苦しげな呼吸が続いた後、
「…それでも…私は……あなた様を舞踏会に招かれた……陛下のお気持ちをお支えしたかった…」
「……あなたは……陛下をお好きなのですか」
「………いいえ」
声が震えた。
「いいえ、いいえ。そんなことはあろうはずもございません」
いささか強く髪が束ねられていく。
シャルンは抵抗せずにされるがままになっていた。
「…けれど…」
「けれど?」
「……陛下がお小さい頃、宮殿の番犬に噛まれて辛い思いをされたのは……よく存じておりました…」
「……私が許せなかったのですか?」
シャルンは窓の外をじっと眺めた。
返答はない。
ただただ髪が強く束ねられていく、時にきつすぎるぐらいに強く。
やがて、女官長はそっと尋ねてきた。
「……ご存知でしたのですね?」
「………はい」
シャルンは溜め息をついて応じた。
「…噂で耳にしたことがありました」
求婚は受けるが正式な婚儀に持ち込まれてはならない宿命を背負ったシャルンは、求婚される必要があり、かつ、それを相手側から退けてもらう必要があった。
ステルン王国の求婚を失わないためには、少ない財政をやりくりして、なんとか精一杯おめかしをして、宮殿に入り込む必要があった。けれども女にだらしないと噂の王ならば、弄ばれただけで捨て置かれてしまうかもしれない。閨に招かれた時に、どうして切り抜けるかを考えなければならなかった。
「…ステルン王は犬が苦手で、かつて宮殿で飼っていた番犬を今は全て手放してしまったと」
「……」
「もしそうならば、ただでさえ華やかではない私が、閨に招かれた時に無粋にも犬の鳴き真似をしたならば、きっと王は私をお望みになるまいと考えました」
賭けにしかすぎなかったが、賭けてみるしかなかった。