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「おお寒い」

 馬車から先に降りたルッカが夜気に体を震わせる。

「よく冷えておりますね」

「ルッカも入るのでしょう?」

「滅相もない」

 馬車の扉の側に立ちながら、もこもこになるほど着込んだルッカが首を振る。

「聞けば、こちらは王族の方しか来られない場所だと言うじゃありませんか」

 ぐるりと周囲を見回し、白い息を吐きながら、それでも満足そうに笑った。

「私は馬車でお待ちいたします……しかしまあ、美しいところでございますね」

「ええそうね」

 吐息まじりのルッカのことばに、追うようにシャルンは周囲を見回した。

 部屋に運び込まれた夕食を堪能した後、レダンとシャルンはそれぞれに支度を済ませ、宮殿から少し離れた遺跡近くに湧き出ている温泉にやってきている。

 宮殿の窓から見えた古い遺跡は、見上げるような石柱が立ち並び、表面に美しい浮き彫りのある石造りの神殿、巧みに組み合わされた石で作られた階段で丸く囲まれた建物などが点在していた。

 温泉は、その中央近く、数段下がった集会場跡地のような窪みに薄青く、湯気を漂わせて溜まっている。周囲は馬車の位置よりほんのりと暖かい。

 近づくにつれて、遺跡の後方に、白く煌めく階段状の岩が薄青い湯をたたえて輝くのが目に入り、一体これは何者の技なのかと驚いた。湯は岩の窪みに溜まり、少しずつ溢れて遺跡の一部に降りかかり、あるいは石柱を浸し流れ降りて、遺跡のそこかしこに白く輝く氷柱のような姿を形作り、その先端から滴り落ちている。湯の中の成分が岩の表面に固まった装飾、いまではここを『凍れる宮殿』と呼ぶらしい。

「お待ちかねですよ」

「はい」

 促されてルッカの微笑みを背中に、階段を降りて行く。

 身に付けているのは透ける薄物と厚めのコートだけだ。すぐに脱げる柔らかな素材の履物を脱いで湯に近づき、コートを脱ぎ落とすと、既に湯の中に入っていたレダンが気づいて、こちらに手を差し伸べてくれた。

 月の光が当たり、シャルンは思わず立ち止まった。

 胸が強く打つ。

 遺跡の破片を底に沈めながら溜まる青い水、愛おしげに待つレダンは黒髪を解き流し、同じような薄物を一枚羽織っているが、艶やかな首筋や髪が乱れる広い肩に、逞しい胸と強い腕に、伸びやかな足と腰に濡れた衣が張り付いていて、月光が散っている。

「済まない、先に浸かってみた……あなたに熱すぎてはいけないから」

 柔らかな声が案じてくれる。満足げな微笑み、伸ばされた掌の優しさ、いますぐに駆け寄れば抱きしめてくれるだろう、その瞬間を、シャルンは深く味わう。

 この思いを幸福と呼ばずに、なんと呼ぶだろう。

「?」

 近づかないシャルンにきょとんとした顔でレダンは首を傾げた。

「シャルン?」

 なぜ、これほどの王がシャルンを望んでくれるのだろう。

「大丈夫だ、見えているほど深くない」

 それより、そのまま立っていると風邪を引く。

「早くこちらへおいで」

「はい、陛下」

 頷いて近寄る。

 こちらへおいで。はい陛下。

 いつまでもそうやって呼び交わしていたいと願う。

「まず手を。意外に滑るよ」

 伸ばされた掌に指を乗せると、しっかり握って引き寄せられる。湯に踏み込むと、予想以上に熱かった。一瞬怯んだのを気づいて、慣れるまでレダンは待ってくれる。

「熱すぎる?」

「いえ……気持ちいいです」

「そうか、よかった」

 シャルンが遺跡の石畳を踏んで側に寄ると、レダンは手を引きながらもう少し深みへ入っていく。じんわりと熱めの湯が体を包んで行き、心地よさに吐息が溢れる。

 先行くレダンにためらうことなく付き従えば、ふいと振り返られた。

「?」

「あなたは怖くないの?」

「何がでしょうか」

「俺が手を引くままに踏み込んで」

「陛下が導いてくださるのですもの」

 笑いながらシャルンは目を閉じる。

「例えこうしていても、陛下は私を危ない目に合わせるようなことはなさいません」

「俺が深さを読み違えたら?」

「陛下は用心深い方です」

「あなたの足元が滑ったら?」

「陛下が支えて下さいます」

「俺がわざとあなたを深みに誘い込んだら」

「その時は」

 目を開ける。

 レダンの腰あたりの深さでも、シャルンには胸近くまで湯が迫る。じっと見つめるレダンの顔は月明かりを背後に静かで鋭い。

「あなたと一緒に溺れましょう」

「っ」

 レダンが眉を寄せ、切なげに唇を嚙む。だがそれは一瞬、すぐに柔らかく微笑んで、レダンは掠れた声で尋ね直す。

「あなただけを溺れさせるとは考えないのか」

 月がゆっくりと陰る、その薄暗闇の中で問いが届く。

「陛下がそう望まれるなら、私が不要なのでしょう」

 シャルンはまっすぐに見返した。

「でも、その時はきっと陛下が私に教えてくださるはずです、お前は不要だと」

 湯の中にも流れがあるのだろう、ふわりふわりと薄物が巻き上がり揺らめく。

 ですから。

「私が溺れる時には、陛下も溺れるおつもりなのでしょう」

 シャルンは微笑む。

「ならば、私の進む道は一つでございます」

 どこまでもどこまでも。

「私は、お許しある限り、陛下と共に参ります」 

 再び明るい月が湯を照らした。凍れる宮殿が光り輝き、只中に立つレダンを照らす。

 胸が轟くのは湯のせいだろうか、それとも目の前に居る、美しい男のせいだろうか。

「手を、離さないで」

「……わかった」

 約束する。

「あなたは永遠に、俺だけのものだ」

 レダンが静かにシャルンを引き寄せ、シャルンもまたレダンを抱き締め、もう少し深い湯の中へ2人は体を沈めた。

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