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「陛下、あの砦に魔物が棲むのだそうです」
「……」
朝食の席で生真面目にシャルンに切り出されて、レダンは固まった。
「私共が訪れたときにはそんな噂はなかったように思いますのに、なんでも夜じゅう吠える魔物が現れたそうでございます」
「そ、そうか」
なんとなくその『魔物』の正体を知っているような知らないような、いやむしろ詳細に語って欲しくないような気がしたが、シャルンは不思議そうに首を傾げる。
「吠えるだけで、襲っては来ないそうなのですが、ひどく苦しげな声だそうです」
「そ、そうか」
「魔物、というものはハイオルトにはいなかったのですが」
「う、うむ」
「カースウェルにもおりますか」
「ぶっ」
思わず吹き出したレダンに、戸口に控えていたガストが冷ややかな視線を投げてくる。
「い、いや、カースウェルにはいない」
多分な、うん、きっといないぞ。
「ちゅ、注意して見回っておこう」
「はい、ありがとうございます」
にっこり笑うシャルンは、あの夜のことを覚えていない様子だ。
「本日の予定は?」
「はい、今度訪れますザーシャル王国の『宵闇祭り』について、ルッカが色々調べてくれたそうなので、女官達とともに話を聞こうと思います」
「そうか」
レダンは恨めしくガストを見やるが、相手は素知らぬ顔で窓の外を見る。
「いいお天気ですねえ、テラスでお茶をするには絶好です」
「まあ、確かに」
シャルンが嬉しそうに頷いた。
「お茶を頂きながら、ルッカに話を聞くことにいたしましょう。……あの」
ちらりとこちらを見たシャルンの次のことばは予想できる。
「陛下は…」
「…すまない」
レダンは嫌々ながら溜め息をついて続ける。
「今日はどうにも公務が立て込んでいて」
「そう、でございますか」
意識していないのだろう、見る見るしょんぼりしてしまったシャルンに、レダンはもう一度ガストを見るが、相手は早々に侍女にシャルン妃のお茶の準備を進めるように手配している。
お茶は楽しいだろう。珍しい話を聞きながら笑うシャルンは本当に可愛くて、一日中眺めていても飽きないとわかっている。
けれどこの前のラルハイド王国では色々散々な目にあったから、今度は下調べを兼ねてザーシャルに出向いて来るつもりだ。カースウェルではゆっくりと空気が冷えて来るこの季節、北のザーシャルはもう少し早く冷えが来ているだろう。万が一にもシャルンに風邪を引かせるようなことがあってはならない。
「あ、も、申し訳ございません、陛下」
シャルンがはっとしたように気を取り直して、にっこり笑った。
「お早いお帰りをお待ちしております」
「…私はあなたに出かけると伝えただろうか?」
ひやりとして尋ね返すと、瞳が一瞬見開かれた。
「え、でも、あの」
シャルンは戸惑ったように目を泳がせる。
「馬車が準備されておりましたし、いつも結ばれるリボンが紅色ですし」
「あ、ああ」
確かにそう言えば、レダンは巡視などの時には赤系のリボンを使う時が多い。馬車は国境までの足で、そこからは以前の通り徒歩で、馬車の中で着替えを済ませ荷物を手にガストと入り込む予定だが、そんなあたりまで気づいているのだろうか。
「なるほど。あなたは私をよく見ていてくれているのだね」
「…はい」
可愛い。
目元を微かに赤らめてシャルンが頷き、レダンは思わずとろりと和んだ。
幸せだなあ、俺は。
平凡な言葉をしみじみと味わう。
なるほどなあ、最愛の妻が居るということは、これほど別れが虚しく、合わせて帰りを待ち望まれるという温もりを味わえるものなのか。
ああ、本当にもうケダモノに。
「っ、ごほっ!」
「っっ」
いきなり咳き込まれて我に返る。複雑な顔をしているガストに、いろいろ漏れていたかもしれないと顔を引き締める。
「まあ、ガスト、風邪ですか」
「いえ、何やら妙な空気がありましたので、少し」
派手に咳き込んだガストをシャルンが案じる。
「そうですか…陛下と同道されるのでしょう、無理はいけませんよ」
「…」
今度はガストが固まった。