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「では、次なる演習をご覧いただきましょう」
ああ、ひょっとして、あれがまずかったのか。
シャルンはバックルの声に我に返って気がついた。
あの時、王たる者はレダンであったのに、兵はシャルンに礼を捧げた。
それがレダンには不愉快だったのではないか。
「どうぞ、こちらへ」
腕を差し出されてレダンを振り返ったが、相手は藍色の瞳を細めて軍備を見渡しており、シャルンを振り向く様子はない。
「どうぞ」
繰り返し望まれて、シャルンは仕方なくバックルの腕に手を掛ける。確かに高台からの階段は、いくらひだを控えフリルを削り、しっかりした生地で細身に仕立てたとはいえ、ドレスを引いて一人で降りるのは難しい。それすらも気にしてくれていないようなレダンに、シャルンは胸が痛む。
もう一度、出戻り姫と呼ばれるのかしら。
もう二度と、レダンに笑いかけてもらうことはないのかしら。
ラルハイドに嫁いだ時には失うことなど構わないとすぐにできた決断が、今この時にはこれほど難しい。
それでも、レダンが望まないなら。
媚薬の瓶が頭を掠める。
あんなものを使わないで良かったのかもしれない。
だから、どこかに消え失せてしまったのかも知れない。
バックルの手を借りて、馬車に乗る。
むっつりと黙ったままのレダンが後から乗り込み、何を思ったのか、引き損ねて座席に広がっていたシャルンのドレスの片端に腰を下ろす。
「あ、の」
「参ります」
御者の声に動き出しても、シャルンを振り向こうとしない。
「あの、陛下」
ドレスを押さえつけられて、ただでさえ細身のドレスで身動き取れないものを、一層動けなくなってシャルンは困る。第一、ドレスの上に座っているのにレダンが気づかないとは思えないから、二重に困る。
これはきっと意図的なものだ。
けれど、意地悪をされる理由がわからない。
「陛下」
「シャルン」
口を開くと同時に相手が呼びかけてきて固まった。
「はい」
「…これを知っているか」
窓の外を向いたまま、レダンが何かを差し出してきた。
「何でございま……」
レダンが突き出しているのは、あの媚薬の小瓶だ。
「これ、は…」
「あなたの部屋で見つけた」
ぼそりと不穏な空気を滲ませてレダンが唸る。
「枕元に、大事そうに、今にも使いたそうに」
お部屋に入られたのですか、いつ入られたのですか。
そういう質問はシャルンの口で淡雪のように溶ける。
当たり前だろう、城はレダンのもので、いつどこに入ろうと断りが必要になるはずもない。
「あなたのものか」
「…はい…」
消え失せたい。
今すぐここから消えてしまいたい。
シャルンは俯く。
媚薬を渡された夜、苦しんでいるレダンをよそに、不謹慎な熱に揺れた自分が蘇る。
なんてはしたない。
なんてみっともない。
「なぜ?」
「……」
侍女が渡してくれました。
そう言えばいいとルッカは言ったが、これほど不機嫌なレダンは初めてで、ルッカに何か咎めが及んでしまうかも知れない。
「どうやって?」
必死に頭を絞った。ハイオルトから持ち込んできたなどとはとんでもない。誰かからもらったと言うわけにもいかない、その者を追及されてしまう。可能性があって、誰にも被害が及ばない方法は何か。
「…買い、求めました」
「っ」
がたっ、とレダンが体を揺らせた。思わずと言った様子で強く握りしめた小瓶、だが依然シャルンに突き出してそっぽを向いたまま、かすれた声で尋ねてくる。
「これは何か」
「……」
「答えられないものか」
「………」
「人の心身を傷つけるものか」
「違います!」
問われた内容にひやりとして言い返す。
「麻薬などではありません!」
「…麻薬を知っているのか」
「あ…」
露呈する。
シャルンが無邪気な姫ではないと言うことが。5回も出戻った、その姫が無垢なわけではないと嘲笑うように。
「……ハイオルト、にも、そう言う、輩が、おりました…」
もう聞いてももらえないかも知れないけれど、シャルンは口を開く。
「貧しさは……時に…闇を…呼びます…」
沈黙が漂う。
がたがたと砦への道をバックルの馬車に続いて走る音だけが響く。
「……ふう」
やがてレダンが息を吐き出した。
「……俺も、知ってる」
先ほどまでとは違って静かな声、けれどシャルンは小さく震えた。
「傷みをごまかさなくてはならない場合も、あることも」
視界が揺らいだ。
レダンの声に広がった哀れみに、胸が詰まった。
哀れみは哀れみだ。
愛情、ではない。
「…これを返す」
レダンは振り向かないまま、ぽとりとシャルンの膝に小瓶を落とした。
「あなたのものだと言うのだから」
「……」
シャルンは落とされた小瓶を静かに両手で包み込んだ。




