綾女詩莉
綾女詩莉さんのことは、正直あまり深く考えたくはない。
蓮さんに負けず劣らずの美人、美少女であることは間違いない。二人が並べば、どんなに綺麗な花でも恥じ入ってその花弁を散らすことだろう。
ただし、の注釈が付くが。
この一月で、その評価は地に落ちた。隠れていた本性が現れたともいう。
あるいは、新たな扉が開かれた。
悩ましいことに、その原因は俺にあるというのが周囲の認識である。否定はできないが。
現在の詩莉さんには、決してその口を開かせてはならない。一瞬で外側の華美な装飾が崩れ、ボロが出る。勝手に喋るので無理だけど。
新たな異名、汎用型十八禁は伊達ではない。性癖の東○ハンズなんてのもあったか。とにかく口を開けば次々と出てくる放送禁止用語に、御門学園生徒は彼女をこう再認識した。
すなわち、残念すぎる美人、と。
清楚で可憐な彼女はもうどこにもいない。どうしてこうなった、と嘆く男の多いこと多いこと。
正に百年の恋も冷めるとは、このことであろう。それでも構わないという中西のような男もいるので、ごく一部には需要が残っているようだったが。
俺も尻だけなら、何の文句もなくばっちこいである。
その嗜好形成に少なくない割合で関わってしまった俺としては、頭の痛い問題だ。
ああ、早く真人間にしてあげたい。
手遅れ感が半端ないが。
詩莉さんとの出会いもまた、あまり思い出したくはない。
その日俺は、高等部の中庭にて数少ない友人たる前澤、中西と、くだらない会話の流れからくだらない遊びに興じていた。
詳細はすでに覚えていないが、尻派の俺と胸派の前澤、中西による女体議論から、どう派生したのか尻を制する者は女体を制すという話になり。
なれば我らの尻をまずは制してみせよというよくわからない論法が成り立ち、尻合戦が始まった。
アホらしいが、組み合わせた人差し指による一撃を決めた者が勝者という、バトルロワイアルである。
俺は巧みに位置取りをしながら奴らの尻を狙った。
中腰でやけに素早く動き回る俺たちの姿は、側から見ればさぞかし異様な光景に映ったことだろう。
三枝山バスケで培った技術を駆使し、無駄に高度な視線誘導やフェイントを重ねながら、俺は好機を待った。
そこに偶然現れた女生徒に、一瞬意識を取られる中西。
その巨大な胸部装甲に視線が吸い寄せられたのは、明白であった。俺はチャンスを逃さない男。
すかさず中西の背後に忍び寄り、裂帛の気合いを込めて組んだ人差し指を突き上げる。
ここに至って中西も自分のミスに気づいたようだが、もう遅い。しばらくは産みの苦しみを味わう生活を続けるがいい。
しかしここで中西は、禁じ手に出た。この男、実のところ前澤同様に、レアな存在である男のギフテッドであった。
そのギフトは、発動型<置換>。任意の二つの対象の位置を瞬時に入れ替えることができる、移動系の技能だ。
ギフトの行使により中西の姿が掻き消え、代わりに現れたのは、先ほどまで奴の視界にあった人物——例の巨乳さんだ。
「え?」
急に移り変わった視界に、彼女の困惑の声が響く。
そこにタイミング良く、一陣の風が吹き、ふわりとスカートが舞った。
連携がばっちりだったが、前澤よ。何故今ギフトを使った?
その奥から覗くのは、大胆なことに薄桃色のTバックに包まれた形の良い大きな尻だ。サイズは八十八。いい尻だった。
そして今、その下着の形状はとてもまずい。
チャージした俺の指は止まらない。ずぶりという柔肉を広げる感触とともに、俺の全力の一撃はその菊門へと無慈悲に突き刺さった。
何しろ防ぐ布地がほとんどない。根元まで一気にいった。いや逝った。
アーーッ! である。
「はふぅーーッ!」
アーーッではなかったが、およそ年頃の娘さんには似つかわしくない叫びが周囲に木霊する。巨乳さんは、尻を丸出しにした格好で四つん這いに崩れ落ちた。
流れ出る脂汗を止められない。
うん、やばいな、これ。
巨乳さんはピクピクと痙攣している。恐る恐るその大きな尻を視界に映すと、やはり感触どおり、俺のダブルフィンガーはその全てが彼女の中に埋没していた。
圧迫感が凄い。やはり尻は締まりが違うな——ってそうじゃなくて。
ええっと……これ、引き抜いてもいいものだろうか?
助けを求めて周囲を見回すが、すでに中西と前澤の姿はそこにはなかった。代わりに何故か、中庭の入口に設置されているはずのラッパを吹く天使の彫像が二体、ちょこんと鎮座している。
——あの馬鹿ども、逃げやがった……!
「……んっ……あ、はっ」
巨乳さんが身じろぐ。なんか声がエロいな。
いや、そんなことを考えている場合ではないんだが。
「痛い……です……」
巨乳さんの潤んだ瞳が俺を向く。
どうやら、何とか意識は保っているようだ。
大惨事だが、まだ狙いが逸れて膜を貫かなかっただけ、マシなのかもしれない。そんな事態になっていれば、俺は文字どおり彼女の心と体を傷物にしたという十字架を、一生背負わなければいけなかっただろう。
あ、でも蓮さんなら……膜の再生とか、できるんだろうか?
できたとしても、構図が滅茶苦茶エロいな。
いやアホなこと考えてないで、まずは謝罪だ。
依然、インフィンガーなので、大層シュールな光景ではあったが。
「あの、ほんとにすみませ——」
「でも……気持ち、いい……」
思わずアウトフィンガーして、俺は後ずさった。
予想だにしていなかった反応に、言い知れない悪寒と本能的な危険を感じ、咄嗟に身体が動いてしまった。
よく見ると、巨乳さんの表情は危ない感じに惚けており、吐息が夜道に現れるオンリーコートのおじさんの如く荒々しい。
いわゆるハァハァ状態である。
「んっ、抜かないで……」
そのセリフはやんごとなき時と場所で聞きたかった!
混乱する思考を必死に紡ぎ、俺は言葉を探す。
「待って。大丈夫だから。膜は大丈夫だから!」
俺が大丈夫じゃなかった。
「膜でもいいですからぁ……」
彼女はもっと大丈夫じゃなかった!
「ね、お願いします……後生ですからぁ……」
四つん這いのままにじり寄る巨乳さんと、それに合わせて後ずさる俺。彼女の短いスカートの内股からは、ふとももにかけて一筋の赤い軌跡が伝っていた。
何だ? いつから俺はホラー映画の世界に入り込んだんだ?
混迷極まる状況に、思考の整理ができない。
そのまま二歩三歩と後ずさると、どんっ、と背中に何か硬い感触が伝わる。
振り返ると、二体の天使がドヤ顔で、ちょうど俺の退路を妨害していた。——中西ィィィィィィッ!
再び視線を戻した時にはもう遅い。がばっと巨乳さんが俺の腰に飛びつき、その重みに芝生の上に打ち倒される。
腹の上に、ほぼ生身の柔らかな尻の感触。
滴る赤い液体が、ぬめりと俺の服を汚す。
完全にマウントを取られていた。
巨乳さんの瞳が蠱惑的に輝き、その熱く荒い吐息が、俺の耳に吹きかけられる。
「続き……しましょ?」
「うわあああああああああああっ!」
「……あんた、何してんの?」
がさりと芝生を踏む音と、聞き慣れた呆れたような声。
視線を上げると、見慣れた幼馴染の半眼が、あほぅとでも言うように俺を見下ろしていた。
——この時ばかりは、紫月の存在が女神に等しく思えたのだった。
その後。
紫月に何とか巨乳さんを剥がしてもらい、兎にも角にもまずは治療を、と蓮さんに連絡。
保健室に移動し、治療が行われた。
なお、移動に際しては姫だっこが要求された。もちろん、俺に断ることなどできなかった。
保健室の外で待機していると、治療の終わった蓮さんが赤い顔をして出てきた。
「女の子のお尻のあれを触ったのは初めてです……」
頭の下がる思いである。
それではまた、と蓮さんは去っていった。委員会の途中だったのを、わざわざ来てもらったのだ。今度何かお礼をしなければな……。
ちなみに後日聞いたところによると、膜の再生は蓮さんがそれを傷と認識している場合なら、おそらくできるとのこと。つまり今回のような場合ならおっけーだが、性交渉の場合は難しいようだ。子持ち(処女)の実現とはならなかった。
保健室の引き戸をノックしてから、紫月の返事を待って中に入る。
「えーと。大丈夫ですか?」
ベッドに腰掛ける綾女さん——移動中に簡単な自己紹介と、状況説明は済ませていた——におずおずと声をかける。
「あ、はい。もう痛くありません。むしろちょっと残念です」
「そうですか、それは良かった」
後半部分はスルーである。二重の意味で、もう突っ込んではいけない。
「あの、冬馬様?」
敬称がおかしい綾女さん。先ほどの移動中からそうだ。
紫月の視線が痛い。あんたいったい何したのよ、と問いかけてくるが、それは俺が知りたい。
どうしてこうなった?
そこに至る筋道に理解が及ぶかは別として、思い当たる節は一つしかなかったが。
「なんでしょうか、綾女さん」
「それです。ダメですよ」
「ダメ?」
「はい。私のことは、詩莉と呼び捨ててください。あと、敬語も不要です」
「いや、そういうわけには……」
蓮さんにも同じようなことを言われたが、彼女の時は「何だか距離感を感じてしまいます」と切なげに言われたため、了承してしまった。
しかし綾女さんからは、何だろう、とても不穏な気配を感じてしまう。ここは断固として拒否するべきだと、俺は意志を固くする。
「あっ、まだ何か、お尻に異物感が……」
「わかりました! いやわかった! でもせめて詩莉さん! 詩莉さんで!」
固いはずの意思はあっさりと砕け散った。
残念なんじゃなかったのかよ……ああいや、突っ込んではいけない。
「仕方ありませんね、今はそれで妥協しましょう」
不承不承ながら、何とか綾女さん——いや詩莉さんは納得してくれたようだ。流石に上級生を呼び捨ては、オラオラしいにもほどがある。
「あと、できればその様付けもやめてほしいんだが……」
「それはできません」
きっぱりと拒否を示す詩莉さん。表向きの言葉遣いと実際の決定権が、完全に逆転していた。
こう、秘密の関係を持ってしまったメイドさんと、それを盾にされて抗えない主人、みたいな。
「私の初めてを捧げた殿方なのですから、敬意を持ってお呼びするのは当然です」
ドヤ顔でそう言う詩莉さん。どこかの箱入りさんなのだろうか、この人は。
しかしその論法が尻に適用されるのはどうなのか。あったとしても、膜に限られた話なんじゃ——あ、まずい、読み取られた。
「では今すぐ膜を——」
「わかった、わかったからスカートめくらないで!」
下に手をかける詩莉さんを、慌てて制止する。
こんなにスカートの中が見たくないと思ったのは初めてであった。恐ろしい人である。
そんな俺たちを横目に、紫月が面倒そうにスマホの操作を始める。おそらく連絡先やグループラインの準備だろう。いつもの事務作業だ。
やはり、詩莉さんのハーレム入りは避けられない流れらしい。
これで今回は五人、歴代最多記録の更新である。
——ともあれ。
こうして俺は、詩莉さんと出会ったのだった。
しかし、尻から始まるボーイミーツガールとは、また俺らしいというか何というか。
少なくとも、彼女の尻とは違い、締まらないのだけは確かだった。
「どうかされましたか、冬馬様?」
詩莉さんの心配そうな声に、俺ははっと意識を戻す。どうやら短くない時間、回想に耽っていたようだ。
何でもない、と答え、やけに高級そうなカップに注がれた紅茶で喉を潤す。
あいにく茶葉の良し悪しには明るくなかったが、鼻腔を抜ける香気はこれまたお高そうな、微かな甘みを感じるものだった。マスカットが近いかもしれない。
均一に整備された緑の生い茂る広い庭には、白で統一された細かな意匠の施されたテーブルセット。その上に紅茶とスコーンやクッキー、ジャムなどの菓子を挟んで、俺と詩莉さんは優雅なティータイムと洒落込んでいた。
視線を横に向けると、こちらも白を基調とした厳かな造りの邸宅が目に入る。どこぞの西洋の貴族でも住んでいそうな佇まいに、俺はただただ感嘆の声を漏らすばかりだ。
本日の放課後は、詩莉さんとのデート。
この豪勢なお住まいは、彼女のご自宅であった。
所在地はわからない。校門で詩莉さんと待機していると、五分と経たずに現れた黒塗りの高級車に拉致されたからだ。
三十分は乗っていないはずなので、べらぼうに遠い場所ではないと思うが。
一応、ある程度の資産家であることは聞いてはいたのだが。この人、本当にどこぞのお嬢様であるらしい。
うちの庭が猫の額だとすれば、いったいここには何匹の猫が寝そべっていることやら。そのだだっ広い庭に、人の影は俺と詩莉さんの二人だけだった。
いや、先ほど彼女が何かを呟くと、すかさずミニスカのメイドさんが現れたので、どこか視界に映らない場所で待機しているのだろう。
リアルメイドさんの仕事ぶりは完璧で、やはり喫茶店のコスプレとは比べるべくもない。
ミニスカは詩莉さんの指定らしい。「このほうが可愛らしいでしょう?」との意見には、全面的に賛成である。ニーハイソックスとガーターまで完備してあるのが素晴らしかった。
なお、ここまでの運転手もこのメイドさん——亜衣里さんというらしい——である。
二十代半ばほどの、キリッとした知的な美人さんだ。エプロンの付いたミニスカから覗く細い足が眩しく、揺れをほとんど感じさせない運転からは、高い技術が窺えた。有能な人なのだろう。
運転中、アクセルかブレーキに位置を交換してほしいと思ったのは内緒である。
「ちょっと、詩莉さんと出会った時のことを思い出してたんだ」
「まあ」
述懐を告げると、詩莉さんは何故か頰を赤らめた。
「私と冬馬様が、初めて合体した時のことですね!」
「言いかたァ!」
思わず強めの突っ込みを入れる。あのパイルダーオン事件は、できることならなかったことにしたい記憶ナンバーワンである。
「まったく。詩莉さんはどこでどう繋がるかわからないから、突っ込みが大変だよ……」
「そんな冬馬様、色々突っ込みたいだなんて……いくら私でも、四つまでが限界ですよ?」
ますます赤くなり、頰に手を添える詩莉さん。
そんなことは言っていない。ほんとにどういう思考回路をしているんだろうか、この人は。
そして四つめは、いったいどこに入れるつもりなんだ……。
と、俺の疑問を察したのか、詩莉さんが言葉を続ける。
「もちろん、お尻に二——」
「だーー!」
言わせねぇー! 確かに実績はありますがぁ!
叩けば治るだろうか、何か叩くものは——
「四条様、こちらを」
いつの間にやら隣に現れた亜衣里さんが、大きな紙製のハリセンを手渡してくる。
え、いいの? 主人じゃないの? まぁいいか。
俺はハリセンを受け取ると、少々強めに詩莉さんの頭をばしっと叩く。
「あん、痛い……もっと」
悪化してるじゃねーかよぉ! ってか俺もこの展開は読めたはずだろうがよぉ!
「ふぅ、流石は亜衣里……私の気持ちをよく理解していますね……」
ハァハァしながらそう言う詩莉さん。
「はっ、恐縮です。お嬢様の喜びが私の喜びなれば」
え、そこまで見越した上での連携だったわけ?
何この人たち、怖い……。
「さあ四条様、もう一発」
「いや、やらないからね?」
にべもなくハリセンを返却する。
詩莉さんは至極残念そうな顔だ。
ほんとにどうしてこうなった……?
例の事件ののち、やはりギフテッドであることが判明した詩莉さんであるが。
そのギフトは発動型<変換>。自身や他者にかかる効果を、任意に別の効果へと置き変えることができるという、少々複雑なものだ。
どんな状況からそんなギフトが発現したのか、さりげなく聞いてみたところ、詩莉さんはあっさりと答えてくれた。
「少々、お父様が困った方でして……」
エピソードとしてはまぁ、よくある話ではあった。
仕事で忙しく国内外を飛び回る詩莉さんの母親に代わり、主夫業を営んでいた父親だったが。
いつの日からか、詩莉さんに暴力を振るうようになったのだという。
一般家庭とは異なる立場、炊事や洗濯、掃除をして過ごす生活に、嫌気が指したのか。稼ぎのない状況に自尊心が傷つけられたのか。
なかなか家に帰れない母親の目が届かぬところで、日に日に暴力は増していった。もちろん、外からはわからぬよう、衣服に隠れる箇所に限られて。
亜衣里さんたちも、段々と元気のなくなる詩莉さんに、薄々おかしいとは感じていたようだが。一応は主人である父親に、面と向かって問いかけることはできなかった。
そしてある日、振るわれた拳に詩莉さんはバランスを崩し、調度品の角に頭をぶつけてしまう。
朦朧とする意識に、忍び寄る死の気配。抵抗できない自分。
ああ、ならばせめて、と。
詩莉さんは願い、祈りを捧げた。
この耐え難い痛みだけは、何か別のものにしてほしい、と。
そうして。
願いは叶う。祈りが届く。
淡い光がその身を包み、しばらくして収まると。
彼女の黒い髪と瞳は、その色合いを変えていた。
鈍く感じていた痛みは嘘のように消え、代わりに感じたのは——圧倒的な快楽。
沈痛していた表情は恍惚としたものに変わり、押し寄せる快楽の波が全身を弛緩させる。……まぁ、その、何だ。
盛大に、お逝きになった。
突然の異常事態に父親は腰を抜かし、奇声を上げながら、這いつくばって部屋から逃げ出す。
その様に流石に異変を感じた亜衣里さんたちは、父親から決して入るなと厳命されていた部屋に突入し。
大変な状態になった、詩莉さんを見つけるのだった。
詩莉さんの外傷は、頭部に付着していた血液以外、きっぱりと消え失せていた。
彼女の感じるところによると、「肉体に与えられるダメージ」という効果を「快楽」に<変換>したため、そのダメージの原因たる傷もなくなったのだろう、とのことだ。
ただ「痛み」を<変換>しただけでは、痛くなくなるだけで肉体の損傷までは防げない、いわゆるスーパーアーマー状態になるのだろう。
認識の違いが効力に変化を及ぼす、ギフト行使の例といえた。
これにより明るみになった父親の所業に、詩莉さんの母親は即離婚を言い渡した。
もともと情愛はさほど無く、仕事上の付き合いから、世間体のために為された婚姻関係であったという。
収入も充分あり、それでも娘には父親も必要だろうと、家に置いて家事をさせていたのだが、それが害にしかならないのなら養ってやる理由もなく。
幾ばくかの手切れ金を掴ませ、文字どおり放り出したのだそうだ。その後の消息は誰も知らないらしい。
まぁ、そんなわけで。
下地はすでに、出来上がっていたのだ。
その扉が、俺のダブルフィンガーによってこじ開けられ。
完全に、覚醒してしまった次第である。
「それまでの私は、痛みから逃れようとするばかりでした。お恥ずかしい話です」
悔やむように述懐する詩莉さん。
いや、それでいいと思うんだけどね。今の状態のほうが恥ずかしいからね?
「でも、冬馬様の愛の鞭により、私は悟りました。痛みとは、耐えるものでも逃れるものでもなく、受け入れるものなのだと!」
うん、もうね、ギフトいらないじゃんね?
神よ、貴方の救いはどうやら必要ないみたいですよ? むしろ俺を救ってください。
「お嬢様、成長なされて……」
亜衣里さん、そこ涙ぐむところじゃないからね?
ドの付く変態がここに生まれただけだからね?
「というわけで、冬馬様」
荒い息を隠そうともせず、詩莉さんがにじり寄ってくる。いつものことだが、彼女と過ごすとやはり最後はこの展開になるのか。
「ベッドの準備はできております。さあ、今日こそは
真なる愛の合体を!」
「ごめん、急用を思い出した! それはまた今度で!」
「お尻にしますか? それとも膜にしますか?」
「それじゃ!」
しゅたっと手を挙げ、恐ろしいセリフを背に一目散にその場を逃げ出す。捕まったら最後である。
ただひとつ、忘れていたのだが。
この邸宅が地理的にどこに存在するのか、俺にはまったくわからないのだった。
散々に迷い、夜半に差しかかったころ。
ようやく最寄りの駅を見つけ、俺は帰途に着けたのだった。
——これがおそらくは毎週、続く。
その現実の重さに、俺は深くため息を吐くのだった。