ただ――
「ここで少し待っていて」
そう早霧さんに告げて、二階に上る。一段一段、ゆっくりと。一歩一歩、踏み締めて。これから歩む道と、あたしの決意を確かめるように。
そして、すぐに冬馬の部屋の前まで来る。扉の脇に置かれた食器。朝作った親子丼は、四分の一ほど手がつけられていた。いつもよりは食べてくれただろうか。
「冬馬」
扉越しに声をかける。気配が伝わる。冬馬はそこにいる。
「またこんなに残して。ちゃんと食べなきゃ駄目じゃない」
「……悪い」
「おいしかった?」
「……ああ」
掠れた声が返ってくる。ひと言二言だが、ここ最近、ようやく冬馬は会話をしてくれるようになった。
あともう少しで、その傷は癒えるだろうと思えた。閉じ籠もったひとりの世界から、こちら側に戻ってこれる。何か、きっかけのようなものがあれば。
ゆっくりとその時を待ちたかった。でもこうなった以上、もう時間をかけるわけにはいかない。今だ。今ここで呼び戻さなければ、冬馬はあの女に無理矢理連れ出され、二度と自分の足で立てなくなる。心を喪う。
それだけは、絶対に避けなければならない。
そんなことになるぐらいなら。あんな奴らにいいように利用されて、冬馬を壊されるぐらいなら。
あたしが自らの手で壊した方が、何倍もマシだ。
だから、今から。
あたしは、冬馬の心に踏み込む。
「ねぇ、冬馬」
扉に背を凭れさせて座り込む。見上げる壁の隅には薄っすらと埃が蔓延っている。六花さんがいなくなってから、それだけの時間が経過していた。
「随分時間が経ったわ。あたしは少し背が伸びて、今のクラスでは女子の中で後ろから二番目になったの。冬華なんてもっとすごいわ。どんどん大きくなる。あの子ももうすぐ中学に上がるし、たぶん、来年には抜かれちゃうんじゃないかしら」
いつものように語りかける。他愛のない話をして、たまに返事が返ってくる。あの日からの、あたしの日課だった。
「あの子、綺麗になったわ。前からだったけど、最近特に六花さんに似てきた。この間なんか、ラブレター貰ってきてたわ。読まずに捨てようとするから、せめて読んでからにしなさいって言っておいたけど」
まぁ、あたしも人のことは言えない。以前、同じことを六花さんに言われたのだ。
「受け売りだけどね。「受け入れるかどうかは別として、人が人を思う言葉は全て尊いものよ。きちんと読んで、答えを返してあげなさい。それはきっと、あなたの心の糧になる。そうしなければ、いずれ自分の番がきたときに、あなたは自分の心を信じられなくなるわ」って。そう、六花さんは言っていたわ」
「…………」
返事はない。でも、扉越しに背中に気配を感じた。
あたしの言葉を、冬馬はきちんと聞いている。
「冬華、あんたと話す時は気丈に振る舞ってるけど。たまに泣いてるわ。兄さんに会いたいって。顔が見たいって。ちゃんと食べてないから心配だって。ねえ、知ってる? 昨日の卵焼きは、あの子が作ったのよ? あんたのために、少しでも何かがしたいって。ねぇ、あの子はまだ小学生なのよ? 六花さんを失って悲しんでいるのは、あんただけじゃないの。あたしたちと同じぐらい、冬華は大人びているけど。そんなことおくびにも出さないけど。あの子にはあんたが必要なの。妹にそんな思いをさせて、それなのに、あんたはいったいいつまでそこに閉じ籠もっているつもり?」
「…………怖いんだよ」
震えた声は、思ったよりも近くから響いた。冬馬はすぐそこにいた。たぶん、あたしと同じように、扉に背中を預けさせて。
この、扉一枚。
それが今の、あたしと冬馬の距離だった。
「わかってるよ。千影たちや母さんと違って、たぶんお前や冬華はあんなことにはならない。彼女たちはギフテッドだった。それが条件のひとつだってことは、わかってるんだ。……でも、もしお前たちが、あんなことになってしまったら。お前たちまで失ってしまったら。足が竦むんだ。震えが止まらないんだ。俺はもう、誰も失いたくないんだよ……」
やはり。
冬馬はもう、ほとんど立ち直っている。自分の心の整理はできている。その根底にあるのは、あたしたちへの思いだ。どこまでもお人好しなあいつは、自分が壊れることよりも、あたしたちを壊してしまうことを憂いでいる。
蒼さんに協力してもらって、彼女たちの過去は調べてあった。浮かび上がった共通点は、「死に関する思い」でもってギフトを発現したということ。それに当てはまらないあたしたちが、冬馬のギフトに囚われることはない。冬馬もなんとなく、その憶測はついているのだろうが。
必要なのは確証だ。絶対に壊れない、狂わないという担保。目に見えてわかる、確かな証を示すこと。
「大丈夫よ」
だったら。
あたしのやることは決まっている。
「心配しないで。あたしなら大丈夫。今から、それを見せてあげるわ」
目を瞑って、自分の内側に意識を向ける。心を探る。
そう、だったら。
それを直接、この上なくわかるように、見せつけてやればいい。
心の奥の、そのいちばん深いところに潜る。装飾や虚栄を取り除いた、あたしの真実の思い。願い。祈り。最奥の感情。手を伸ばして、それにしっかりと触れる。
理屈ではなく。あたしにはできる、と思えた。
願えば叶うのがわかった。
祈れば届くのがわかった。
だから、あとは。
それを、言葉にするだけだ。
あたしの願いはなんだ?
この扉を越えること?
いや、違う。それはただの前提だ。それも含めて。
あたしは、冬馬の隣りにいたい。たぶんこれからも、冬馬の身には様々な災難が降りかかる。ともすれば危険が伴う。何があっても、誰が邪魔をしても、あたしはそこにいたい。
冬馬の心に。鼓動に。心臓に。
いちばん近い場所に、あたしは寄り添う。
願いの言葉を思い浮かべる。
そう、あたしは。
あたしは、ただ――
〈ただ、貴方の傍に〉
眩いほどの光が、あたしを内側から包んだ。
瞼を開く。理解する。
今ここに、世界はあたしの願いを受容した。
「……紫月? いったい、何が――」
「……ちょっと、離れていて」
そう、冬馬に告げて。
イメージする。冬馬の隣りにいる自分を。そうすれば。
一瞬の内に、あたしの視界は移り変わっていた。
「うおっ、なっ、おま、し、紫月……!?」
驚いた声。扉越しではない、冬馬の肉声。
ぼさぼさに伸びきった髪。
痩せこけた頬。
記憶にある姿からは、ずいぶん変わり果ててしまったけど。
確かにそいつは、冬馬だった。
「久しぶりね」
「……しづ、き……なのか? どうやって……いや、それよりもお前、その髪は……それに目も」
言われて、部屋の隅にある姿見で自分を検める。
雪のように真っ白な髪と、深い赤色の瞳。それはどことなく、あたしの部屋に置いてあるぬいぐるみたちを連想させた。
「大したことじゃないわ」
「あるだろ。なんでそんなイメチェンして……って」
色彩の変化。その理由に思い至った冬馬がじりじりと後退る。
「ギフテッド……いつの間に」
「今よ。たった今。あんたがいつまで経っても引き篭もってるから、いい加減頭にきたのよ」
本当の理由は隠しておいた。少なくとも今はまだ、冬馬には知らせないほうがいいと思えた。変に勘違いされると、こいつはまたあたしから距離を取ってしまう。
「これで証明になったでしょ? ギフテッドになっても、あたしはあんたに変な感情を持ってはいない。あたしは、あの子たちとは違う」
「でも……」
「まだ怖いの?」
返答は、微妙に引き攣った顔に表れていた。まだ足りない。あと一押し。燻った感情を吹き飛ばす、強烈なインパクトを与えられれば――。
「……む」
天啓が舞い降りる。いや、これは啓示と呼んでもいいものなのか。
ふと頭に過ったそれは、あまりに下らない案であった。だがよくよく考えるに――こと冬馬に対しては、効果は覿面であるように思えた。間違いなく。確実に。
ため息をひとつ。仕方ない。
ああ、まったく。
なんで、あたしがこんなことを……。
「お、おい、何を――」
狼狽する冬馬の腕を、がしりと掴んで。
くるりと、背中を向けて。
顔から火が出そうになるのを、必死に抑えて。
あたしはその、骨張った手を。
「触りなさい」
スカートを捲った自分のお尻に、しっかりと押し付けた。
今日の下着はなんだったか――ああ、よりにもよって一面フロリダホワイトのバックプリントだ。まぁ、他のも似たりよったりなのだけど。
「……は? いや、おま、ちょ――はぁ?」
「いいから。黙って触る!」
「ハ、ハイ」
始めは恐る恐る。
「あ、あ……」
次第に無遠慮に。もぞもぞと、あたしのお尻が撫で回される。
「お、お、あ、これは……」
それは冬馬が、世界との繋がりを取り戻す儀式のようであった。
……傍目には、たいそうシュールな光景だったが。
「柔らかい……」
「……もう、いいかしら?」
流石に羞恥を抑えきれなくなって、そう冬馬に尋ねるが。
冬馬は目を血走らせ、荒い息を吐きながら、ただただあたしのお尻を揉みしだいていた。駄目だ。全然聞こえてない。
と、そのまま流れるような動作で、あたしのパンツがずるりと下げられる。外気がひやりと素肌を撫で、ぞくりとした感覚が体を震わせる。
「こら、ちょっと! そこまでは許してないわよ!」
「ハァ、ハァ、尻、尻ィィィ――!」
「こ――んの、調子に乗るな、どあほぅがぁぁぁぁーーーっ!!」
「ぼごぉぉぉっ!」
振り向きざまに、冬馬の顔面に遠心力を加えたニーキック。変な呻きを上げながら仰向けに倒れるその腹に、勢いを殺さずニースタンプ。そのまま、げしげしと踏みつけで追撃する。やっぱりこいつは、外に出さずにここで殺しておいた方が世のためかもしれない。
ひとしきり、息が途切れるまで冬馬を蹴り続ける。
そして気づいた時には、冬馬は既に意識を失っていて。
でもその顔は、何かをやり遂げたように晴れやかとしていた。
そうして。
なんとも締まらないオチではあったけど。
あたしは冬馬を、現実世界に連れ戻したのであった。




