それで終幕でも
そうして、事態は終わりを迎えた。迎えてしまった。
今回も俺は、辛うじて生き延びることができた。九回目のデッドハーレム。
かつてない規模の学園で、かつてない驚異に晒された。なんとか五体満足で終えることができたのは、ほとんど奇跡に近い。
終わってみれば、それはたった三ヶ月の間のできごとだった。もっとずっと長い時間、俺は彼女たちと過ごしていた気がする。
それだけ彼女たちと深く接していたのだろう。思えば今回は、初めてのことばかりであった。
ランチタイムに物量攻めに遭って。
ひとりひとりとデートを重ねて。
彼女たちのことを、きちんと知ろうとして。
心の隙間を、埋めてもらって。
そして。
失って。失って。失って。
今日、この日を迎えた。
ひとつの季節が終わる間に、ずいぶんと遠くまで来てしまったように思う。こんなところに辿り着くなんて、三ヶ月前の俺は思いもしなかった。
もし、過去にメールを送ることができたとしても、きっと過去の俺はこんな未来が来ることを信じないだろう。それほどに濃密で荒唐無稽な時間の中に、俺たちはいた。
カーテンと窓を開け放ち、柔らかな風を室内に呼び込む。真っ白な部屋の窓から覗く景色は、前回までと同じようでいて、まったく違うものに感じられた。
そう。俺はまた、この白い部屋に戻ってきてしまった。
真っ白な病院の、真っ白な病室。五一八号室。三年間足繁く通い、そしてもう来るはずのなかった場所。
全てが白かった。そこに眠る少女すらも。
白い髪に、白い肌。その瞳はあれからずっと閉じられたままだ。だから錯覚する。瞳の色だけが違う、いなくなってしまった彼女と。
先日までの千影と同じように、紫月はそこに眠っていた。
「冬馬」
あの夜。全てが終わり、茫然自失としていた俺に、誰かが声をかけてきた。
親父だった。今思えば、不自然に人通りのなかった周囲の状況は、やはり祝福省によって整えられていたのだろう。親父が何をどこまで知っていたのかはわからなかったが、とにかく監視役らしき者から連絡が行って、あの場所に現れたのだ。
でも、その時の俺は、何も考えることができなかった。横たわる二人の少女を前に、ただただ虚無感に支配されていた。
「まずは休め。後のことは寝てから考えろ」
そう言われたのを最後に、俺は意識を失った。自ら闇に沈んだのか、親父の〈停滞〉で意識を止められたのかはわからないが。どちらにせよ大した違いはない。
それから丸一日以上、俺は眠った。夢は見なかった。整理すべき情報は山ほどあったが、それ以上に心が疲弊していたのであろう。正しく正体のない妖怪のように、俺は闇の中を漂った。
目覚めた俺が階下のリビングに降りると、テーブルの上には出来合いの惣菜やパンとともに、伝言ウサギが置かれていた。
そこに書かれた二つの数字。五一七と五一八。それだけで俺は全てを理解した。
食欲はなかったが、エネルギーは取らねばなるまいと用意されていた物で適当に食事をする。可もなく不可もない味。味覚は正常に機能していたが。
紫月の作った卵焼きが、俺は無性に食べたかった。
そうして訪れたこの病室。紫月が目を覚ます気配はない。
隣りの五一七号室には、朱里がいた。同じように、意識を深く沈ませて。
眠る二人の少女。朱里が何をどこまで壊したのかはわからない。自意識か。それとも人格か。まったく動かないのか。千影のように、生理的な行動は取るのか。馴染みの看護師さんの話では、まだ一度も起き上がってはいないようだが。
白い髪にそっと触れて、手櫛でさらりと梳き流す。ふわりと柔らかな匂いが鼻腔をくすぐる。紫月の匂いだ。俺にとっての日常の香り。
反応はない。よもや狸寝入りでもしているのではないかと。紫月なら有り得そうだと思えたのだが。
何も起きず。彼女の時間は止まったままだった。
――俺は、間違えたのだろうか。
朱里を止めることはできた。でも結局、彼女を救うことはできなかった。
紫月までもこんなことになってしまって。ぽっかりと空いた心の穴は、最早大きすぎてそちらの方が本体のような気さえした。
誰を恨めばいいのか。
事態の中心にいたのは、間違いなく朱里だ。でも俺は、彼女を受け入れることができた。その罪を認めて、共に背負おうと思えたのは確かだ。
詳細はわからないが、紫月も今回の件に、なんらかの形で関わっていた。それもおそらく、根幹に近い部分で。しかし今となっては、それを問い質すこともできない。
親父はある程度把握していたのだろうが、それでも全てを知っていたわけではないと思う。ああ見えて親父は、身内には非常に甘い。俺や紫月にこれほどの驚異が迫っていたことを知り得ていたなら、流石に介入してきたはずだ。
故に疑うべくは、親父よりもっと上に位置する存在だ。祝福省の上層部。それが、俺に何かをさせようとしていた。
情報が足りない。朱里。紫月。親父。祝福省。たぶんそれぞれに思惑があって、それらが複雑に絡み合った結果、今回の事態は起こった。もしかしたら、誰も全容は掴めていないのかもしれない。そして紫月と朱里が沈黙している今、その解明は為されない可能性すらあった。
だから結局は、行き場のない思いだけが残る。誰かを恨めれば少しは楽になれたのかもしれないが、俺にはそれすら許されない。暗鬱としたこの感情と、俺は死ぬまで付き合わなければならないのだろうか。
眠る紫月をずっと眺めていると、吸い込まれそうになる。見ているだけなら、こいつは本当に美人だ。月と女神の片割れ。
気後れすら感じさせるその美しさ故に、紫月に告白しようとする奴はそれほど多くはない。それでも年に数人ぐらいはそういった勇者が現れ、「悪いけど興味ないわ」と一言のもとにばっさりと切り捨てられるのが常であった。
それが真実の言葉なのかはわからない。俺の転校に付き合っていなければ、その内の誰かの申し出を受けていたのだろうか。なんとなく違う気がする。紫月は興味の持てない対象には本当に一切、意識を向けない。
俺にとってはどうなのか。あまりにその存在が当たり前すぎて、そんなことは考えたことがなかった。もちろん、大切な存在には違いない。こんなことになるなら、俺の事情に巻き込むべきではなかったと思うぐらいには。
「紫月」
名前を呼ぶが、やはり反応はない。いつ目覚めるのか。もう目覚めないのか。
これからの日々を思う。また俺はこの病室を訪れる生活を続けるのか。ネズミやカメの代わりに、無駄耳ウサギのぬいぐるみを溢れさせるのか。
嫌だった。
紫月の卵焼きが食べたかった。
蔑んだ眼差しで、あほぅと罵ってほしかった。
なぁ、紫月。
頼むよ。
俺にできることなら、なんでもしてやるから。
毎月ちゃんとウサギも取ってやる。
アイスでもタルトでも、好きなだけ買ってやる。
だから。
なぁ、頼むよ。
紫月。
頼むから、目を覚ましてくれよ…………。
なんとはなしに、ベッドに腰かける。
背を向けて、紫月の――ちょうど右側に。
もぞりと。
背後で身じろぎの気配があった。
「紫月っ!」
振り返ると、紫月が起き上がっていた。
ぱちくりと、長いまつ毛の生えた目蓋をしばたたかせて。
「紫月っ……紫月っ!」
繰り返し、名前を呼ぶ。その瞳を覗き込む。
その、赤い綺麗な瞳には。
「紫月……」
俺の姿は、映ってはいなかった。
同じだった。
彼女の――千影の反応と。
その瞳は開かれていながらも、何ものをも捉えてはいない。
虚ろで焦点の合わない、意思のない瞳。
同じなのだろうか。
千影のように、行動はすれどそこに情動が伴わない状態。
生きてはいるが、生きようとはしていない、物言わぬ人形のような。
そんなことを、考えていると。
おもむろに、紫月が動き出す。ベッドの上を、もぞもぞと這うように、動いて。
その縁に腰かける。俺の隣りに――そう。
俺の、左側に。
「お前……」
やはりその瞳に、色はない。意思はない。何も映してはいない。
だからそれは、情動ではない、本能とでも呼ぶべき行動で。
彼女の根底に根づいた、性質だった。
「紫月……」
ああ、と。
そうだったな、と。
湧き上がる感情に、俺は心と体を震わせて。
彼女をしっかりと、抱き締めた。
温かかった。
とくんとくんと、心臓が動いていた。
例えそこに、感情が残っていなくても。
彼女は確かに、そこにいるのだった。
…………………………
…………………………
…………………………
それで終幕でも、良かったのかもしれない。
物語としては、ひとつの終わりを迎えた。ハッピーエンドではないが、見ようによっては綺麗な終わり方をした。静かに幕を下ろした、優しい悲しみの物語。
たくさんのものを、失ってしまったけど。
まだ、残っているものもあった。
変わり果ててしまったけど、こうして紫月はここにいる。朱里もそうかもしれない。
凛子もいるし、詩莉さんもいる。探せばきっと、たま先輩もどこかにいる。彼女たちに頼めば、尻だって揉ませてくれるだろう。
だから、ここで俺の物語は終わりにして。
残る時間をゆっくりと、アフターストーリーのように過ごすのも、ひとつの選択肢だ。
――でも。
やっぱり駄目だ。
俺は朱里に言ったはずだ。紫月に宣言したはずだ。
俺の本当の願い。俺が求めているものは、それだけじゃないんだと。
全部だ。
俺は全部欲しい。
子供のように喚き散らしてでも。
泥水を被って、醜くのた打ち回ってでも。
俺は全てを、手に入れる。
そうやって、無様に抗い続けた者のところにだけ。
気まぐれで意地悪な神様は、小さな奇跡を落とす。
だから。
だから、俺は。
抱き締めた紫月の背中から、そっと手を離して。
その程よく肉づいた、形のいい尻を、揉んだ。
「ふむ」
もみもみ。
もみもみもみ。
もみもみもみもみ。
「いい尻だ」
いい尻だった。七十八。こんなにちゃんと揉んだのは、三年前のあの日以来か。順当な成長が窺える。もみもみ。
「まったく、尻に貴賤はないとはよく言ったものだ」
誰の言葉だったか――ああ、俺の言葉だ。
歴史に残るに違いない、俺の万感の籠もった言葉。
もみもみ。
「でもお前、これ俺の渡した美尻クリーム使ってないだろ? あれはな、ちゃんと俺がお前の尻に合わせて選んだ至極の一品なんだぞ? 将来のためにも、今のうちから適切なケアをだなぁ……」
「――――――こ、」
と、そこで。
もみもみ。
「こ、こ、こ、こ、こ」
小さな声が聞こえてくる。
鶏の鳴きマネのような。
小さな、されど――俺の聞きたかった声が。
もみもみ。
そして。
「こ――――――んのどどどどどあほぅがあああああっっ!!」
「ぐほおおおっっ!!」
未だかつて、そいつから聞いたことがないほどの音量の罵声が響いて。
同時に放たれた渾身の右ストレートに、俺はもんどり打って吹き飛んだ。
ああ、やっぱり。
やっぱりそうだった。
殴られた頬の痛みに、でも俺は顔を綻ばせて。
珍しく顔を真っ赤に染め上げたそいつを――紫月を見上げて。
よう、やっと起きたか――この寝ぼすけが、と。
感激の再会となるセリフを告げようとして。
瞬間、紫月の姿が掻き消える。〈短距離転移〉。
現れたのは、俺の真上。長い足が大きく開かれ、病院着の裾からウサギさんパンツが見える。アメリカンファジーロップ。そして。
「死ねええええええっっっ!!」
絶叫と共に放たれた、落下速度の乗った全力の踵落としが。
俺の顔面に、ぞぶりと食い込んだ。




