御門環
御門環先輩との時間は、いつもゆっくりと流れた。
大抵は、彼女が主たるギフ研の部屋で二人して読書に励み。
時には涼しげな中庭の木陰で、またはカフェの併設された小洒落た書店で、やはりページを手繰り。
取り留めのない会話を交えて過ごすのが常であった。
それはこの放課後デートが始まってからも変わることなく。
たま先輩の番となる本日も、俺はいつもどおりギフ研の部屋に呼び出されていた。
通常の教室と同程度の広さを持つこの部屋を、わずか数人しか所属していないギフ研がどうやって手に入れたのか。
たま先輩に疑問を呈してみたところ、「女の子のヒミツというやつさ」とわざとらしいウインクが返ってきたが。
たぶん女の子とか関係ない。普通に彼女の持つ権力が行使されたのであろう。
十七歳の若さで世界的権威を持つ学術雑誌に論文を掲載したたま先輩は、学内においてはかなりの影響力を及ぼすことができる。
理事長の血縁という立場も相俟って、教師陣含め、彼女に面と向かって相対する者はほとんどいないのだ。教室の一つや二つ、何でもなく占拠してしまえる。
加えてたま先輩は、その権力行使に一切のためらいがない。彼女にとって意味を成さない授業はその全てが免除されているし、そもそも登校すら自由意志だ。
よしんば登校したとしても、専らこの部屋で過ごしている。
一部の教師はそんな自由すぎる彼女を疎ましく思っているようだが、それが許されるだけの実績があるため、何も言えずにほぞを噛んでいるらしい。
無謀にも学生の何たるかを教示してやると息巻いたある教師は、その教育理論を完膚なきまでに論破され、現在休職に追い込まれているとのことだ。
ここに簡単な図式が出来上がる。すなわち、御門環には関わるな。もし関わらざるを得ないのであれば、逆らうな。
御門学園における不文律の一つである。
なお、ギフ研の会員はたま会長以下、紫月を除く俺たち五人となっている。何かと都合がいいということで、名前だけの所属であるのが実情だが。
紫月はめんどいの一言でパスだ。誰かあいつのやる気スイッチを見つけてあげて欲しい。尻にあるに違いないとスカートをめくった俺はボコボコに殴られたので、どこか別の場所にあるはずだ。
その活動内容は、ギフトの研究及び考察と表向きには掲げられているが。
実際には、会長の気の向きよう次第である。会長の興味をそそる事案がなければ、本当に何もしない。
稀に、ギフテッドの生徒から相談や依頼を持ちかけられることもあるようだが。こちらも受けるかどうかは、気分次第である。
そして本日は、特に何もない日であった。
中央の長机に対面して座り、部屋の壁際三辺にずらりと並んだ蔵書から、適当なものを見繕い読み耽る。
この部屋の蔵書は膨大の一言で、よくわからない専門書から漫画、小説に至るまで、多大なジャンルの本がびっしりと詰まっている。採光の窓枠やパソコン机、ロッカーの周囲すら、全て本棚にされているぐらいだ。
その全てはたま先輩が気に入ったものらしく、中々に興味をそそられるものが多い。
俺は残酷な運命に立ち向かう魔法少女アニメの漫画版を、たま先輩はどう見てもパンツにしか見えないズボンを着用して戦う軍隊少女アニメの小説版を、それぞれ選んでいた。
なお、どうでもいい話ではあるが、俺はあの薄緑のズボンを履いた撃墜王の尻が、最も好みである。
「ああ、そうそう。とーま君のギフトについてなんだけどさ」
凛子の備蓄したせんべいをぽりぽりかじりながら、たま先輩が本から顔を上げる。
「たま先輩、俺のはまだギフトだと確定したわけじゃないんですがね」
「いや、そこは間違いないんだ」
訝しむ俺に、そう断言するたま先輩。
「私のギフトに関係するから、詳しくはまだヒミツだけど。キミのそれがギフトであるのは間違いない。そうだね、今回の件が落ち着いたら教えてあげよう」
「はあ、そうなんですか」
なんかさらっと重要な事実が告げられたが、たま先輩が言うのだからそうなのだろう。
いくら俺が勉強しているといっても、ギフトに関する見識で彼女に勝るところなど一つもないのだ。
「それで、名称は付けているのかい?」
「ええ、まぁ一応。常駐型<誘惑>と」
大抵の場合、ギフトというものは、発現時にそれに相応しい名称を自然と思い付くものらしい。
さもありなん、ギフトとは願いの発現であり、その言語化には如何程の苦労もないのが常であろう。
ただし俺の場合は、少々様相が異なる。そもそもいつギフトが発現したかの覚えがなく、なれば状況から類推して考える他なかったのだ。
恣意的な行使ができないことから、発動型でないのは明白。あとは多くの異性を盲目にする性質から、単純に誘惑と付けた次第だ。
対象が何らかの死に関する思いを抱えている、という要素も匂わせたかったのだが、あいにく俺には名付けのセンスはなく、断念した。
「ふむ、常駐型の<誘惑>ねぇ。端的ではあるが、ちょいと文句が足りないかなぁ」
付着したせんべいの粉をぱっぱと払いながら、たま先輩が告げる。
なお、彼女にはかなり細かいところまで、俺の経緯や症状を伝えてある。俺の現状の改善、解明に寄与してくれる人材としては、これ以上ない専門家であろうという判断からだ。
「実はね、もう考えてあるんだ。いい感じのやつを」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、たま先輩が続ける。何だか嫌な予感しかしないんだが……。
「はぁ。俺にはそういうセンスはないんで、聞くのは聞きますが」
「うむ、では説明しよう。世の男性が羨むほどの美少女ばかりを侍らすとーま君だが、本人はその原因に自覚が一切ない。
客観的に見ても、身長が高いのは高ポイントだが、それほどイケメンというわけでもなく、顔は中の上の端っこに引っかかるかなー、といったところ。
加えてお尻に異常なほどの執着を持った極度の尻フェチで、これは普通の女の子ならどん引きしちゃうレベル。まず敬遠される案件だね」
ん? 何かさりげにディスられてないか、俺?
「キミに引き寄せられる少女たちもまた、確たる理由なしに、盲目的に恋に落ちる。元々思春期の恋とはそういったものではあるが、それにしても入れ食いにもほどがある。私も人のことは言えないんだがね。
そして彼女たちに共通する最大の特徴が、死を身近に感じた経験があるということ。肉親なり友人なり、自分自身なりにね。これらの要素を統合した上で、私はキミのギフトを命名します。すなわち——」
もったいつけたような間を置いて、たま先輩がドヤ顔を作る。嫌な予感が最高潮である。
「誘発型<貴方を愛死てる>」
どうだ、とばかりに言い切るたま先輩。
うん、勘弁してほしい。
勘弁してほしいが——なるほど、的確ではあった。
くやしい、でもそのとおり! である。
「すんごい嫌なんですが……正にそのとおりなんですよね、俺の状況」
「そうだろう? いやー流石私だね。言語センスも一流という。では決定、と。グループラインで通達出しとくね」
やめてほしかったが、どうせ少しもしない内に広まっていることだろう。抵抗は無意味であった。
無慈悲な現実に、身体が揺れるのを感じる。いつの世も、男に決定権など存在しないのだ。
重大な事案は、男が決めているように見えて、その実裏には女性の影が隠れている。我々男は、彼女たちの操り人形に過ぎないのが実情だ。
そんな俺の憂いを映してか、とうとう机まで揺れ出した——いや、そんなわけがあるか。
意識を現実に戻す。地震だ。
それほど危機的な大きさではないが、けっこう長いぞ、これは。
ぐらぐらと机が揺れ、直後に何かが床に跳ねる音が響く。
「あっ」
「たま先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっとスマホを落としてしまっただけだ。画面が割れてないといいんだが——あれ、どこにいったかな?」
ようやく揺れが収まり、くるりと周囲を見回すが、目の届く範囲には見つからない。どこかの隙間にでも入ってしまったのだろうか。
洗濯機の上から落ちたりすると、救出が大変なんだよなぁ、あれ。
「鳴らしてみますね」
「ああ、すまないね。頼むよ」
自分のスマホを操作して、アドレス帳の「小尻」グループからたま先輩の番号を探して発信する。
ほどなくしてだんご三兄弟が流れ出したのは、中型の冷蔵庫の下からだった。
「あー、またやっかいなところに。どかしますか?」
「いや、目視さえできればギフトで取れると思う」
そう言うと、たま先輩は四つん這いになって冷蔵庫の下を覗き込んだ。手を伸ばし、不可視の紐のようなものを出して掴み取ろうとする。
つまり自然と、たま先輩の体勢は尻を突き出した格好になるわけだが。
俺は静かに席を立つと、忍び足でたま先輩の背後に移動し、そっと床に屈み込んだ。
俺はチャンスを逃さない男。
ちらりと見えたたま先輩のそれは、同じく紐と名の付くもので、しかも青と白のストライプであった。流石はたま先輩、よくわかっていらっしゃる。
サイズは先日と変わらず、七十八。小桃型とでも称せるそれは、相変わらず美しい流線を描いており、そのまま齧り付きたい衝動に駆られてしまう。
ちなみに女の子の尻に限られるが、俺は目視でサイズを正確に判定できる。これには絶対の自信があり、もしやこれこそが俺のギフトなのではないかと思ったこともあるが。
そのことをたま先輩に冗談交じりに話したところ、<君、尻たもうことなかれ>という恐ろしいギフト名を付けられそうになったため、全力で拒否しておいた。
尻に全てを捧げる所存の俺でも、流石にその異名は許容し難かった。
「よし、取れた取れた」
無事、救出には成功したようだ。
いつまでも眺めていたかったが、そういうわけにもいかない。たま先輩が振り返る前に、俺はそそくさと元の位置に戻る。
もちろん、脳内の「縞ぱん」フォルダにしっかりと画像を保存するのも忘れない。
完璧な犯行であった。
「で、どうだったかな?」
佇まいを直し、たま先輩がにっこりと問いかけてくる。
「な、何のことでしょうか?」
「感想を聞きたいものだねぇ。たぶんキミの好みには沿っていたと思うんだが」
バレバレであった。
何故だ——解せぬ。
いやしかし、証拠はないはずだ。このまま知らぬ存ぜぬを押し通せば——。
「とーま君の行動理念はわかりやすいからねぇ。ちゃんと認めるなら、もう一度見せてあげよう」
「素晴らしい縞ぱんでした。基本の青白を押さえつつ、側面の紐が大きめの蝶結びなのもポイント高いです。セクシーさを内包したロリポップとはこのように成り立つのだという、その真髄を垣間見ました」
あっさりとゲロってしまった。
だってしょうがないじゃない、男の子なんだもの……。
「うん、素直でよろしい——はい」
そして本当にスカートをめくってくれるたま先輩は、やっぱり最高です。
「それでとーま君、さっきの続きなんだがね」
ひとしきりしましまを堪能したところで、たま先輩が尋ねてくる。
「はい、何でしょうか。今ならいきなり殴られても許せる気がします」
素敵な光景を思う存分眺めた俺の心は、平穏に凪いでいた。悠然と広がる大自然の景色を前にした時、人はこのような気持ちになるに違いない。
「そ、そうかい。私のパンツ、凄い効果だねぇ」
「正確にはパンツに包まれたたま先輩の尻ですが」
「ああ、うん。わかったよ。それじゃひとつ聞きたいんだがね」
若干引き気味のたま先輩だったが、何とか持ち直して問いかけてくる。
「大前提として、ギフトの発現には強い感情の発露が必須ということはわかっているね?」
「ええ。それがないからこそ、俺は自分のこれがギフトだと確信できなかったんです」
たま先輩の判断を疑うわけではないが。正直なところ、未だに俺がギフテッドだということに納得できているわけではない。
この世界では、場合によっては願いは叶うし祈りは届く。
奇跡の体現が日常となって久しいが、それには必ず相応しいだけの物語が存在する。
当時を振り返ってみても、尻に対する情熱以上の思いが俺にあったとは思えないのだ。
「そうだね。<デッドハーレム>の存在は間違いないのに、その起因となる思いがキミにはない。これは明らかな矛盾だ。
私の研究のひとつに、「ギフト発現時における必要充分たる質的及び量的感情の閾値」というものがあってね」
何だか難しそうな単語を話すたま先輩。そこそこの地頭はあると自負しているが、専門的に過ぎると俺に理解が追いつくかどうか不安だ。
そんな俺の思いを読み取ったのか、たま先輩は安心したまえ、といった体に表情を和らげる。
「噛み砕くと、ギフトの発現にどれだけの強さの感情が必要なのか、ということだね。まだまだサンプルも足りなくて、論文に纏められるほどのものではないんだが。
ただその過程で、私は100人を超えるギフテッドと対話する機会を得てね。これがまた、思わぬ収穫になった」
たま先輩はそのギフト研究において、外部の研究機関や祝福省と連携をとることがしばしばある。
学校に来ていない日は、その関連の仕事をしているらしい。
確か、うちの親父とも面識があると言っていたな。
「ギフト発現の際に抱く思いは、それこそ千差万別でね。本人にとってはとても大切な思いでも、他の人にとっては取るに足らないようなケースも多いんだ。
ちなみに私の聞いた限り、もっともしょうもない願いは、「女の子のスカートの中が見たい」だったね」
「あ、そいつたぶん知ってます」
うちのクラスで、俺の前の席に陣取る前澤のことだろう。
微量の風を巻き起こすギフト——<悪戯な風神>だったか。
奴はそのギフトを、専らスカートめくりのために行使しているようだった。
ただでさえ男のギフテッドは珍しいというのに、そんなアホらしい願いをギフトに昇華してしまうあたり、非常に業が深い。
神の祝福とはいったい何なのか、と考えてしまう事例であった。
「まぁ、そんなケースもあるにはあるがね。ただ、誰ひとりとして、自分の願いをわかっていない者はいなかった。
客観的な強弱こそあれど、彼女たちは全員、何がしかの事件や事故、強烈な思いを抱く事象を経験している。特に強力なギフトの場合は、悲劇とも言ってしまえるような、ね。
願いなくして祝福は降り得ない、そこはやはり大前提なんだ」
なるほど、そうなるとますます、俺に願いの経験がないことがおかしいな。ギフト発現の経緯は様々であるが、どんな場合でも必ずそこには強い願いがあるはずだ。
だが、俺の頭のどこをほじくり返しても、そんな強烈な体験をした記憶は残っていない。
ん? ——記憶が、ない?
起こったのは奇跡。必要なのは願い。足りないのは、記憶。
そしてこの世界では、様々な奇跡が起こり得る。
単純な図式だ。
「気づいたかい? 存外優秀じゃないか」
にやり、とたま先輩が口角を上げる。
そう、気づいてしまえば、簡単なことだった。
「ギフトはあるのに、願いがない。そんな強烈な出来事を覚えていないなんて、普通は有り得ない。
つまるところ、俺の記憶が消されている——おそらく、何らかのギフトによって」
「正解。やるじゃないか、とーま君。パンツ見るかい?」
「はい」
迷いなく即答する。空気感が台無しだったが、見せてくれるというなら見せてもらおう。
両手でぴらりとまくられたスカートの中のしましまを凝視し、エンドルフィンの分泌を加速させる。
「あ、できれば少し恥ずかしい感じでお願いします」
つい、どこぞのAV監督のような指示を出してしまう。
「ふむ。こんな感じかね?」
視線を斜め下に外し、僅かに頰を染めるたま先輩。
俺は親指をぐっと立てた。最高です。
「まぁ、お遊びはこの辺にして。ここからは私の予測だが、キミのギフト発現に関わった存在と、キミの記憶を消した存在はおそらく同一人物だと思われる。その時にもう一人、別のギフテッドがいた可能性もあるがね。
最初のハーレムの時にはすでに記憶がないことから、対応は即時だったはずだ。その人物にとって、キミに記憶が残ることは不都合だったんだろう。
ただし、必ずしも害意があったわけではないと思う。記憶を消すギフト、と想像するに、<消去>や<消滅>なんかが考えられるが、キミの存在自体が邪魔だったなら、もっと直接的に対処したはずだ」
直接的に——つまりは、俺の存在ごと消し去ることもできたというわけか。
「以上を踏まえると、その人物——そうだね、便宜的に<消去>とでも呼ぼうか。彼女との邂逅が、とーま君にとっては大きな目的になるんじゃないかな」
「ん? 女性限定ですか?」
確かに男のギフテッドは絶対数が少ないが、全くいないわけではないのに。
疑問顔の俺に、たま先輩は当然のように言い放つ。
「とーま君の情動を呼び起こす人なんだから、可愛い美尻の女の子に決まってるだろう?」
ごもっともであった。
ともあれ、これでおれの行動指針がひとつ増えたことになる。
ひとつは今までどおり、俺のギフトの解明及び対処法の確立。
もうひとつが、イレイズとの邂逅だ。わざわざ俺の記憶を消すぐらいだから、そう簡単に会えるとも思えないがな。
「なんか一息に状況が進んだ気がします。たま先輩、ありがとうございます。あと、パンツもありがとうございます!」
「パンツのお礼の方が比重が大きいのが心配だねぇ……。まぁ、参考になったなら何よりさ」
呆れ顔のたま先輩だが、そこは譲れない俺の信念なので仕方ない。ノーヒップ、ノーライフである。
「イレイズに会えたなら、必ず報告を頼むよ。何といっても、キミの極限の願いが、私は一番気になっているんだからね」
「俺の願い、ですか?」
たま先輩の興味を惹くほど、珍しいものとは思えないのだが。
「ああ。死の思いを抱える少女たちに極度の執着を持たせ、争わせ、時として自身にすら危険を及ぼす<デッドハーレム>。
結果だけを見れば、キミは多数の異性から恋慕の情を向けられ、その上で死にたがっているようにも捉えられる。複雑で怪奇で、猟奇的な感情だとは思えないかい?」
そう言われると——確かに、何とも気味の悪いことこの上ない。
薄ら寒い想像が、ぞわりと俺の背中を撫でていく。
身震いする俺に、たま先輩は今日一番の笑顔で言葉を紡ぐ。
「ねぇ、とーま君。キミはいったい、何を願ったんだろうね?」
その質問に対する答えを、俺は持ち合わせてはいなかった。