おかしいじゃない
夏休みが終わり。
新学期の始業式を迎えた、その日。決行の日。
滞りなく式を終えた後、伝えられた時間に伝えられた場所へ向かう。
高等部棟の最上階、そのいちばん端の部屋。少子化の煽りを受けて、今はもう使われていない空き教室。
廊下に人通りはない。紫月ちゃんは「整えておく」と言っていた。早霧さんあたりを通して、祝福省の権力が行使されたのかもしれない。これで人目を気にする必要はない。
開け放たれたままの教室の中央に、蓮さんはいた。紫月ちゃんの伝達どおりに。でも何故か、花柄の真っ白なワンピースを纏って。
わざわざ着替えたのだろうか? 呆けた様子の彼女に、僅かな違和感を感じる。
それはこの教室そのものからも感じられた。私のよく知っている、でもこんな場所には似つかわしくない匂い。
鉄錆の匂いの残滓が、そこには残っていた。
不可解ではあったけど、それで何が変わるでもない。計画に変更はない。ただ、やるべきことをやるだけだ。
先日の、紫月ちゃんとの会話を思い出す。
「まずは、蓮さんの「理性」を壊して。彼女にも抑圧している思いはあるはずだから、それでたぶん、〈デッドハーレム〉の暴走を誘発できる。蓮さんは自身の「異常」を自動的に治してしまうけど、それはその時点で彼女が認識しているものに限られるわ。だから、異常を異常と認識できない状態にしてしまうの」
「暴走状態にすることで、わざと冬馬君を襲わせるってこと?」
「そう。それがうまくいけば、後はいつもどおりよ。何食わぬ顔で冬馬の救助に現れて――あなたの最大威力の攻撃で、仕留めなさい」
よくそんな作戦を思いつくものだと、私は改めて紫月ちゃんに感心した。本当に彼女が味方で良かった。紫月ちゃんがいなければ、私は道半ばで倒れていたに違いない。
「――朱里ちゃん?」
「こんにちは、蓮さん」
足音に気づいてか、蓮さんが私を認識する。
そのまま、まったく警戒心のない蓮さんの前まで、無造作に近づいて。
その頭部を、がしりと掴む。
「――え?」
そしてイメージする。今から壊すものを。
彼女の理性。彼女を彼女たらしめるもの。
それは檻だ。感情を抑制する、理性の檻。大事に大事にしまってある、剥き出しの、原初の感情を孕んだ心の牢獄。その鉄格子に指をかけて。
「そして――さようなら」
こじ開けるように、壊す。
ばきん、と心が音を立てた。
「あ――あ、あ、あ、あ、ああああああああああああっっ!!」
感情が溢れ出す。抑圧されていた冬馬君への思い。それは、思っていたよりも膨大なものだった。
「――っ!」
心の枷から解き放たれた、それは最奥の感情。そのあまりの密度に、私は思わず気圧されるように後退った。
呑まれてしまいそうだった。おかしい。それは明らかに、私たちの誰よりも圧倒的な量を誇っていた。冬馬君と過ごした期間は変わらないはずなのに、そこには確かな年月の重みが感じられた。
震えるほどの思い。寄れば狂いに引き込まれてしまいそうな、常軌を逸した感情の塊。終わりなき悲鳴。
ぞくりとした感覚が私の心臓を撫でていった。――こんなものを、蓮さんは抱えていたというの?
ひとしきり、感情を吐き出して。
意識を失い、ぱたりと倒れ込む蓮さん。
ぶるりと体が震えた。気づけば、いつの間にか大量の汗をかいていた。心臓がうるさく収縮する。正体の見えない不安が押し寄せる。
私は――いったい何を壊してしまったの?
でも、確信を得た。心を苛む不安が、そのまま証左となる。
これで確実に、蓮さんは狂いに至った。あんなものを抱えたままで、正気でいられるはずもない。
後は待つだけだ。そう遠くない内に、もしかしたら目覚めてすぐに、彼女は冬馬君のところに向かうだろう。
舞台とキャストは整った。
私の最後の戦いが、幕を開ける。
予想どおり、蓮さんはすぐに行動に出た。
紫月ちゃんの連絡を受け、商店街奥の比較的雑然とした区画――その中の廃ビルのひとつに向かう。
日は落ち、時刻は宵闇に迫っていた。不思議と人影はなかった。事態を把握した祝福省による規制がかけられているのだろうか。あるいはなんらかのギフトが効果を発揮しているのか。
途中、薄暗い路地に異質な痕跡を見つける。コンクリートに染み込んだ赤黒い血痕。それが何かを引き摺ったように、奥の闇へと続いていた。
――少し、急いだ方がいいかもしれない。細かな疑似転移を繰り返しながら、私は先を進んだ。
そして目的地に辿り着く。立入禁止の札が立てられた、五階建ての廃ビルの敷地内。相変わらず目印が続いていたので、どの部屋にいるのかは迷わずに済んだ。
くぐもった呻きが聞こえる。冬馬君の声だ。
施錠の有無も確認せず、私は扉を砕き壊した。細かな破片が舞い散り、晴れた視界の先。
全身を赤い斑に染めた二人が、そこにいた。
即座に蓮さんを吹き飛ばす。加減はいらない。どうせこの程度では、彼女を壊すには能わない。
その隙に冬馬君の容態を確認する。血塗れでボロボロでぐちゃぐちゃだったけど、冬馬君に目立った外傷はないようだった。少なくとも、その体には。
それがわかれば一安心だ。そして名分を得た。
治したとはいえ、冬馬君を傷つけた蓮さん。何度も何度も刺して治した、狂いの行い。これで。
これで彼女を排除するのに、充分な理由ができた。
だからここからは――私の時間だ。
あまりに予測どおりの展開だったので、私は思わずにやけてしまいそうになった。これから起こることを思って、心が疼きを得た。
嬉しかった。久々に全力を出せる。ずっと我慢していたから。ああ、でも、冬馬君は壊さないように気をつけないと。
首を振り、なんとか気持ちを抑える。いけないいけない。まだ、まだもう少しだけ、我慢しなきゃ。私の正当性を、冬馬君に示さなきゃ。
私はただ、冬馬君を助けにきただけ。その過程で、狂ってしまった蓮さんを、仕方なく倒すだけなんだって。
悲しみを纏わせた演技を続ける。冬馬君は、ある程度事態の裏側を察しているようだった。
でも、今となってはそれも関係ない。事の真相に冬馬君が気づいていようがいまいが、最早この場は最終局面だ。成り行きを静観する他、彼にできることはない。
駄目だ。もう我慢できない。
問答もそこそこに打ち切って、蓮さんへの攻撃を再開する。
穿って、断ち切って、刻んで、薙いで、千切って、圧して、崩して、突いて、捻って、散らして、爆ぜて、裂いて、叩いて、削って、潰して、振るう。
そのどれもが致命傷を与え、そして悉く蓮さんは〈再生〉した。楽しい。未だかつて、ここまで私の攻撃に耐えた存在はいなかった。何度壊しても、蓮さんはすぐにまた立ち上がった。楽しい。楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい!
それは舞踊だった。私と蓮さんで踊る、終わりなき舞。
繰り返し繰り返し、私たちは踊った。こんなに楽しいのは久しぶりだった。
ああ、やっぱり。
私は、何よりも。
貴方を愛するよりも。
貴女を思うよりも。
酷く――――酷くアナタを壊したい。
ぐらりと体がふらついた。短時間でのギフトの連続行使による、精神の摩耗だ。ずきずきとした痛みが側頭部を苛んだ。
まだまだ踊り続けたかったけど。
残念ながら、そろそろ終わりにしなければならない。
疲労と悲しみに打ち震えるふりをして。
装った悔恨を、冬馬君に語る。
そんなつもりはないけれど。
もう、どうしようもないから。
他に打つ手がないから。
しょうがないんだよ、と。
自分と冬馬君に、言い聞かせる。
頭部に掌を向け、脳のリミッターを壊す。処理能力の限界突破。
頭痛がさらに酷くなる。ハンマーで金床を叩くような痛みが響く。構うものかと、私はイメージを組み上げる。
一切合切、全てを〈破壊〉するイメージ。空間ごと、時間ごと、この世界ごと。全てを巻き込んで跡形もなく壊し尽くす、それは終極の一撃。暴虐の体現。
チリチリと、漏れ出た力の余波が稲光のように空を走る。纏めたはずのイメージが暴れ出す。限界突破した処理能力でも制御がギリギリなほどの、人の身に余る力。少しでも気を緩めれば、辺り一帯が灰燼と帰す。目尻の血管が破れ、赤い涙が流れ出る。そして。
臨界を迎えたそれを、放つ。
文字どおり、射線上のあらゆるものを飲み込んで。〈再生〉の追いつかない速度と密度で。
彼女の存在そのものを、蹂躙する。
暴虐が通り過ぎて。
静寂が空間を包んだ。全てが消え失せていた。
あたかも初めから、そこには何もなかったかの如く。
ただ、壁に空いた大穴から吹き込む夜の風が、火照った私の体を冷やした。
そうして、ようやくにして。
私の邪魔をする者は、誰もいなくなった。
やった。
やった。やった。やった。やった。やった。
歓喜に打ち震える心を、必死に抑え込む。本当は今すぐ冬馬君に駆け寄って、抱きついて、その全てを貪りたかった。
でも駄目だ。まだ冬馬君の準備ができていない。突然の展開に、彼の心はぐちゃぐちゃになっている。今触れれば壊れてしまう。
優しく声をかけ、少しだけ待ってあげることにした。
本当に。本当に、少しだけ。
それ以上は、私も自分を抑えられる自信がないから。
次の日の学校は休んだ。
授業なんて、もうどうでも良かった。
これからの二人の未来を夢想する。
何をしようか。何処に行こうか。
なんだってできるし、何処へだって行ける。時間はたくさんある。もう私たちの邪魔をする者はいないのだから。
ずきずきと痛む頭が煩わしかったけど。蓮さんを壊してしまったから、これはもう治らない。
でも、そんなもの気にもならないほど、私は高揚していた。
ああ、早く。
早く早く早く早く早く。
冬馬君に、会いたい。
会いたい。
会いたい。会いたい。あいたい。アいたい。ア痛い。アイたい。愛たい。逢いたい。あいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたい―――――――――――
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………………………………もう、いいかな?
いいよね?
いいはずだ。
いいに決まってる。
うん。
よし。
会いに行こう。
見つけた。
背の高い後ろ姿。
冬馬君――――――――――と、紫月ちゃん。
紫月ちゃん?
――――別に、おかしくはない。
紫月ちゃん。
冬馬君の、幼馴染み。
そして――――私の、初めての。
ただひとりの、友達。
紫月ちゃん。
彼女がそこにいるのは、何もおかしくない。
だって、紫月ちゃんだから。
幼馴染みだから。
でも。
何かが、引っかかった。
わからない。
わからないけど。
わからないから。
私はそれを、壊した。
この、わからないものを。
ぼんやりと張った、膜のようなものを。
そして。
ぐるりと、世界が反転した。
「――――――――――――え?」
なんだ――これは?
どういうことなの?
どうして今まで、気づかなかったの?
ねぇ、なんで?
どうして?
おかしいじゃない。
全部。
全部、壊したのに。
どうしてまだ、冬馬君の隣りに別の女がいるの?
ずきずきと頭が痛んだ。
いつからだ?
いったいいつから、こんなことになっていた?
――最初からだ。
彼女の言葉を思い起こす。
痛みに紛れて、彼女と初めて会った時の光景が頭に浮かぶ。
「あなたの方も、過度に悪感情を持たれない程度に関係を作っておくといいわ」
「それこそある程度の友人関係が持てればベターね」
「あたしたち、いい友達になれると思うの」
「……あたしたち、友達よね?」
――ああ。
ああ、ああ、ああ、ああ。
ああ――――そういうことか。
ぶちんと、私の中で何かが弾けた。
溢れる感情を、私はもう止めることはできなかった。
疑似転移を発動して、一瞬で間合いを詰める。
伸ばした右手で、その真っ白な頭をがしりと掴む。
そして。
「壊れろ」
そいつの心を、精神を、完膚なきまでにぐちゃぐちゃに壊す。
ぱたりと倒れ込むその女。同時に。
私の中でも、何かが音を立てて壊れた。
ねぇ、冬馬君。
お待たせ。
私、嬉しいよ。
やっとあなたに会えた。
やっとあなたの、ただひとりになれた。
嬉しいよ。嬉しいの。
なのに。
どうしてこんなに、悲しいの?




