もう、戻れない
季節は本格的な夏になった。
蝉の声がより一層けたたましく鳴り響き、気温の上昇に合わせて私はカーディガンを脱ぎ、スカートを夏用に履き替えた。
「夏スカートはいいよな。冬用は冬用でもちろんいいけど、こう、尻との距離が縮まるのが如実に感じられる」
至って真剣な顔つきで、冬馬君はそんなことを言っていた。傍目にはわからないであろう、僅か数ミリの違いをはっきりと感じ取る彼に、私は笑顔を崩さぬまま一歩後退った。その頭を紫月ちゃんは分厚い英和辞典で叩いた。変わらず冬馬君はどエロかった。
アイスを賭けた期末テストは、三点差で私が辛勝した。しかしいざ支払いの段になって、紫月ちゃんは例のウサギがま口を開いてまたそっ閉じした。
「悪いけど、ツケにしといて」
結局いつもどおりだった。たぶん返ってこないだろうなぁと思った。いいけど。
紫月ちゃんは本当になんでもできる子だった。勉強は元より、運動神経も抜群で、体育の授業で私たちが同じチームになると、そこに敗北の可能性は欠片も存在しなくなった。あまりにもワンサイドゲームになるため、途中からは必ず別のチームになるよう調整が為されたぐらいだ。
あらゆる面で、私たちの能力は拮抗していた。同年代でそんな子に会うのは初めてだった。特別な努力をするでもなく、私は周囲より秀でていた。今までは特に感慨もなかったけれど、紫月ちゃんという存在を知り得て、私は初めて対抗心というものを覚えた。
負ければ悔しかったし、勝てれば嬉しかった。そんな当たり前の感情を、私はようやく感じ取れた。
ひとつだけ、私が紫月ちゃんに明らかに勝っているものがあった。それは二人でPJに立ち寄った際に判明した。
たかがワンサイズ。されどワンサイズ。紫月ちゃんが手に取るブラのサイズを確認して、私は陰ながら小さくガッツポーズをした。
「何よ、その勝ち誇った顔は?」
あっさりバレた。紫月ちゃんに隠し事は通じない。
でもいいんだ。ただひとつの事実は揺るがないのだから。
「ま、まだ成長期なのよ」
珍しく狼狽して、紫月ちゃんは薄く頬を染めた。初めて見るその顔はすんごく可愛かった。
胸がキュンと高鳴るのを感じて、私は慌てて首を振った。危ない危ない。もう少しで恋に落ちるところだった。これがツンデレというやつだろうか。
そんな日常を過ごした。
冬馬君と紫月ちゃんを通して、私は世界と繋がりを持った。同じもののはずなのに、それは全然違って見えた。二人というフィルターを通すと、世界はカラフルに色付いてキラキラに輝いていた。
学校が楽しかった。
放課後が楽しかった。
休日のお出かけが楽しかった。
バイバイと手を振って、また明日会えるのを待つ時間すら楽しかった。
それは私の人生の中でも、最も充実した時間だった。
この時間が、ずっと続けばいいと思った。そしてそれは、私の自惚れでなければ。
あの二人も。いや、他の四人すらも。
同じ願いを抱いていたに違いないと、そう思った。
でも。
事態はゆっくりと、しかし確実に。
終わりへと近づいていた。
学園が長い夏休みに入って。
ひとつ月が変わって、でも今日も変わることのない日々が続くと信じて疑わなかった、その日。
変化は唐突にやってきた。
「……予想外の展開になったわ」
いつにも増して表情のない顔で、紫月ちゃんは私の部屋を訪れた。
私は努めて明るい声を出した。
「どうしたの、紫月ちゃん? またウサギさんが取れなかったの?」
「朱里、真面目な話なの」
「しょうがないなぁ、また私が取ってあげるよ」
「朱里」
嫌だった。
聞きたくなかった。
何かが起こって、大きく事態が進展したのだとわかった。
でも私は、まだこの日常を続けたかった。ずっとこの、優しい世界にいたかった。
矛盾していた。
私は冬馬君が欲しい。冬馬君の唯一になりたい。
でもそうすれば、この均衡は崩れる。危ういバランスの上に成り立っている、私たちの関係は壊れる。
全てを壊してでも欲しいものがあった。
なのに、何もかも壊してきた私が、初めて壊したくないものもあった。
感情が錯綜していた。私にはもう、それを自分で選ぶことはできなかった。
そして、決定的な一言が告げられる。
もう引き返すことのできない、ターニングポイントとなる言葉が。
「冬馬が――蓮さんを選んだの」
「――――え?」
紫月ちゃんが何を言っているのかわからなかった。言葉の意味が理解できなかった。
「まさか、あいつが自分から動くなんて。そんなこと今までなかったのに……」
「どういうこと?」
「朱里、落ち着いて」
「落ち着けるわけないよっ!」
気づけば、紫月ちゃんの肩を無遠慮に掴んでガクガクと揺らしていた。その痛みに紫月ちゃんの顔が歪んだ。指に力が込もるのを抑えられなかった。
「……それでも落ち着いて。ねぇ、朱里。あたしが今まで間違ったことをしたことがあった? 大丈夫、まだ策はあるわ。あたしを信じて」
「…………うん」
優しく私の手に指を重ねる紫月ちゃんに、私は力を抜いた。
そう、大丈夫。紫月ちゃんは私の味方だ。そう言い聞かせた。
「確かに予想外ではあったけど、これはチャンスでもあるわ。朱里、あなたと他の四人が置かれている状況の、いちばんの違いは何?」
「……紫月ちゃんがいること」
「そう。あなたはいち早く情報を入手できて、対策が打てる。これは最大のアドバンテージよ。蓮さん以外の三人は、まだこの状況を知らない」
そのとおりだ。正確には冬馬君に付いているらしき祝福省の監視から、紫月ちゃんを通じて私に情報がもたらされる。私たちにはチームの強みがある。
「だからこのことを、効果的なタイミングで三人にリークするわ。そうすれば、抑え役のいない彼女たちは暴走を免れない。あとはわかるわね?」
感情を暴走させた彼女たちは、理性を失って大胆な行動に出る。蓮さんを襲う? いや、もっと根本的で直接的なことに及ぶ。すなわち。
「彼女たちは、ルールを破って冬馬君を我が物にしようとする――ギフトを使って」
「そう。これで大義名分ができるわ」
初めに想定していたシナリオどおりだ。感情のままに冬馬君に襲いかかる彼女たち。あとはタイミングを見定めて。
「私は仕方なく、彼女たちを撃退する。冬馬君を助けるために」
「そのとおりよ。一対一なら、あなたは誰にも負けない。調整はあたしに任せて」
そうやって、三人をひとりずつ排除する。あくまで正当防衛、ルールを破ったことに対する制裁として。これなら、冬馬君に疑いを持たれることもない。
「あ……でも、蓮さんはどうするの?」
「ちゃんと考えてあるわ。とにかく、まずは他の三人に対処して。それにちょうど良かったわ。もともと蓮さんは、最後に回す予定だったから」
「そうなの?」
「ええ。負けないとはいっても、彼女たちはとても強力なギフテッドよ。さしものあなたでも、正面から対すれば無傷では済まないかもしれない」
「……なるほど」
流石は紫月ちゃんだ。きちんと全体を見通して計画をしている。
不可抗力を装うのは、蓮さんに対しても意味を持つ。もし私が傷を負ったとしても、彼女の〈再生〉を利用すればいいのだ。
「以上よ。準備ができ次第、連絡するわ。それまで待機してて」
「うん、わかったよ。……ごめんね、混乱しちゃって。肩、痛くなかった?」
「痛かったわ」
「そこは嘘でも私を気遣う場面じゃ……」
「資○堂パーラーのパフェなら許してあげないこともないわ」
「……わかったよ」
こんなことになっても、やっぱり紫月ちゃんは紫月ちゃんのままだった。そのことに私は安堵を覚える。
変わらないものがあることが、今の私にはとても嬉しかった。
「……ねぇ、紫月ちゃん」
「何?」
「……私たち、友達だよね?」
「何言ってるのよ。当たり前じゃない」
即答してくれる紫月ちゃん。その言葉に、私は心を強く固める。
大丈夫。ちゃんとやれる。
紫月ちゃんが、私の隣りにいてくれるなら。
そうして。
日常は終わりを告げ、この日から。
私の戦いの日々が始まる。
最初の相手は凛子ちゃんだった。
正直なところ、私はあの子を舐めていた。ギフトは強力だけど、まだ年齢にもそぐわない小さな体躯の女の子。本気で戦ったことも、ましてや命を狙われたこともないはずだ。所詮は私の敵ではないと、高を括っていた。
思い上がりだった。彼女の思いは、願いは、私の想定を遥かに凌駕していた。
紫月ちゃんの連絡を受け、向かった中等部の校舎。広がる極彩色の空間に、私は認識の甘さを悟った。
それは思いの極致を具象化したものだった。教室が丸々ひとつ、悍ましいほどの虹色の異界に侵されていた。
こんなものを作り出してしまうほど。
彼女の、凛子ちゃんの思いは、深く、強い。
対峙は至難を極めた。
宙を満たす千の刃と彼女の策に、私は確かに一度、心を打ち砕かれた。抵抗を諦めた。
でも、他ならぬ彼女の言葉に、私は気概を取り戻した。
私を「壊す」と、彼女は言った。
私を。この私を――壊すだって?
そんなこと。そんなことは許されない。認められない。耐えられない。
それは私の原初の衝動だ。壊すこと。全てを壊し尽くす存在である私が、誰かに壊されるなど。
そんなことは、あってはならない!
目前に迫る数の暴力に、私は思考を焼きつかせる。
足りない。手数が足りない。時間が足りない。速度が足りない。ヒトという種の能力の限界。だから。
私はその限界を、壊した。私の体に命令を下す脳髄。そこにかけられた制限を、〈破壊〉する。そして。
限界を超えた力の奔流を、放つ。
全てを、ひとつ残らず、塵芥になるまで、壊しきる。
全部全部、壊し尽くして。まっさらにして。
酷い頭痛だけが、残った。それは限界を超えた代償だった。
呆然とした顔で、ぺたんと座り込む凛子ちゃん。よほど、彼女の体も壊してしまおうかと思ったけれど。
最後に残っていた理性で、それは押し止めた。制裁が済んで、彼女から抵抗の意思が失われたのを確認して。
そこで、私は意識を手放した。
目覚めると、横に冬馬君と、そして蓮さんがいた。
私の負った数多の傷と、耐え難い頭痛は、きれいさっぱりと消えていた。思惑どおり、蓮さんによる〈再生〉が施されたのだ。
遅れて目覚めた凛子ちゃんに沙汰を下して、事態は一応の終結を迎えた。
危なかった。一歩間違えれば、敗れていたのは私の方だった。
危機を招いたのは、偏に私の認識不足故だ。その思いは本物だとわかっていたはずなのに、どこかで私は彼女たちを甘く見ていた。
でも、得たものもあった。既に極めたと思っていた私のギフト。まだその先があった。
強烈なインスピレーションによる劇的な能力の向上。同等以上のギフテッドと対峙し、極限状態を経験することで、私はさらに上の領域に至れた。そういう意味では、凛子ちゃんには感謝してもいいだろう。
ありがとう――私の踏み台になってくれて。
「考えられる限り、ベストに近い結果ね。よく頑張ったわ」
その日の夜、とある用事を済ませていたところ。紫月ちゃんから連絡があったため、ちょっと遠いけど足を伸ばしてこちらまで来てもらった。
「けっこう危なかったけどね。とりあえずなんとかなったよ」
ちょうど最後の処理を済ませたところで、紫月ちゃんは扉を開けて現れた。
「あ、っていうかごめんね? こんなところに呼んじゃって」
「別にいいわ」
「ありがとう。ちょっと手が離せなかったものだから」
ぽいっ、と動かなくなったそれを放り投げて。少し気になったので自分の体の匂いを嗅ぐ。
くんくん。あ、やっぱりちょっと匂い移りしちゃったかも。
「それで――あなた、こんなところで何をしてたの?」
「あ、うん。凛子ちゃんと戦って思ったんだけど、少し勘が鈍ってるかなぁ、って。だから感覚を忘れないうちに、復習しておきたかったの」
学園から都心方面に電車を乗り継いだ、とある街。雑多に並ぶ古いビルの中、以前から目星を付けておいた場所のひとつに、私は訪れていた。
「これは、あなたがやったの?」
「うん。物足りなかったけど、まぁ最低限の調整はできたよ。あとニ、三箇所回れば、確実に掴めると思う」
そこは、いわゆるヤクザ屋さんが拠点とする事務所だった。不快な煙草の匂いが充満していたけど、今はそれを鉄錆の匂いが上書きしている。少し懐かしい匂い。
「……そう」
いつもの無表情で答える紫月ちゃん。でもそこには、何か不安が混じっているように思えた。どうしたんだろう?
「あ、この人たちなら大丈夫だよ? けっこう悪どいこともやってた――壊してもいい人たちだから」
そこら中に散らばる肉片と血溜まりを指して、そう告げる。紫月ちゃんに勘違いされたら大変だからね。街のゴミ掃除もできて、一石二鳥の善行だ。
「……朱里」
「なぁに?」
「……なんでもないわ。次の準備ができたら、また連絡するから」
「うん、わかったよ。じゃあ、私は次のところに行くから。またね」
バイバイ、と手を振って。
紫月ちゃんに別れを告げる。
向かう先は、夜の闇。
そう、そこは。
もう二度と、戻ってはこれない場所。




