VSリジェネレイト
振るった衝撃の余波に長い髪を靡かせながら、朱里はそこにいた。
朝、教室で挨拶を交わした時と変わらぬ出で立ちの制服姿。ただ、その瞳だけは、打って変わって切り裂くような鋭さを備えていた。
「凪ぎ壊せ」
「待っ――」
警告も何もなく、朱里が暴風が如き〈破壊〉を振るう。空気を震わすその音に、俺の静止の声は半ばで掻き消される。
完璧な精密性を帯びたその攻撃は、俺に寄り添っていた蓮さんだけを正確に捉え、吹き飛ばし、その肢体を刻みしなに壁面へと叩きつけた。
ぐちゃり、という肉と骨の潰れる音が響き、壁に叩きつけられた蓮さんの体から赤いものが撒き散らされる。そこには一切の加減が存在していなかった。
「大丈夫、冬馬君?」
次の瞬間には、もう隣に朱里がいた。〈破壊〉による空間を圧縮しての疑似転移だ。今や彼女に距離という概念は存在しない。
視線ひとつで俺を雁字搦めにしていたロープの拘束が解かれ、支えを失った俺は彼女の体に凭れかかる。安心感と緊張感がせめぎ合う。傷は癒やされていたが、何度も刃を突き立てられた痛みと恐怖に、俺はうまく自分の体を動かすことができなかった。
未だに現実感が持てなかった。凛子の時と、詩莉さんの時と同じ展開。捕らわれた俺と、それを助けに来た桃色の女神。同じことが起きる。いや――もっと酷いことが。
「酷いじゃない、朱里ちゃん。いきなりだなんて」
大きく亀裂の入った壁面から体を剥がして、〈再生〉を終えた蓮さんがこちらに向き直る。焦点の合わない瞳で、ぞっとするような笑みを携えて。
真っ白だったワンピースは、最早元の色がわからなくなるぐらいの紅に染まっていた。それは俺と蓮さんに流れていた、二人分の赤色が混ざり合ったものだ。
「私じゃなければ死んじゃってるよ?」
「そのつもりだったんだけどね」
普通の人間ならば即死であったろう攻撃も、蓮さんには如何ほどの痛痒も与えてはいない。否、与えてはいるのだが、それは瞬きの間にはもう癒やされていた。
最強を前にして、彼女は依然として立ち塞がる。
「まぁ、怖い。私を殺すつもりなの? 凛子ちゃんや詩莉さんは見逃したのに」
「……あなたは、たぶんもう、手遅れ」
朱里の見立ては、認めたくはないが、真理に寄り添っていた。死を超越した蓮さんには、凛子の時のように狂気を上回る恐怖を与えることはできない。詩莉さんのように特殊な嗜好があるわけでもない。彼女の狂気を抑える術は、もうどこにもなかった。
でも。
「待て。待ってくれ、朱里。なんとかする。俺がなんとかするから――」
「無理だよ、冬馬君。現実を見て。彼女はもう、あなたの知ってる蓮さんじゃないの。心が壊れてしまっているの」
壊れている。正にそのとおりだ。
その身は、心は、戻ることなき狂気に支配されている。
なあ、でも。
それを為したのは――
「でも―――っ、」
言葉を続けることはできなかった。ほぼ正鵠を得ているはずの推測。でも駄目だ。それは言葉にしてはいけない。
そうすれば、辛うじて形だけは取り繕われているこの状況が、跡形もなく崩れ去ってしまう。二つの狂気が露わになる。その先はもう、想像することすら耐えられない。
「朱里、俺は――」
「大丈夫。私がなんとかするから。冬馬君は、私が守るから」
少しは成長できたと思っていた。絶望を乗り越えて、前に進めていると感じていた。でも違った。
結局俺にできることなど、何ひとつなかった。人外の力を振るう二人の対峙を、見届ける以外には。
「蓮さん、冬馬君を傷つけたあなたを見逃すわけにはいかない」
「どうするつもり? 確かに私はあなたに対抗できないけど、それはあなたも同じでしょう? あなたの如何なる攻撃も、私には通用しない。そしていくら保有精神力が多くても、あなたのそれは有限。いずれ限界が来る」
蓮さんの見解は正確だ。見事な状況把握だと言う他ない。おそらく前々から、こうなった時のことを想定していたのであろう。
それは故事の再現であった。最強の矛と最堅の盾。どんな守りも貫き通す攻撃と、あらゆる攻撃を防ぎきる守り。現代においてギフトで再現される、矛盾の逸話。ただ、ひとつ異なるのは。
その盾には、無限のストックが用意されているのであった。蓮さんの〈再生〉は、消費したはずの精神力すら補充してしまう。言葉のとおり、先にガス欠を起こすのは朱里の方であった。
「そんなの、やってみないとわからない」
「そう。じゃあどうぞ。無駄なことだと思うけど」
薄く笑う、その挑発に乗るように。
朱里が攻撃を開始する。
「穿ち壊せ!」
朱里の指し示す先、その大気が震えた。衝撃が螺旋を描き、空間を抉りながら一直線に蓮さんへと向かって行く。
蓮さんは動かない。その微笑が崩れることはない。それは避ける必要もないという、この上なくわかりやすい意思表示だ。
螺旋の〈破壊〉が横断する。蓮さんの胸に丸く、大きな風穴を空けて。綺麗に型抜きしたように彼女の肉は失われ、その口腔から詰まった赤色が吐き出された。
そして次の瞬間には、もうその穴は塞がれていた。
「おしまい?」
「っ――断ち壊せ!」
大寸の野太刀が如き斬撃が、大上段から振り下ろされる。頭頂から股下まで、蓮さんの体をぱっくりと真っ二つにして――。
「あら、危ない危ない」
その隙間から繊維のような体組織が伸びて、崩れる前に二つを繋ぎ合わせた。はらりと落ちるのは斑に染まった白い下履きだ。
「もう、恥ずかしいじゃない」
広がる扇情的な光景だが、さしもの俺も劣情を催すには至らない。その肢体を染める色彩は、既に赤色の方が多かった。
不死身の魔女。そんな印象が俺の脳裏に浮かぶ。赤く濡れる彼女は、正に魔の体現だ。幾多の血潮を撒き散らし、自らの生命に塗れてなお、彼女は依然としてそこにある。
その姿は、むしろ美しくすらあった。赤く、赤く輝いていた。
終わりなき命の溢れ出す、背徳的な美の顕現。
それは永遠を示していた。ここに至り、俺はようやくにして悟りを得る。彼女の本質。蓮さんが〈デッドハーレム〉に囚われた、本当の要因。
少し違和感を覚えていた。自らの死に瀕したことでギフトを発現するケースは、そこそこに多い。だが彼女たちの全てが、俺の〈デッドハーレム〉に囚われるわけではなかった。
自己の死ではない。命の喪失ではない。蓮さんの抱える、「死に関する思い」。
それは、「命の喪失」の喪失。即ち、死の喪失だ。
死に至ることができない。それこそが、彼女の抱える本当の、どうしようもない感情。心の奥底に潜む、もしかしたら本人さえ気づいていない思い。
蓮さんが狂いに至ったからこそ、俺はそのことに気づけた。だがそれも今さらだ。
受け入れると言って、やっぱり俺は彼女のことなど何も考えちゃいなかった。その内面を知ろうとはしなかった。
与えられる愛をただ貪っていた、体だけはデカい赤ん坊だ。
そう、いつものことだ。
いつだって事態は、俺が気づいた時にはもう、少しだけ遅い。
あったかもしれない世界。あり得たかもしれない展開。
蓮さんの隣に立ち、二人で歩いて行く未来は。
今ここに、完全に失われた。
俺が思考に耽る間も、二人の攻防は続いていた。多彩な種類の攻撃を打ち付ける朱里と、その悉くを癒やし、なかったことにする蓮さん。繰り返される〈破壊〉と〈再生〉。踊る二人の女神。
壊され、再び生まれ出づる、ともすればそれは、神話の叙事詩のいち場面のような光景だった。
「振るいっ、壊せっ!!」
「もう、まだやるの?」
何度目になるのか、もうわからなくなった朱里の攻撃。蓮さんの体を起点として、空間を粉微塵に爆砕する〈破壊〉。
結果は同じだ。散り散りになった肉片が集い、紡ぎ合わされ、変わらぬ美しい肉体を再構築する。
「くっ――」
よろり、と足を振らつかせ、倒れないようたたらを踏む朱里。額に手を添えるその顔は青白い。
ギフトの連続行使による、精神の摩耗が表れていた。ぎりりと表情が歪んでいた。おそらくは、酷い頭痛を感じているに違いない。
「やっと終わり? 痛いのは痛いから、そろそろ諦めてくれるといいのだけれど」
「っ、まだ――」
「朱里っ!」
それでもまだ立ち向かおうとする朱里に近づき、俺はその背中を後ろから抱き止める。
「もういい。いいんだ。これ以上は、お前が壊れてしまう」
「冬馬君……」
少女の体だった。今しがた超常の暴力を振るったとは思えぬほどの、細く、柔らかな体。
根底に流れる思いがどうであれ、朱里は何度も俺を助けてくれた。この華奢な体を、いつもボロボロにして。それは変えようのない事実だ。
もういいだろう。これ以上、徒に痛みを抱える必要はない。
それに。
実のところ、俺は少し安堵していた。朱里の攻撃は通用しなかった。これで、最悪の事態だけは避けられる。変わってしまったけれど、蓮さんの存在を失わずに済む。
朱里ですら対処できなかったが、蓮さんのギフトに直接的な攻撃性はない。この先どうなるのかはわからないが、少なくとも今この場を逃れるのは容易い。まずは退避して、少し休もう。後のことは後で考えよう。
きっといい方法があるはずだ。誰もが救われる魔法のような奇跡が。だってそうじゃないと、こんな終わり方は、あまりにも酷すぎる。
そんなことを願うほど、もう、俺の心は限界に近い。
そう。それは俺の願いだった。
神だか仏だか、よくわからないものに縋った、俺の混迷そのままの願い。
――だからだろうか。
それを強欲と見做されて、この後、あんなことになってしまったのだろうか。
駄目だったんだ。
いけなかったんだ。
確かに神様は、時たま、気まぐれに、俺たちの願いを叶えてくれる。それで救われる奴も大勢いる。
でも、それはたった一度きりなんだ。
俺はもう、忘れてしまっているけれど。
既に一度、願いを叶えてもらっている。ギフトを手にしている。
だから、俺にはもう。
何かを願うことすら、許されてはいなかった。
「ごめん……ごめんね、冬馬君」
腕の中で、朱里が小さく、そう呟く。
桃色の髪に隠れ、俯いたその表情は見えない。でも悲しみに満ちていた。
もしかしたら泣いているのかもしれない。紛れもなく、俺のために。
「もっとうまくやれるはずだったの。ちゃんとできるはずだったの」
悔恨のような、それは朱里の独白だった。
「冬馬君を守りたかった。その思いを守りたかった。例えあなたが、違う方向を向いていたとしても。それだけは、確かな私の思いなの」
「朱里……」
かける言葉が見つからなかった。朱里は全てわかった上で、俺を助けてくれていたのだろうか。凛子の時も、詩莉さんの時も、今も。あんなに、こんなに傷を負って。
でも、じゃあどうして、蓮さんを――。
「初めてだった。初めて人を好きになれたの。壊したくないと思った。だからがんばって、我慢できた」
俺にはもう、よくわからなかった。何が、誰が正しくて、間違っているのか。そもそもが、人の思いに正解なんてあるのか。
朱里の思いは純粋だ。そんなこととっくの昔にわかっていた。彼女はただただ、俺を愛おしく思ってくれている。背中越しにそれが伝わってくる。
だからこそ、ずっと我慢してくれていたんだ。
――
――――
――――――
――――――――
――――――――――何を?
ぞくりとした感触が俺の心臓を撫でた。
聞き逃してはならない言葉があった。
「でもね、やっぱり無理みたい。わかってくれるよね? 本当はこんなこと、したくないんだけど。でも――」
くるりと、こちらを振り返る朱里。
その顔に。
まったくもって何ひとつ、似てやしないのに。
その、羽虫を潰す子供のような、無邪気な笑顔に。
「――――しょうがないよね?」
あの日の千景の笑みが、重なる。
「――――――っ」
言葉が出ない。強張った体が動かない。
俺の腕を優しく剥がし、前に進む朱里。
駄目だ。止めなければ。そう思っているのに、指先ひとつ動かせない。
あの日の光景が浮かぶ。暴走した少女の記憶を〈忘却〉させ、場違いなほど晴れやかに笑う千景の姿が。
それは、俺の記憶の根底に刻み込まれた、根源的な恐怖だった。
「あら? 終わりじゃなかったの?」
再び立ち塞がった朱里に、蓮さんが疑問を投げかける。
「うん。合ってるよ。今から、ちゃんと――終わりにするから」
言葉尻に合わせて。
朱里が掌を、自身の頭に向ける。
いつか見た挙動。放たれる衝撃に揺れる桃色の髪。そうだ、朱里にはまだそれがあった。
脳部のリミッターの〈破壊〉による、言わば強制的な限界突破。千の刃を余すところなく壊しきるほどの、圧倒的な処理速度の解放。
何故最初からそれを使わなかったのか。脳にかかる負担を懸念して、温存していた?
――いや、違う。
本当はこんなこと、したくないんだけど――。
それは、俺に向けられた言葉だった。
そんなつもりはなかった。でも、このままでは対処できないから。俺に危険が迫っているから。
仕方なくそうするのだと。
俺に向けて、朱里は体裁を取り繕ったのだ。
「あなたの〈再生〉。何を起点に作用してるかわからないから、全部いくね」
両手を突き出し、朱里がイメージの構築を始める。その周囲の空間がチリチリと疼くように震えを帯びる。
ギフトの余波が漏れ出していた。それほどの大がかりな技を行使するつもりだ。
「時間と空間と位相と概念と繋がりと――とにかく、全部全部!」
ただ一点に、対象に向けて全てを集約する朱里の視線。ぎりりと引き締まるその目端から、滲むように赤色が流れて頬を伝う。
処理能力を超えたイメージ構成が、負荷となって現れていた。膨大な力の高まり。人の身を超えし、それは正に神の領域に届き得る御技。それが、臨界を迎え。
「壊し――――尽くせっっっっ!!」
暴虐が放たれる。一直線に、空間ごと削りながら。
全てを飲み込み、喰らい尽くす。
「あ――――/
それは蓮さんの、言葉すら飲み込んで。
そして世界の一部が。
完全に、消滅した。
静かだった。
あらゆる存在が、概念が消え失せていた。
朱里の極大の一撃が通り過ぎた先。その進路上にあった、名前のある全てのものが、この世界から抹消されていた。
壁に空いた大穴から、宵闇の空が覗く。それは暗闇であったが、確かに闇としてそこに存在していた。
俺は見た。一瞬だけだったが、そこからは世界そのものが失われていた。闇ではない。完全なる無だ。本当に何もないということ。
森の中ではない。夜の闇の中でもない。ましてや、四分三十三秒の最中でもない。何もないが故に表現することすらできない。
ただひたすらの静謐。
それこそが、本当の意味で静寂と呼ぶべきものだった。
あらゆるものが失われた。世界すら。
当然。
そのただ中にあった、少女の存在も。
初めから彼女の存在などなかったのではないかと。そう錯覚してしまうほど、綺麗さっぱりと。
ただ、床に残された夥しい量の赤色が、確かについ先ほどまで彼女がそこにいたことを示していた。
「もう、大丈夫だよ」
響く優しげな声。
桃色の少女。視界がブレる。過去を映し出す。そこに重なる、真っ白な少女の影。
「これでもう、誰も冬馬君を傷つけない」
女神の、否。
それは死神が如き、深淵から覗く微笑。
「やっと――――二人きりになれたね」
俺は絶叫を上げた。




