空っぽの平穏
これからどうすればいいのか、私にはまったくわかりませんでした。心にも体にも異常はないのだから、何食わぬ顔で普段どおりの生活に戻ればいいのでしょうが。
あれだけの大きな事故があったのです。先生が教えてくれたところによると、精神に異常を来した犯人が特に理由もなくバスジャック事件を起こし、感情のままに運転手を殺害して暴走。警察とのカーチェイスの末に、濡れた路面にハンドル操作を誤って私たちの車に衝突した、というのが事の顛末らしく。
当然、大きなニュースになりましたし、新聞の一面をも飾りました。そして僅かな生き残りがいることも。
つまりは、世間的には私は悲劇から生還した憐れな少女であり。
周囲との認識の齟齬が危ぶまれるのでした。
「マスコミが押し寄せてきたりしても困るだろうからね。ギフト関連で祝福省の手続きもあるし、しばらくはここにいるといいよ」
先生はそう言ってくれましたので、私は騒ぎが沈静化するまで、この病院で大人しくしていることにしました。その間に、今後の身の振り方を考えることにします。
お見舞いの申請が何件かありましたが、同じ理由で私は全て断りました。せめてもう少し時間を置かないと、私の態度は不自然に映ってしまうでしょうから。
友人や学校の担任には、まだ精神的に不安定だからと病院側から説明してもらいました。親族はいるにはいるのですが、かなり遠方のためこちらも電話で事情を説明してもらいました。
困ったのは犯人のご両親の対応です。とても凶悪事件を起こした犯人の親御さんとは思えぬほど、常識的で善良な方たちだったらしく、どうにか謝罪を、と食い下がってくるのを押し止めるのに、職員さんたちはだいぶ苦労したようです。
私としては、悲しみがないのですからもちろん憎しみもありません。それも犯人でもなく、その親御さんともなれば、最早私にとっては無関係な存在であるように思えました。
数日後に、祝福省の職員を名乗る女性がやってきました。紫色の髪と瞳をしているので、彼女もギフテッドなのでしょう。事前に詳細は聞いていたようで、手続きは滞りなくスムーズに進みました。
ギフテッドとしての登録。その社会における立場と扱い。注意しなければならないこと。諸々の説明を受け、教科書ほどの厚さの冊子を貰った後、最後に、と前置いて彼女は言いました。
「すぐには考えられないと思うけど、もし良かったら祝福省で働いてみないかしら? 特に祝対は、あなたみたいな……その、言い方は悪いかもしれないけれど、命の心配がないギフテッドは喉から手が出るほど欲しがっているの。体験入省の制度もあるわ。無理強いは絶対にしないけど、頭の片隅にでも覚えておいてちょうだい」
祝対。祝福省の中でも、暴走ギフテッドの対応を専門にする部署だと、彼女は教えてくれました。場合によっては危険な任務もあり、殉職者が出ることもあると。なるほど私の〈再生〉は、正にその実務にはうってつけのギフトでした。
さして運動神経のいい方ではない私が、どれだけ役に立てるかはわかりませんが。特にやりたいこともない今、ギフテッドとなったからには、そういう道を選ぶのもいいのかもしれません。
さらに数日の間に、お役所関連の事務処理を済ませます。そうすると、私にはもうやることがなくなってしまいました。
学校に戻ろうにも、もう一月もしない内に卒業シーズンを迎えてしまいますし、微妙な時期でした。幸いにして、私の通う御門学園は小中高一貫のエスカレーター式であり、私の学業成績も申し分ないものであったため、進学には問題なく。
また入院費などの金銭的な面でも、両親の残してくれた貯金や保険金が充分にあり。加えて、犯人の親御さんがせめてこれぐらいは、と提示してきた慰謝料がかなりの額であったため、当面は心配いりませんでした。特に犯人への感慨はないのですが、貰えるものは貰っておきましょう。我が家の――とは言っても私ひとりだけですが、金額的には一般家庭に匹敵する――エンゲル係数的にも。
つまるところ、私は暇を持て余していました。そんな折に、先生からひとつ提案を持ちかけられます。
「もうひとりの助かった女の子なんだけどね。とりあえず普通に動けるぐらいには回復したんだが、やはりショックが大きく塞ぎ込んでしまっていてね。よければ話し相手になってやってくれないかな?」
聞けば、その子も両親を一度に失ってしまい、頼る親戚筋もなく、しばらくしたら養護施設に預けることになるそうで。
まだ小学校の低学年らしく、可哀想なことです。特に断る理由もないため、私は引き受けることにしました。悲しみを共有できない私には、傷を舐め合うこともできませんが、多少の気晴らしにでもなればいいとの思いで。
同じ階の、二つとなりの病室。本当は四階の五階、五一五号室。
ベッドに座る女の子は、虚ろな目をしていました。散々に泣き腫らし、感情を奔流の如く溢れさせた後であろう、空っぽの瞳。顔にも体にもぐるぐるに包帯が巻かれており、その下に隠された傷の酷さを物語っていました。
ウィキペディアの参考画像にできてしまいそうな、それは明らかな絶望の表情。膨大な悲しみが通り過ぎた果て。悲しみを失った私でも、この子に憐憫の情を感じることはできました。だってそれは、私の傷ではないから。
まだこんなに小さいのに。この子はこれから、ひとりで生きていかなければならないのです。心と体に、大きな傷を抱えて。
あまりにも不憫でした。できることなら、この子を治してあげたい。せめて体の傷だけでも。
そう思い、なんとはなしにその頬に手を添えた――瞬間。
私の体から、何かが流れていくのを感じました。腕を伝い、掌を伝い、その子の体へと。熱を伴って。
不可思議な感覚に、その子の顔を見つめます。強烈な違和感。包帯の隙間から覗いていた、酷い傷跡。それが――。
逸る気持ちを抑え、包帯を丁寧に剥がします。そこに露わになったのは。
傷ひとつない、可愛らしい少女の顔でした。
衝撃が私を貫きます。何が起きたのか、考えるまでもありません。
私の〈再生〉が、少女にも効力を及ぼしたのです。一生残るはずの傷を、綺麗に消し去ったのです。
少女を――救ったのです。
黒い、黒い感情が溢れるように湧き上がってきます。私の中の、いちばん深いところから。
おそらくそれは、私のギフトの副作用というか、おこぼれのようなものなのでしょう。触れたものに意識を込めることで、その傷を〈再生〉する、本質からは離れた効果。
その事実は、少女の絶望を幾らか癒やし。
代わりに、私に深い痛みを与えてきます。
何故なら。
あの日。
自分だけを救った醜い願いを認めたくなくて、意識を閉ざした、あの時。
まだ動いていた妹。息のあった妹。臆することなく、その体に触れていれば。救いたいと、願っていれば。
あの子は、助けられたのです。
駆け寄れたはずです。寄り添えたはずです。それができる力を持ちながら。
あの子は、私が見捨てたも同然でした。
そして。
この絶望すら、長くは続きません。
心の傷を認識した途端に、それは急速に失われていきます。癒やされていきます。
私の、大切な感情。悲しみの権利。それが、奪われていきます。
やめて。
私の悲しみを。
私の涙を、奪わないで――――!
そう、悲痛を漏らした、次の瞬間には。
私の心は、空っぽのまま凪いでいるのでした。
悲しみのない世界を作りたい。
いつか読んだ小説の主人公は、そんなことを言っていました。でも、それは間違いです。
悲しみのまったくない世界は、イコール幸福な世界ではないのです。
それは大切な感情です。悲しみが存在しなければ、誰しも幸福の価値を忘れてしまいます。それが当然になります。
その先に待っているのは破滅です。無限に続く幸福に、人は耐えられないのです。
そこは狂いの蔓延る世界となるでしょう。世の人が全て聖人であるならば、そこは地獄となんら変わりないのです。
だから私には、もうこの世界に居場所がないように思えました。悲しみを持続できない私は、世界との繋がりをうまく感じ取れません。果たしてそんな存在に、生きる意味などあるのでしょうか?
しかしながら、積極的に死にたいとも思えません。残っているのは惰性でした。私は残りの人生を、空虚な心のまま過ごしていくのかもしれません。意思なき人形のように。
それに、そもそもが、私は死ぬことができるのでしょうか?
祝福省の職員さんの話では、私の〈再生〉は稀に見る規格外の性能であるようです。それには効能もさることながら、このギフトが自己矛盾を孕んだ常駐型であることが関係しています。
通常、ギフトの行使には精神力が消費されます。なんとも言い表しにくいのですが、心に負荷をかけ、それが少し薄くなるイメージ、というのが近いでしょうか。
私の場合も、〈再生〉させる対象の規模に応じて、精神力が使われるのですが。どうやらその損耗自体を、私は傷、異常と認識しているらしく。
使うそばから、精神力が補充されてしまうのでした。それも自動的に。
言うなれば、一種の永久機関のようなものです。不死身の化物と呼んでも差し支えありません。
矛盾だらけの怪物が、ここにできあがってしまったのです。
どうすれば私は死に至るのか。私にはそれを知っておく必要があるように思えました。
だから、実験をしてみることにしました。死にたいわけではありませんが、例えそれで死んでしまっても、それはそれで仕方ないのではないかと思えたのです。
予め拝借しておいた鍵を使って、夜中の屋上に忍び込みます。そして転落防止の金網を乗り越え、まだ寒い風の吹き荒ぶ中、ひょいっと宙空に身を投げ出しました。水泳の授業で、プールの台座から飛び込むように。
体で風を切る感覚。目まぐるしいほどのスピード。近づいてくる地面。
衝突の瞬間を、感じられたかどうか。痛みはあったようななかったような。そこで一旦、意識が途切れます。
意識が戻り、やはり死ななかったかと、周囲を見渡すと。
大変なことになっていました。
ええ、それはもう。
久しぶりに、心が大慌てになりましたとも。
後処理は、もっと大変でした。先生や看護師さんに大目玉を食らいました。
なんとかかんとか、事態を落ち着かせて。
もう安易にあんなことをするのは、やめておこうと思いました。
物理的なダメージが駄目ならと、別のアプローチを考えます。
普通に考えて、人間の生きてはいけない環境――例えば水の中や土の中に埋もれるというのはどうでしょうか?
――うん、駄目です。たぶん死ねません。
散々に苦しんでは〈再生〉を繰り返して、先に気が狂うのがオチです。最早不死身の吸血鬼みたいな存在です。銀の弾丸もにんにくも効きませんが。にんにくはむしろ好物です。
好物。食べ物。そうだ、絶食による餓死ならばどうでしょう?
自分を動けなくして、何も食べない状態を続ければ――――。
――――。
――――。
はっとして、自分が気を失っていたことに気づきます。
傷ついた心が空っぽに戻っていました。またもや〈再生〉が自動的に効力を発揮したのです。
絶食を想像しただけで、私の心は甚大なダメージを受けていました。
これは駄目です。やめておきましょう。生への執着が薄れてしまった私ですが、どうやら食べ物への執着だけはどうあっても捨てられないようです。我ながら、恐るべきほどの食い意地でした。
他に良案は浮かばなかったので、仕方なくこの件は保留にします。まぁ、元々暇潰しの意味合いが大きかったので、さしたる問題はありません。
それにもうそろそろ、世間では春休みが終わりに近づきます。同じ学園とはいえ、中等部から高等部に上がるのですから、色々と準備が必要でしょう。
一時の仮宿から、この病院から去る時が近づいていました。
そしてその前に、ひとつだけやることがありました。




