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デッドハーレム  作者: fumo
第1章 願いと狂いと迷いと呪い
57/118

悲しみの権利

 平和で平穏で、平凡な日常。

 それが私の――三枝蓮の生きる世界でした。

 たぶん他の皆さんと比べても、私の人生は最も恵まれて、最も幸福なものだったと思います。

 詩莉さんや環ちゃんのように、格式高い家のしがらみに縛られることもなく。

 朱里ちゃんや凛子ちゃんのように、何やら重苦しい思いを抱えているわけでもなく。

 父と母、それに私と妹の四人家族で、穏やかな生活を送っていました。


 ひとつだけ、後悔があります。もう終わったこと。今さら望むべくもないことなので、私の中では既に折り合いを付けていますが。

 誰しもが抱えている、僅かな後悔です。世の中に溢れる陰惨な悲劇に比べれば、埋没して然るべきよくある不幸。でも。


 もし、もう一度だけ。

 神様が、私の願いを聞いてくれるのなら。

 やはり私は、あの時に戻らせてほしいと、そう願うのでしょう。


 





 中学三年生の、冬のことです。

 父の休みに合わせて、車で食事に出かけたその日。

 薄っすらと雪の降る中、私たち一家はいつもの席配置でレストランに向かっていました。

 運転席に座る父と、後部座席の真ん中に母。その両隣りに私と妹。私は父も母も大好きでしたが、特にいつも優しい穏やかな母にはべったりでした。反抗期のようなものもなく、それこそ四六時中、私は母にくっついていました。

 そして、それは妹も同じでした。


 姉妹間の仲は良好だったと思います。ひとつ年下の妹。母似の私と父似の妹は、性格こそ全く違えど、同じ食べ物が好きで、同じアイドルに憧れる、互いに気の合う存在でした。

 ですが母のこととなると、 そうはいきません。なにせ母はひとりしかいませんでしたので、時に私たちは母の隣を巡って子供らしい喧嘩をしました。母の気を引こうと口さがなく喋り、どちらがうまく料理を作れるかと競い、一緒にお風呂に入る順番で揉めました。


 それでも、そんなことも含めて私たちは仲良く過ごしていました。決して嫌い合っていたわけではなく、少しだけ嫉妬心が強かったという、それだけのことです。おそらくもう少し時間が経てば、自然と適切な距離を見極め、どちらともなく自己を確立し、母離れができていたのでしょう。

 ただその前に、偶然の凶事が私たちを見舞ったのです。


 けたたましいサイレンの音に、車内に不穏な空気が流れます。前方、植え込みを挟んだ対向車線のずっと先から聞こえてくる、不安を掻き立てる警報。(すが)るように、母の服の裾を掴んだのを覚えています。


 時を経ずして、大型のバスがものすごいスピードで走ってくるのが見えました。そして次の瞬間には、その大きな車体が植え込みを乗り越え、私たちの乗るワゴンへと向かってきたのです。

 父は慌ててハンドルを切ろうとしましたが、時既に遅く。衝突は避けられませんでした。


 その刹那、私はスローモーションのように、状況を鋭敏に知覚していました。見てしまいました。

 迫る車体が視界にいっぱいになる、直前。

 母が、妹を見て。私を見て。

 そして惑いの表情のまま、妹を抱き締め、その体に守るように覆い被さったのを。


 衝撃が体を揺らし。

 失望が心を揺らしました。

 ぐるんぐるんと回る世界は、果たして現実のことだったのか、それとも私の心象風景だったのか。


 辛うじて保っていた意識の中。

 周囲を見渡すと、そこは山林のようでした。バスに車体ごと押し出され、ガードレールを突き破って転げ落ちたのでしょう。しんしんと降り積もる雪に化粧を施された、白い木々の並ぶ静寂な空間。


 体を動かそうとして、でも私の手足は一向に言うことを聞いてくれません。いえ、そもそも。

 その少なくとも半分は、車両の残骸に押し潰されて、ぐちゃぐちゃになっていました。とてもとても痛いはずなのに、何故か私には何も感じられませんでした。ああ、私はもうすぐ死ぬんだな、と思いました。

 でも、そこで。


 視界の端に映る、二つの人型を見つけて。

 ぴくりとも動かない母だったものと、その腕の中で、血塗れになりながらも痙攣するように身じろぎする妹。

 選ばれ、守られた妹の姿を見てしまって。


 私は願いました。

 ああ、どうか。

 神様、どうか、私を。

 ()()、助けてください、と。


 光が満ちていくのを感じました。

 みるみるうちに、私の欠損が補われていくのがわかりました。

 私は助かったのです。

 私の願いのままに。

 私だけが助かればいいという、醜い思いのままに。


 そんな自分を認めたくなくて。

 醜悪な心を、誰にも見られたくなくて。

 そこで、私の意識は闇の中に沈みました。
























 次に目が覚めると、そこは病院のベッドの上でした。

 真っ白な部屋でした。壁も天井も、床も窓枠もカーテンも、全てが病的なまでに白で統一された、彩りのない部屋。

 それは、まるで私の心の内を表したような色彩でした。

 記憶ははっきりとしています。何があって、どうなったのか、私は明確に覚えています。

 だというのに、私の心は柔らかな風の吹く草原のように、静かに凪いでいたのです。


 しばらくぼおっとしていると、ノックの後に看護師さんが入ってきました。そして体を起こしている私を見ると、優しい笑顔で声をかけてくれてから、ベッドに備え付けの電話でお医者様を呼びました。

 すぐに現れたお医者様は、同じく優しい顔で私にいくつかのことを聞いてきました。どこか痛いところはないか、体におかしいところはないか、気分が優れなかったりはしないか。

 その全てに私はいいえと答えました。お医者様は、私がそう答えるのをわかっていたかのように、ゆっくりと頷きを返してきました。


「三枝さん、君は自分に何が起こったのかを、理解しているようだね?」


「はい」


 それは、事故のことを言っているのではありません。

 私のこと。私に起きた変化のことです。


「私は願いました。生きたいと。私を助けてほしいと。私を、治してほしいと」


 そして、その願いは届いたのです。他ならぬ、神様のところまで。


「私は――ギフテッドになったのだと思います」


 学校の授業で習いました。この世界には神様のような存在がいて、稀に私たちの願いを聞き届けてくれることがあると。


「よろしい。では、あとひとつだけ、質問に答えてほしい。君の願った思い。それは言葉で表せるはずだ。自然と頭に浮かんでくるはずだ。センテンスで、あるいはもっと端的な言葉で。君の願いの言葉、それを教えてほしい」


 私の、願いの言葉。

 そう意識すると、それはするりと頭の中から浮かび上がり、すとんと胸の奥に落ちてきました。初めからそこにあったかの如く、ぴたりと当て嵌まりました。


〈再生〉(リジェネレイト)


「……なるほどね。シングルか、どうりで」


 私の答えに、お医者様は少し驚いた様子でそう言いました。


「合点がいったよ。いいかい、君のギフトはとても希少で強力なものだ。大事故だった。君の家族とバスに乗っていた犯人、乗員乗客合わせて総数十九名。その内、助かったのは君ともうひとり、小さな女の子だけだ。その子にしたって、辛うじて一命は取り留めたものの、全身に酷い傷を負った。一生消えない、大きな傷だ。そんな中、君だけが無傷で生還した。いや、生き返った、と言うべきか。そんな奇跡を成してしまうのが、君の得たギフトなんだ」


 お医者様の言葉を、私はすんなりと受け入れることができました。元よりそれは私の願いです。ギフトを発現するほどの、強い感情の発露。自分だけが助かりたいという、醜く浅ましい願い。


 そして、その願いに名前が付いたことで、私の疑問は確信に変わります。そういうことだったのか、と。


「その様子だと、君は自身のもうひとつのおかしさも、きちんと認識しているようだね。それは大事なことだ。今後ギフテッドとして生きていかなければならない君にとっては。だから今ここで、僕が言葉にしておこう」


 優しい人でした。それは本来、私が自分でやらなければならないことです。身を突き刺す痛みを携えて。

 きっと、多くの患者さんから慕われている、素敵な先生なのでしょう。私の痛みを理解して、それが少しでも軽くなるように、嫌われ役を買って出てくれようとしています。


「三枝さん。僕はね、ここでたくさんの悲しみを見てきた。少女たちの深い憂いと嘆きに接してきた。どうしようもない窮地に立たされて、絶望の末にようやく願いを叶えてもらって、それでも救われなかった、悲哀の体現たる彼女たちに。

 ギフトとは願いによって降りる。でもね、必ずしもそれが救いになるとは限らないんだ。人の思いとはかくも複雑なものだからね。神様だってそれを読み違えることはある。それに、絶望が一度とは限らない。また別の種類の悲劇に襲われることだってあるだろう。そして僕の知る限り、願いを二つ叶えたという例は聞いたことがない。それは一度きりなんだ。誰しもが可能性を与えられてはいるが、その機会はひとりにつき一度だけ。たったひとつだけの願いを、神様は叶えてくれる。

 あるいはギフテッドになったことによって、また新たな悲しみを背負ってしまうことすらある。昔に比べればだいぶマシになってきたけれどね、まだまだこの社会は、ギフテッドにとって住み良い環境であるとは言い難い。差別や迫害は、言葉や在り方を変えただけで、まだ世界に深く根付いている。

 とかく、ここに来る少女たちは、皆が何かしらの悲しみを抱えている。例外なく。それが。

 それが、君にはない」


 先生の言うとおりでした。私の心に、悲しみは訪れていません。いえ、正確には。


「一度に家族全員を失ったというのに、君に悲しみに暮れている様子はない。まだ思春期の少女だ。そんなことは普通はあり得ない。そして普通ではないことが起こった。

 君のギフト。〈再生〉(リジェネレイト)。恣意的な行使ではないようだから、常駐型だろう。おそらくその効能は、君の肉体だけではなく、精神にも――心の傷にも作用している」


 そう、つまりはそういうことなのでしょう。家族を失った悲しみは、確かにあったはずです。しばらく、もしくはもっと長い間、塞ぎ込んでしまうほどの悲しみが。

 それを、私のギフトは癒やしてしまったのです。なくしてしまったのです。本来なら、長い時間をかけて治していくはずの、私の一部として取り込んでいくはずの、それは大事な思い。

 悲しみといえど。それは私が受け止めるべきだった、大切な感情でした。それを昇華する機会を、私は永遠に失ってしまったのです。


 矛盾していると思いました。「悲しみを失う」という悲しみが、そこには残っていたからです。でも違いました。その感情は、悲しみなんかではありませんでした。


 それは、呪いと呼ぶべきものでした。

 持続できない。

 もう二度と手に入れられない。

 心の奥に、しまっておくことができない。

 未来永劫、何度も何度も失い続けるという、煉獄の呪い。

 







 そうして。

 神様に願った、奇跡の代償に。


 私は悲しみを得る権利を。

 涙を、永遠に失ってしまったのです。

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