悲しみの権利
平和で平穏で、平凡な日常。
それが私の――三枝蓮の生きる世界でした。
たぶん他の皆さんと比べても、私の人生は最も恵まれて、最も幸福なものだったと思います。
詩莉さんや環ちゃんのように、格式高い家のしがらみに縛られることもなく。
朱里ちゃんや凛子ちゃんのように、何やら重苦しい思いを抱えているわけでもなく。
父と母、それに私と妹の四人家族で、穏やかな生活を送っていました。
ひとつだけ、後悔があります。もう終わったこと。今さら望むべくもないことなので、私の中では既に折り合いを付けていますが。
誰しもが抱えている、僅かな後悔です。世の中に溢れる陰惨な悲劇に比べれば、埋没して然るべきよくある不幸。でも。
もし、もう一度だけ。
神様が、私の願いを聞いてくれるのなら。
やはり私は、あの時に戻らせてほしいと、そう願うのでしょう。
中学三年生の、冬のことです。
父の休みに合わせて、車で食事に出かけたその日。
薄っすらと雪の降る中、私たち一家はいつもの席配置でレストランに向かっていました。
運転席に座る父と、後部座席の真ん中に母。その両隣りに私と妹。私は父も母も大好きでしたが、特にいつも優しい穏やかな母にはべったりでした。反抗期のようなものもなく、それこそ四六時中、私は母にくっついていました。
そして、それは妹も同じでした。
姉妹間の仲は良好だったと思います。ひとつ年下の妹。母似の私と父似の妹は、性格こそ全く違えど、同じ食べ物が好きで、同じアイドルに憧れる、互いに気の合う存在でした。
ですが母のこととなると、 そうはいきません。なにせ母はひとりしかいませんでしたので、時に私たちは母の隣を巡って子供らしい喧嘩をしました。母の気を引こうと口さがなく喋り、どちらがうまく料理を作れるかと競い、一緒にお風呂に入る順番で揉めました。
それでも、そんなことも含めて私たちは仲良く過ごしていました。決して嫌い合っていたわけではなく、少しだけ嫉妬心が強かったという、それだけのことです。おそらくもう少し時間が経てば、自然と適切な距離を見極め、どちらともなく自己を確立し、母離れができていたのでしょう。
ただその前に、偶然の凶事が私たちを見舞ったのです。
けたたましいサイレンの音に、車内に不穏な空気が流れます。前方、植え込みを挟んだ対向車線のずっと先から聞こえてくる、不安を掻き立てる警報。縋るように、母の服の裾を掴んだのを覚えています。
時を経ずして、大型のバスがものすごいスピードで走ってくるのが見えました。そして次の瞬間には、その大きな車体が植え込みを乗り越え、私たちの乗るワゴンへと向かってきたのです。
父は慌ててハンドルを切ろうとしましたが、時既に遅く。衝突は避けられませんでした。
その刹那、私はスローモーションのように、状況を鋭敏に知覚していました。見てしまいました。
迫る車体が視界にいっぱいになる、直前。
母が、妹を見て。私を見て。
そして惑いの表情のまま、妹を抱き締め、その体に守るように覆い被さったのを。
衝撃が体を揺らし。
失望が心を揺らしました。
ぐるんぐるんと回る世界は、果たして現実のことだったのか、それとも私の心象風景だったのか。
辛うじて保っていた意識の中。
周囲を見渡すと、そこは山林のようでした。バスに車体ごと押し出され、ガードレールを突き破って転げ落ちたのでしょう。しんしんと降り積もる雪に化粧を施された、白い木々の並ぶ静寂な空間。
体を動かそうとして、でも私の手足は一向に言うことを聞いてくれません。いえ、そもそも。
その少なくとも半分は、車両の残骸に押し潰されて、ぐちゃぐちゃになっていました。とてもとても痛いはずなのに、何故か私には何も感じられませんでした。ああ、私はもうすぐ死ぬんだな、と思いました。
でも、そこで。
視界の端に映る、二つの人型を見つけて。
ぴくりとも動かない母だったものと、その腕の中で、血塗れになりながらも痙攣するように身じろぎする妹。
選ばれ、守られた妹の姿を見てしまって。
私は願いました。
ああ、どうか。
神様、どうか、私を。
私を、助けてください、と。
光が満ちていくのを感じました。
みるみるうちに、私の欠損が補われていくのがわかりました。
私は助かったのです。
私の願いのままに。
私だけが助かればいいという、醜い思いのままに。
そんな自分を認めたくなくて。
醜悪な心を、誰にも見られたくなくて。
そこで、私の意識は闇の中に沈みました。
次に目が覚めると、そこは病院のベッドの上でした。
真っ白な部屋でした。壁も天井も、床も窓枠もカーテンも、全てが病的なまでに白で統一された、彩りのない部屋。
それは、まるで私の心の内を表したような色彩でした。
記憶ははっきりとしています。何があって、どうなったのか、私は明確に覚えています。
だというのに、私の心は柔らかな風の吹く草原のように、静かに凪いでいたのです。
しばらくぼおっとしていると、ノックの後に看護師さんが入ってきました。そして体を起こしている私を見ると、優しい笑顔で声をかけてくれてから、ベッドに備え付けの電話でお医者様を呼びました。
すぐに現れたお医者様は、同じく優しい顔で私にいくつかのことを聞いてきました。どこか痛いところはないか、体におかしいところはないか、気分が優れなかったりはしないか。
その全てに私はいいえと答えました。お医者様は、私がそう答えるのをわかっていたかのように、ゆっくりと頷きを返してきました。
「三枝さん、君は自分に何が起こったのかを、理解しているようだね?」
「はい」
それは、事故のことを言っているのではありません。
私のこと。私に起きた変化のことです。
「私は願いました。生きたいと。私を助けてほしいと。私を、治してほしいと」
そして、その願いは届いたのです。他ならぬ、神様のところまで。
「私は――ギフテッドになったのだと思います」
学校の授業で習いました。この世界には神様のような存在がいて、稀に私たちの願いを聞き届けてくれることがあると。
「よろしい。では、あとひとつだけ、質問に答えてほしい。君の願った思い。それは言葉で表せるはずだ。自然と頭に浮かんでくるはずだ。センテンスで、あるいはもっと端的な言葉で。君の願いの言葉、それを教えてほしい」
私の、願いの言葉。
そう意識すると、それはするりと頭の中から浮かび上がり、すとんと胸の奥に落ちてきました。初めからそこにあったかの如く、ぴたりと当て嵌まりました。
「〈再生〉」
「……なるほどね。シングルか、どうりで」
私の答えに、お医者様は少し驚いた様子でそう言いました。
「合点がいったよ。いいかい、君のギフトはとても希少で強力なものだ。大事故だった。君の家族とバスに乗っていた犯人、乗員乗客合わせて総数十九名。その内、助かったのは君ともうひとり、小さな女の子だけだ。その子にしたって、辛うじて一命は取り留めたものの、全身に酷い傷を負った。一生消えない、大きな傷だ。そんな中、君だけが無傷で生還した。いや、生き返った、と言うべきか。そんな奇跡を成してしまうのが、君の得たギフトなんだ」
お医者様の言葉を、私はすんなりと受け入れることができました。元よりそれは私の願いです。ギフトを発現するほどの、強い感情の発露。自分だけが助かりたいという、醜く浅ましい願い。
そして、その願いに名前が付いたことで、私の疑問は確信に変わります。そういうことだったのか、と。
「その様子だと、君は自身のもうひとつのおかしさも、きちんと認識しているようだね。それは大事なことだ。今後ギフテッドとして生きていかなければならない君にとっては。だから今ここで、僕が言葉にしておこう」
優しい人でした。それは本来、私が自分でやらなければならないことです。身を突き刺す痛みを携えて。
きっと、多くの患者さんから慕われている、素敵な先生なのでしょう。私の痛みを理解して、それが少しでも軽くなるように、嫌われ役を買って出てくれようとしています。
「三枝さん。僕はね、ここでたくさんの悲しみを見てきた。少女たちの深い憂いと嘆きに接してきた。どうしようもない窮地に立たされて、絶望の末にようやく願いを叶えてもらって、それでも救われなかった、悲哀の体現たる彼女たちに。
ギフトとは願いによって降りる。でもね、必ずしもそれが救いになるとは限らないんだ。人の思いとはかくも複雑なものだからね。神様だってそれを読み違えることはある。それに、絶望が一度とは限らない。また別の種類の悲劇に襲われることだってあるだろう。そして僕の知る限り、願いを二つ叶えたという例は聞いたことがない。それは一度きりなんだ。誰しもが可能性を与えられてはいるが、その機会はひとりにつき一度だけ。たったひとつだけの願いを、神様は叶えてくれる。
あるいはギフテッドになったことによって、また新たな悲しみを背負ってしまうことすらある。昔に比べればだいぶマシになってきたけれどね、まだまだこの社会は、ギフテッドにとって住み良い環境であるとは言い難い。差別や迫害は、言葉や在り方を変えただけで、まだ世界に深く根付いている。
とかく、ここに来る少女たちは、皆が何かしらの悲しみを抱えている。例外なく。それが。
それが、君にはない」
先生の言うとおりでした。私の心に、悲しみは訪れていません。いえ、正確には。
「一度に家族全員を失ったというのに、君に悲しみに暮れている様子はない。まだ思春期の少女だ。そんなことは普通はあり得ない。そして普通ではないことが起こった。
君のギフト。〈再生〉。恣意的な行使ではないようだから、常駐型だろう。おそらくその効能は、君の肉体だけではなく、精神にも――心の傷にも作用している」
そう、つまりはそういうことなのでしょう。家族を失った悲しみは、確かにあったはずです。しばらく、もしくはもっと長い間、塞ぎ込んでしまうほどの悲しみが。
それを、私のギフトは癒やしてしまったのです。なくしてしまったのです。本来なら、長い時間をかけて治していくはずの、私の一部として取り込んでいくはずの、それは大事な思い。
悲しみといえど。それは私が受け止めるべきだった、大切な感情でした。それを昇華する機会を、私は永遠に失ってしまったのです。
矛盾していると思いました。「悲しみを失う」という悲しみが、そこには残っていたからです。でも違いました。その感情は、悲しみなんかではありませんでした。
それは、呪いと呼ぶべきものでした。
持続できない。
もう二度と手に入れられない。
心の奥に、しまっておくことができない。
未来永劫、何度も何度も失い続けるという、煉獄の呪い。
そうして。
神様に願った、奇跡の代償に。
私は悲しみを得る権利を。
涙を、永遠に失ってしまったのです。




