環の、意味
子は親を選べない。それはこの世の不文律である。
もしも選べるのだとしても、どうせ後になってなんらかの不満は出てくるのだろう。完璧な親など存在しない。完璧な人間がいないように。
隣の芝生はいつだって青い。
私の――御門環の産まれた家は、いわゆる土地の名家であった。古く遡れば、かの陛下の血筋とも交わりがあったという、由緒正しき、荘厳たる名門。
歴史が流れ、いつの頃からか、御門家は教育者としての側面を持つようになった。発端は皇家の教育係を務めたご先祖らしい。将来、国を支え得る人材を育成するエキスパート集団として、御門家は繁栄を極めた。その評価は高く、今では財界や政界にも御門の教えを受けた者が多数名を連ねている。
故に、その進路は教育者一択。教師が最も多く、次いで各分野での習熟を極め、先導者となることが、御門の一族には期待された。
例に漏れず、私の歩む道にも、物心ついた時から歪みないレールが敷かれていた。
私に示された道は、ギフテッドの先導者。
様々な分野の人材を輩出している御門家だが、唯一ギフトに関する人材だけは、ただのひとりも生み出せていなかった。超常の力を振るうギフテッドは、時に努力の結晶たる御門の人間を嘲笑うように、あっさりと大きな功績を残した。それが御門家には我慢ならなかった。
そこで、私に白羽の矢が立てられた。ギフテッドを統べ、導く存在として、私の運命は計画された。
ギフトの発現条件は、大きな感情の発露。それを、私は強制的に味わうことになる。
そう。考えるにも悍ましい、人為的なギフテッドの製造計画。その供物として、私は捧げられたのだ。
以降、筆舌に尽くし難い悪魔の所業が、私を苛んでいく。
十歳の誕生日に、犬を与えられた。真っ白な毛並みのポメラニアン。私はルナと名付け、大層可愛がった。
どこに行くにも一緒だった。庭を走り回り、食事を共にし、同じベッドで眠った。姉妹のように、私たちは笑い合った。
ある日、なんの脈絡もなく、刃物を持った父がルナの首を掻き切った。夥しい量の赤色が流れ、ルナは動かなくなった。
「どうだ、環。悲しいか?」
わけがわからなかった。唐突すぎて、目の前で起きたことが現実なのだと認識できなかった。ただただ呆然とする私に、父は「駄目か」とだけ呟いた。
しばらくのちに、今度は黒を基調としたウェルシュコーギーが連れてこられた。私は不安を覚えながらも、甘えてくるその子――ソルとまたすぐに仲良くなった。
三月が経ったが、父が何かをしてくることはなかった。いったいあれはなんだったのかと思いながらも、私はだんだんとルナの記憶を薄れさせ、ソルとの日々を過ごしていった。
その日の夕食はハンバーグだった。私はハンバーグが大の好物であり、傍目にもわかりやすいほど喜んで、柔らかな肉にフォークを突き立てた。
そんな私をニコニコと眺めながら、母はテーブルの上に何か黒い塊を置いた。
首だけになったソルだった。
「環、おいしい?」
私は胃の中身を全て吐き出した。
それから三週間、私の喉は食物を受けつけなかった。
――未だにハンバーグだけは、どうしても食べることができない。
どうして両親がそんなことをするのか、私にはまったくわからなかった。
両親が恐ろしかった。
でも幼い私には、何もできない私には、どうすることもできなかった。
目が覚めると暗闇だった。
目を開けているのに何も見えない。何か布のようなもので、視界が覆われていた。
体も動かない。椅子に座っているのはわかる。そして圧迫感。腕も足も、首から下が一切動かせない。
身じろぎひとつできぬよう、私の体はぐるぐるに縛られていた。
記憶を探る。オレンジジュースを飲んで以降、私の意識はぷっつりと途絶えていた。
何故? どうして?
わからない。でもわかる。こうしたのは両親だ。
不安と恐怖が押し寄せる。いったい、私に何をする気なの?
もぞりと、何かが動く気配がした。
心臓が跳ね上がる。動けない。何かがいる。得体の知れない何か。その気配が近づいてくる。
「ひっ――」
足先に、ぬめりとした感触。
何? やめて。なんなの? どうして? 私が何をしたっていうの?
私の体を這い上がるナニカ。生臭い匂い。ぬめぬめとした体液が尾を引いて、膝を伝い流れ落ちる。嫌だ。気持ち悪い。助けて。誰か、誰か――
「いっ――!」
鋭い痛み。遅れてじわりと広がる熱。お腹が熱い。皮膚の腫れ上がる感触。
刺された。以前、ズボンを履いた時に隠れていた蜂にお尻を刺されたことがある。それと極めて似た感覚。
ただ、異なるのは。
「い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――っ!!」
何度も。
何度も何度も。
そのナニカは、私の体を突き刺してきた。
神経の奥を貫くような、尋常ではない痛み。耐えられるわけがない。蹲りたい。転げ回りたい。それすらできない。
粘液を散らしながら、まだ動く。
ぴちゃりと、水音が首元まで延び、そして。
「あ、や、嫌、やだ、いや嫌イヤいやいやいやいやいやいやごっ、ぐぽっ、ごぽおっ――――」
私の意識は途絶えた。
結局アレがなんだったのか、今となってはもうわからない。ただただ、私の心に暗闇への深い恐怖を刻み込んだ。
その日から、私は明かりのない部屋で眠ることができなくなった。
その後も、同じようなことが続いた。あるいは、もっと酷いことが。
一番堪えたのは、あの、蠢くような、夥しい数の、カサカサと――。
これ以上は、あまり思い出したくない。
悪夢に魘され、脂汗をかいて飛び起きる、眠れない日が続いた、ある夜。
水を飲もうと階下に降りた先、リビングに光が灯っていた。漏れ聞こえるのは両親の会話。
「色々とやってみたが、どれも駄目だったな。いつになったらアレにギフトが降りるんだ?」
「案外現実的なのよね、あの子。そこはあなたに似たんじゃない?」
「よせよ。血を分けたわけでもあるまいし。流石に俺も、実の子にあんなことはできないぞ」
「あらそう? でもこのままじゃ、なんのためにあの子を引き取ったのかわからなくなるわね」
「まったくだ。なんの役にも立たんのに、金だけはかかる」
理解が追いつかなかった。いったい二人はなんの話をしているのだろうか。それはどこか、遠い国のおとぎ話のように思えた。
でももちろんそんなことはなくて、それは紛うことなき、目の前で起きている現実だった。
「いっそのこと、もう加減なしでいくか。もったいなくはあるが、壊れたら壊れたで次を探せばいいだろう――なぁ、環?」
びくん、と。
心臓が飛び跳ねる。
いつの間にか、父の――否、父ではない男の視線が、こちらを向いていた。
気づかれていた。
逃げなければ。今すぐ逃げ出さなければ、もっともっと酷いことをされる。幼いながらに、私は本能でそれを理解していた。――でも。
いったい、何処に逃げればいいの?
「あら、いけない子ねえ。立ち聞きだなんて。そんな子に育てた覚えはないわよ?」
「よく言うよ。一年目でもう飽きたって言ってたじゃないか」
「しょうがないじゃない。私、子供って好きじゃないもの。でも表向きはちゃんと、「お母さん」してたでしょう? ずっとずっと我慢したもの。おかげで――」
母の。
母だったものの顔が、醜悪な笑みの形に歪む。
「今から、すっごい楽しみ」
そうして。
私に辛うじて残されていた、僅かばかりの、形ばかりの尊厳が。
ここに、完全に失われた。
求めよ、さらば与えられん。
願いは叶うし、祈りは届く。
神の祝福が現実となって幾久しく。神様はいつもお前たちを見ている。
だから真摯に、純粋に、心の底から祈りなさい。
そうすれば必ずや、それは神様まで届くから。
近くの教会に住む老神父は、そう言った。私は「じゃあ、神父様は何を祈っているの?」と聞いた。老神父は「私は少しでも長く生きて、君たちに神の教えを伝えさせてほしい、と祈っているよ」と答えた。
その次の週に、老神父は車に撥ねられて死んだ。嘘じゃないか、と思った。神様なんていないじゃないか、と。
だからなの? 神様を疑ったから、私はこんな目に遭うの?
だったら、謝ります。ごめんなさい。謝りますから。
だから、私を許してください。
「ごめんなさい。私が悪かったんです。ごめんなさい」
「違うぞ、環」
また平手が飛んできて、頬を打たれる。腫れ上がった頬をさらに打たれる。何度も何度も。
「何度言えばわかるんだ? 謝るんじゃない。願うんだ。祈るんだ。ほらっ!」
「ひっ――ごめんなさい。もうぶたないで。お願いします。痛いんです。お願いします」
「駄目ねぇ。痛みが足りないんじゃない? これで刺してみる?」
「いやっ、やめて――やめてください。お願いします。なんでもしますから。お願いします」
「わからない子ねぇ。私たちじゃないのよ」
ぷすりと。爪の間に細い針が刺し込まれる。
「ひぎぃっ! 痛い痛い痛いやめて! 痛い! お願いします!」
「神様に、願うのよ。助けてくださいって。ギフトを授けてくださいって。祈るの」
「お願いします。助けてください。神様、お願いします。私にギフトをください。お願いします。ギフトをください」
「感情が足りないんじゃないか? もう一本いっとくか」
「お願いしますっ! 神様! 神様っ! ギフトをください! お願いしますっ! 私にギフトをくださいっ!」
願いは叶わない。祈りは届かない。ギフトは与えられない。
今思えば、それも当然のことだ。だって、それは。
私の願いではなく、この二人の願いなのだから。
痛みは続く。空虚な祈りと共に。
捧げる神はいない。
終わりなき責め苦は続く。
「もう駄目じゃない、これ?」
「お前が調子に乗って刺しまくるからだろ? 流石にソレは俺でも若干引くぞ」
「あら、女の子だもの。おしゃれは必要でしょう? あなただって、これのどこが現代アートなのよ?」
「女にはわからんかね。この皮を剥いで立体的に仕上げた部分が芸術に通ずるのが」
嬲られ、弄ばれ、いじくられ。
私の体はボロボロだった。
悲鳴と懇願と救済を叫んだ声は潰れた。
蚊の鳴くような掠れた音だけが、微かに喉から漏れ出た。
希望など、とうに潰えていた。
「まったく、ここまでやっても駄目だとはな。とんだ期待外れだ」
「まぁ、けっこう楽しめたからいいじゃない。でも効率が悪いから、次は双子とかにしましょうか?」
「そうだな。仕方ない、最後に少し、小銭でも稼がせるか」
「こんなのでも売れるの?」
「世の中には物好きがいるんだよ。むしろお偉い方の中にこそ、こういうのが欲しいって奴がいたりする。――おい、環」
もう、欠片の意思もないのに。
その声に、私は男に視線を向ける。
刷り込まれていた。条件反射のように、虚ろな瞳で男を見据える。
「最後に教えてやろう。赤子のお前を引き取って、名前を付けたのは俺だ。わかるか、環? 名前とはその存在を固定するものだ。それは巡っても巡っても端のないことを意味する。だからお前は何処にも行けない。ずっとずっと、同じところを周り続ける。これはな、お前を縛る呪いなんだ」
巡り巡って。
何処にも行けず。何者にもなれず。
ただぐるぐると、円環の中を周り続けて。
ああ、そうか。
だから、私は。
ここから。この地獄から。
逃げ出せなかったんだ。
最初からそうだった。
決められていた。
呪われていた。
縛られていた。
この、閉じた世界には。
最初から神様なんて、いなかったんだ。




