綾女詩莉2
予感はあったと言うべきか。
凛子の騒動があってのち、俺は当然ながら、次に誰が暴走するのかを予測していた。事前に傾向と対策を考察し、少しでも被害を減らすためにだ。
おそらく、彼女だろうと思った。名状し難き感情を持て余していた彼女。そしてそれがわかっているのなら、俺には打つべき手があった。初期段階の暴走なら、コントロールできる自信があった。何しろ彼女は単純だ。少しいいなりになって、時間を稼げばいい。その間に捕縛の準備をして、決定的な違反が出た時に、あれよあれよと御用にしてしまえばいい。抜かりなく、俺は計画を進めていた。
結論から言うと、予測は当たっていた。しかしやはりというか、抜かっていた。俺の計画がうまくいった試しなどないのだ。失敗を前提に考えるべきであった。
一つ、彼女に関して重要な要素があることを、俺は失念してしまっていたのだ。
しばらくぶりとなる、彼女とのデートの日。待ち合わせ場所に指定された公園に向かう最中、その車は最低限の駆動音だけを響かせて、静かに街道の脇に停車した。黒塗りの高級車。リンカーン·リムジン。
見覚えのある特徴的な車体に、俺は急速に危機感を募らせる。が、時すでに遅し。
「四条様、失礼致します」
「うおぅっ!」
鈴の鳴るような、凛とした声が聞こえたかと思うと。いつの間にやら俺は、背後から羽交い締めにされていた。彼女――そう、綾女詩莉さんには。
亜衣里さんという、忠実なるパーフェクトメイドさんが付き従っているのであった。
逃れようともがくが、一向に体に力が入らない。完全に動きを抑えられていた。この細腕のどこに、そんなパワーが秘められているというのか。
背中に押し付けられた感触はとても素敵だったが、それを楽しんでいる余裕などない。一刻も早く逃げ出さなければ、大変なことになると本能が訴えていた。しかし動けない。ならばどうすればいいのか?
叫べばいい。恥も外聞もなく、助けを求めればいい。どう見ても不審者に襲われたお嬢さんの行動だが、実際不審者に襲われているのでまぁ問題ないだろう。如何な亜衣里さんといえど、衆人環視の中、荒立って事には及ばないはずだ。美少女しか助けない病に罹患していない人が来てくれるのを祈りたい。
俺は大きく、息を吸い。
「誰か、助け――」
「お静かに、願います」
「むぐうっ!?」
塞がれた。こう、ぐいっと首を回されて、かばっと顔が近づいてきた。挙動が速すぎて、しばらく何をされたのかわからなかったが。
ふわりと鼻孔をくすぐる柑橘系の香りに、俺は認識を取り戻す。目の前、ゼロ距離に、亜衣里さんの澄ました顔が鎮座していた。その柔らかな唇を、俺に重ねて。
そして。
「んぐっ、むぐ、むぐぐぅっ!」
口内を蹂躙する、ぬめりとした感触。くちゅくちゅと、淫靡な水音が口端から漏れる。
脳髄を、蕩けるような感覚が支配していく。あ、ヤバい。これヤバい。体が弛緩する。全てを委ねてしまいたくなる。
触手のように蠢く舌先が、喉奥に何か固形物を押し込んでくる。抗う術なく、俺はそれを嚥下する。
そこで拘束が緩み、亜衣里さんがぱっと俺から体を離す。なんだ? 何を――飲ませた?
頬の赤みが、薄れるのに合わせて。
ゆっくりと、瞼が重くなっていくのを感じる。
「ご心配なく。お嬢様のギフトで催眠効果を備えさせた、ただの栄養剤でございます。特に副作用はないのも実証済みです」
口元をハンカチで拭いながら、淡々と亜衣里さんが告げる。詩莉さんのギフト――〈変換〉か。栄養剤の持つ本来の効果を、「催眠」に置き換えたわけだ。めずらしく「快楽」以外の使い方をしたと思ったら、また犯罪くさいものを作ったな……。
駄目だ。意識が保てない。
「ごゆるりと、おやすみ下さいませ」
スカートの端をちょこんと摘み、深く一礼する亜衣里さん。
その姿を目にしたのを最後に、俺の意識は緩やかな闇へと沈んでいった。
吸われている。
ぼんやりとしたまどろみの中、俺はそう認識した。
もちろん、唇をだ。それも生半可な勢いではなく、吸引力の変わらないただ一つの掃除機ばりに、思いっきり吸われている。
先ほども、亜衣里さんにがっちりディープに奪われたばかりなのだが。俺の顔には「ご自由に啄んでください」とでも書いてあるのだろうか。驚異の奪われ率である。
霞がかった視界が徐々に開けていくと、そこには予想どおり、どアップになった詩莉さんの顔が映っていた。……何をしているんだろうか、この人は。
「あ、おひまひは?」
何を言っているのかわからないので、とりあえず口を離してほしい。そんな意図を視線に込めると、なんとか通じたのか、詩莉さんはちゅぽんと音を立てて少しだけ離れてくれた。
うぁ、よだれすげーな。びっちゃびちゃだわ。感触は柔らかだったが、もはやそこには情緒もへったくれもなかった。
「おはようございます、冬馬様」
「…………おはよう」
うっとりとした顔でよだれを垂らす詩莉さんに、俺は辛うじてそう返した。そこにすかさず亜衣里さんが近寄り、主の口元をハンカチで拭う。淀みない所作。する方は元より、される方もそれが当たり前のことだと認識しているような、確かな主従の様相。
次いで俺の口元も、亜衣里さんは拭ってくれる。できれば布を替えてほしかったが、まぁこの際贅沢は言うまい。というのも。
ようやくはっきりしてきた思考で、現状を確認する。まず、体が動かせない。やたら座り心地のよい椅子に、ロープでぐるぐるに縛られていた。腕ごと巻かれているので、先ほどの吸引攻撃にもなんら抵抗ができなかったのだ。
高そうな家具やベッドが置かれた広い部屋は、詩莉さんの私室であろう。これはすぐにわかった。何しろ、部屋の壁一面に拡大された俺の写真が貼り付けてあるのだ。様々な状況下における俺の隠し撮り写真が、所狭しと並んでいる。これはヤバい。病んでる系のアニメなどではたまに見る風景だが、実際にやられるとこう、精神的にクるものがある。
あ、抱き枕まであるわ。しかも水泳の授業中の、半裸の画像がプリントされている。ちょうど顔の部分が水分を含んで湿った感じになっているが、何にどう使用したのかは突っ込んではいけないのだろう。下手に指摘すると、違う意味で突っ込まなければならなくなる。
さて。状況確認が済んだ。つまるところ。
なんと今回、二度目の監禁である。流石にこの展開は想定していなかった。しかもリムジンでハイエースされるという、これまた稀有な経験をしてしまった。法治国家日本の安全神話はどうなったのかを問い質したいところだったが、ギフテッド相手にそれも酷な話であろう。というか、現状の俺は未登録のギフテッド扱いであるため、法的には何をされても文句は言えなかったりする。もちろん、事が公になれば祝福省やマスコミなどを通じていくらかやりようはあるのだが。それが叶うかどうかは、今後の犯人の出方次第であった。
「冬馬様、冬馬様っ」
犯人――詩莉さんが、蕩けた顔で俺を見つめてくる。
「キス、しちゃいましたね。きゃっ」
……どうやら彼女的には、今のは目覚めの接吻であるらしかった。
認識の違いとは恐ろしいものだ。俺としては、エナジードレインに類する生気の吸引にしか思えなかったのだが。
「……熱いベーゼをどうも。刺激が強すぎて、頭がクラクラしてくるよ」
「まぁ、ふふ。それはそれは」
頬に手を当て、クネクネと身を捩る詩莉さん。相変わらず皮肉は通じないようだ。
まずは、彼女がどこまで至っているのかを探る必要がある。拉致監禁という強硬手段に出た詩莉さんだが、ぱっと見た感じ、凛子の時のように完全な狂気に支配されているとは思えない。会話が成立するのなら、口八丁でなんとか凌げる可能性もまだあった。
「ずいぶん積極的なご招待だけど……普通に呼んでくれれば普通に来たんだがな」
「あら、そうですの? 亜衣里が他の女に靡きそうな気配があるので、そろそろ既成事実を作ってしまえと言うものですから」
あんたの進言かよ、亜衣里さん。どこで何を見られていたのかは知らないが、そう言うからには蓮さんとの仲を勘繰られているのは確かだろう。大方、壁の写真も彼女によって撮影されたに違いない。隠密スキルまで備えているとは、最早一介のメイドに収まる範疇ではないと思うのだが、彼女はいったい何者なのだろうか。
「そういうのはさ、やっぱりほら、段階を踏むべきというかさ。お互いの気持ちを尊重して、きちんとそうだって思えるようになってからーー」
「冬馬様」
ぴしゃりと。
それまでの緩んだ顔から、一変して真剣な表情になった詩莉さんが、俺の言葉を遮る。
「私は、常々申し上げておりました。冬馬様をお慕いしていると。私の心は、貴方に出会ったその時から、余すところなく捧げていると。私は、いつまで待っていればよろしいのですか?」
「っ、それは――」
ここで、言うべきなのか。貴女の思いには応えられないと。言ってしまっていいのか?
こんな顔をした詩莉さんは初めて見る。残念成分の抜けた、透き通るように美しい顔だ。そこに狂気は混じっているのか。わからない。ただ、見つめていると吸い込まれそうになる。
傾国の、と表現して差し支えない。その惑わしき美貌を、俺はここにきて初めて認識した。ぶっちゃけ、かなりタイプだった。蓮さんといい、俺は年上の美人に弱い傾向があるのだろうか。そのまま、もう一度口づけをしてくれれば――。
ぶんぶんと首を振り、邪念を打ち消す。何を考えているんだ俺は。ほんとに無節操のクズ野郎だな。弱すぎる意思にはほとほと嫌気が差してくる。
でも詩莉さんなら、毎日尻を叩いてやるとか言えば囲い込めるんじゃ――ってああ、違う違う、そうじゃないんだってば。
「迷ってます? お顔がころころ変わって面白いことになってますが……」
「お嬢様、今です。あと一息です。ヤっちゃいましょう」
「あら、やっぱりそう? では」
と、そこで。何やら怪しい会話を交わしていた詩莉さんが、ぐりんと瞳の色を変える。
いつもの――淫欲に塗れた色に。
がしっと、縛られて動けない俺の膝の上に跨って。
「冬馬様、今日こそ――破っていただきますね?」
そう宣言し、ピンクのオーラを撒き散らすのだった。
俺の精神が、急速に冷静さを取り戻していく。
うん。駄目だ。やっぱり判別できない。
言うなればもう、この人は最初から狂っているようなものだ。見極めも何もあったもんじゃない。
とりあえずは。この窮地を脱さなければ、本当にヤられてしまう。
「待って。ちょっと待って詩莉さん。トイレ! トイレ行きたい!」
「まあ、それはいけませんわね。亜衣里、解いてさしあげて?」
拙いでまかせだったが、詩莉さんには効果があったようだ。俺の上から退いて、亜衣里さんに指示出ししてくれる。
しかし亜衣里さんは、怪訝な視線をよこしてきた。ちっ、やはり万能メイドは誤魔化せないか? そう、訝しがっていると。
綾女家のメイドさんは、とんでもない発言をかましてくれた。
「おや? おかしいですね。つい先ほど、抜かせていただいたのですが……」
「うぉい! 抜いたって何を!? あんた俺が寝てる間に何してくれたんだ!? ってか今気づいたけど、ズボンがさっきまで履いてたやつと違うんですけど!」
「ああ、お召し物でしたら、少々汚れてしまったので交換致しました」
「汚れるような何をしたんですかねぇ!?」
あれ? 俺、もしかしてもうお嫁に行けない系……?
「ですので、催すことはないはずなのですが」
「っ、いやもう、ほんと急に来たんだよ! 急に! もうマジで漏れる五秒前だから!」
最早なりふりなど構っていられなかった。このままでは大切な何かを失ってしまう。いや、既に尊厳は失われているのかもしれなかったが。泣きたい。
「あ、ではでは」
詩莉さんが、いいことを思いついたと言わんばかりに手を合わせる。絶対にいいことではないな。嫌な予感しかしない。
「私が飲み干すというのはどうでしょうか?」
「案の定だよ! あんたの変態性癖はいったいどこまで広がるつもりだよ!」
そんな特殊プレイをするつもりは毛頭ない。勘弁してほしい。
傍らの亜衣里さんが、主人から静かに距離を取った。表情には出していないが、流石に引いているのだろう。呆れを滲ませて、一つ嘆息する。
「致し方ありませんね。では、私がご案内しましょう」
「あ、いえ、お構いなく。ひとりで――」
「今ここでもう一度抜きましょうか?」
「案内オネガイシマース」
即答だった。どうやらこの人も、逆らってはいけないタイプの人らしい。そんなんばっかである。
ミニスカートの内側から、明らかに銃刀法に違反していそうな刃渡りのナイフが取り出されるのを、俺は遠い目をして見つめるのだった。




