ここから
後悔はもちろんある。むしろ俺としては、後悔しないことの方が珍しい。
たくさん失敗をしてきた。少女たちを傷つけてきた。その、自分の番がやってきたというだけのことだ。
それでも、俺には耐えられなかった。自分が傷つくことに。失うことに。身勝手な話だが。彼女の、蓮さんの支えなくしては、俺はまたしても三年前のように、精神を崩壊させていたことだろう。あるいはもっと酷く。
それとは別に、責任を取らなければならない。言わずもがな、男としての責任だ。
千景のことを思うと、まだ心の奥の脆い部分が、整理しきれていない場所がギリギリと蠢く。それでも、空っぽになるはずだったそこには、代替となるものが確かに嵌め込まれていた。サイズを合わせる必要はあったが、空虚は辛うじて満たされていた。俺は救われたのだ。それを成したのは、紛れもなく蓮さんの献身であった。
事を終えてぐったりとする俺を気遣ってか、蓮さんは最後にもう一度だけ優しく口づけをして、身支度を整えると、白い部屋を去っていった。
下着を身に着ける蓮さんの仕草はとても官能的であったが、急激な眠気に襲われた俺はそれを最後まで見届けることもできず、ぷっつりと意識を闇に沈めた。柔らかな闇だった。闇にも種類があるのだということを、俺はその時初めて知った。
俺の弱さ? そんなものは、三年も前に嫌というほど知り得ている。情け無い限りだが。
とにかく、俺は誠実性を示さなければならない。蓮さんが俺にしてくれたことを思えば、事ここに至って逃げるつもりなど微塵もなかった。それに、正直なところ。
彼女に惹かれていたのも、確かなのだ。順番が逆かもしれないが、彼女に触れたことで、俺はその思いをはっきりと認識できていた。優しい蓮さん。大人しそうでいて、実は積極的な蓮さん。そして、俺の弱さを受け入れてくれた蓮さん。
不安定な心のままに、流されてしまった感は否めないが。
彼女を受け入れようと、俺は思う。
では、何を後悔しているのかといえば。
「せんぱい? せんぱいってば。聞いてますか?」
「……ああ、悪い。ちょっと考えごとしてた」
残る四人の対応を、何も考えていないという問題があるのだった。切実な問題である。一歩対応を間違えれば、またぞろ転校の憂き目に会うのは必至であった。
覚悟を決めた矢先にそんなことになるのは、なんとか避けたいところである。いっそのこと、蓮さんを連れて何処か遠くへ逃げ出そうかと思わなくもないのだが。
やはりそれは、違う気がした。責任――と言っていいのかどうかわからないが、そんな形で朱里たちと別れるのは、彼女たちにとっても、俺にとっても、筋が通っていない。さらなる後悔を積むだけだろう。それに、現実的ではない。生活が成り立たない。いくら規格外のギフトを持つ蓮さんといえど、一介の高校生の身でまともな商売にそれを活かせるとは思えなかった。そしてその場合、俺は完全に役立たずのヒモ野郎だ。故に却下。
どうにかして、朱里たちと折り合いを付けなければならない。
「もう、せんぱい。どうせまたえっちなことでも考えてたんでしょ?」
「……即座に否定できないのが悲しいところだが……俺だって、真面目に考えごとをする時ぐらいあるぞ?」
「え。大丈夫ですか、せんぱい? お尻揉みます?」
至ってナチュラルに心配そうな表情をする凛子に、俺は自分が普段、どう思われているのかを悟る。行動を改めるつもりはないので致し方ないが、凛子にまで憐憫の情を向けられるのには少し辛いものがあった。
「揉みたいが、なんか負けた気がするからやめとく」
「もう。遠慮しなくていいですのに」
まぁ、心配してくれるのは純粋にありがたい。今日も凛子は元気いっぱいで、いつもどおりのひまわりのような笑顔だった。
沈んだ気持ちが少しばかり癒やされる。周りの人間に活力を分け与えるような、そんな効力を凛子の笑顔は有していた。
彼女に俺の決断を伝える。俺は蓮さんを選んだから、お前の気持ちに応えることはできないと。そんなことができるのか?
その場面を想像する。凛子のひまわりは萎んでしまうだろうか。それとも逆上して、溢れた感情のままに襲いかかってくるだろうか。どちらにせよ、俺は凛子を深く傷つけることになる。彼女の花咲くような笑顔は永遠に失われる。少なくとも、俺に対しては。それはとても罪深い行為のように思えた。
だが、伝えなければならない。そうしなければ、いずれもっと酷い事態を迎えるのはわかっていた。彼女の受ける傷を少しでも浅くするために。違うか。結局は、俺が傷つかないために、俺は凛子を拒絶するのだ。
「それで、今日はなんで学園に来てるんだっけか?」
夏休み。そう、夏休みだ。学生に許された長いモラトリアムの中の、長い休暇。暑気払いという名目で与えられる、通学の免除期間。そのただ中にあって、本日の俺たちは何故か、その学び舎くんだりまでわざわざ足を運んでいた。
休業期間中であっても、平日の御門学園は普通に開放されている。登校してくるのは課外活動に勤しむ生徒が大半であったが、僅かながらに学園の主催する夏期講習や補講に通う者たちもいるのだ。それでも単純に人数の少なさからか、普段の活気ある様相とは異なり、どこか穏やかな静謐さを校舎は醸し出している。凛子の通う中等部の校舎。時刻は昼下がり。
学園駅近くのド○ールで軽く昼食を取ったのち、凛子の提言により、俺たちはここを訪れていた。
「さっき言ったんですけどねー。ほんとに聞いてないんですから」
ぷくっと頬を膨らませる凛子。そんな仕草もやはり可愛らしい。それもそう遠くない内に見れなくなると思うと、より一入に。
「ちょっと、見せたいものがあるんです」
いたずらっ子のように、凛子がはにかむ。なんだろうか。また変なものでも作ったのだろうか?
ペナルティにより詩莉さんの分のデート権を奪った凛子とは、五人の中でも最も長い時間を共に過ごしてきた。その時間においてしばしば、凛子はその便利すぎるギフト〈具現〉を使って様々なものを作り出し、俺を楽しませてくれた。
巨大なア○パ○マンの顔を作り、二人して食べた。食べきれないので初等部まで赴き、リアル僕の顔をお食べをして周った。大層好評だった。ひょんなことで知り合った難病を抱えた少女の願いを叶えるため、病室をごっそりと桜の花びらで溢れさせてやった。成功率の低い手術に臨む少女の、もう一度満開の桜が見たいという思いを現実にした。気合の入った魔法少女のコスで演出用のステッキを振るう凛子は、またひとり少女の笑顔を守った。
時には俺が提案することもあった。最高の尻の感触を求めて、俺のイメージを凛子に伝えて人形作成の試行錯誤を繰り返した。ふよんとぷりん、張りと質感のバランス調整は難航を極めた。苦労して作り上げたそれは凛子人形に実装された。生身には及ばないながらも、最高の尻が出来上がったと自負している。
今日もそんなお遊びの一環だろうか。しかしなんで学園なんだ? たま先輩経由で、ギフ研の依頼でも受けたのだろうか。尋ねても、凛子は「着いてからのお楽しみです」と小悪魔ちっくに微笑んで教えてくれない。
まぁいいか。それよりも、どうやって凛子に俺の決断を伝えるかを考えなければならない。穏便に、しかし確たる意志を持って。どうしたものか。
中等部の校舎の廊下を、凛子と並んで奥に歩く。渡り廊下を進めば、こちらは音楽室や理科室など、専門教科での使用を主とした教室が並ぶエリアだ。通常の教室とは異なり、こちらの方は夏期休業中とあってほとんど人気がない。せいぜい吹奏楽部の一部が、音楽室で夏のコンクールに向けての練習をしているぐらいか。
三階まで階段を昇り、更に奥へ。静かな廊下。聞こえるのは俺達の足音と、蝉の声と、遠く残響する運動部のかけ声。夏の静寂。
やがて行き当たりの教室の前で、凛子は足を止める。上部のプレートには何も書かれていない。がらっと扉が開けられると、独特の黴の匂いが漂ってくる。凛子に促され、先に中に入る。部屋の中には、雑多な品物が統一感なく、適当に安置されていた。ポップな文字で学園祭と書かれたアーチ型の看板。体育祭でしか出番がないような、太く長い荒縄。救命講習で使うと思しき、顔のない上半身のみの人体模型。あまり使用頻度の高くない品々の、倉庫のような場所だろうか。
かしゃん、と錠前の落ちる音。振り返ると、にこやかな微笑を携えたままの凛子が、後ろ手に扉を閉めていた。なんだ? 何故――鍵をかけた?
「凛子?」
「せんぱい」
淡く微笑む凛子。その笑顔が種類を変える。否、それは最初からそういう気配を含んでいた。ただ、閉めきられたこの空間において、俺が今更ながらにそれに気づいたというだけで。
妖艶なようでいて、焦点の合っていないような虚ろな笑顔。幼さを含んだ、無自覚な邪気の発露。咎めるような、その上で全てを許すような、それは決断者の瞳。
その色を、俺は知っていた。この三年間、幾度となく向けられてきた。それは――彼女たちと同じ瞳だった。
「凛子、知ってるんですよ? せんぱいのことはなんでも知ってます」
何を――とは聞けなかった。わかりきったことだった。彼女は知っている。凛子は、俺の思いを知り得ている。
何故かはわからない。俺の思いは、まだ誰にも打ち明けてはいない。ただ事実として、凛子はそれを把握している。――あるいは。
半ば、カマをかけられているのか。
「やっぱり。ね、せんぱい? せんぱいは、ちょっと疲れてただけですよね? だって、せんぱいは凛子のことが一番好きなんですから」
気づいたとて、遅い。それはすでに、彼女の中では決定事項であるようだった。有無を言わさぬ、断定の物言い。そう、全ては遅かった。俺が誰かひとりを選んだ時点で、事態は加速度的に進んでしまっていた。
紡ぐ言葉が見つからない。
「凛子、俺は――」
「大丈夫ですよ、せんぱい。わかってます。せんぱいは、騙されてるんです。弱みにつけ込まれて。ずるいですよね。でも、許してあげます。凛子は心の広い女ですから。だから、ちゃんと」
しゃらん、と厳かな音を立てて。
スカートのポケットから、凛子が鈴の付いた大きな鍵を取りだす。物々しい雰囲気を纏った、精巧な意匠の、銀色の、大きな鍵。それを宙空に、あたかもそこに鍵穴があるかのように挿し込み、回すと。
かちゃん、と確かに、何かが開く音がした。
「ちゃんと――凛子しか見えないようにしてあげます」
広がるのは虹色だ。鍵の挿し込まれた場所を中心として、いくつもの種類の絵の具をぶち撒けたような極彩色が、侵食するように空間を塗り潰していく。凛子を飲み込み、俺を飲み込み、雑多な品物ごとこの部屋を飲み込んで。
そして、一面全てが虹色の空間へと置き換わった。
後悔はいつだって遅い。
全てを投げ出してでも、俺はさっさと逃げ出すべきだった。尤も、どうしたにせよ、結末は同じだったのかもしれないが。
それでも。
今からでも、俺は決意しなければならない。
自分の意思を通すことを。
思いを強く持つことを。
そうしなければ、この虹色は、凛子は、俺の全てを塗り尽くすことになる。
ともすれば崩れてしまいそうな心を震わせるように、俺は丹田に息を込める。
ここだ。
ここからだ。
いつもの正念場。
幾度となく潜り抜けてきた、都合、九回目の。
デッドハーレムが始まる。




