そうして
そうして、三週間が過ぎた。
金策を終えて懐を暖めた俺は、変わらず朱里たちとのデートを続けていた。誰かが暴走することもなく、俺に愛想を尽かすこともなく、それはこの三年の中でも、比較的平穏と呼べる緩やかな時間だった。
誰も、何も変わることはなかった。
凛子は有り余る元気でいつも俺を振り回していたし、たま先輩と本を読む時間は相変わらずゆっくりと流れた。蓮さんの向こう見ずな食欲はとどまることを知らず、朱里には美術館と動物園と水族館に一回ずつ連れて行かれた。
ああ、詩莉さんだけは少し事情が違った。例のしましま事件の補填で、俺とのデート権を凛子に奪われた詩莉さんとは、どこにも出かけていない。ただ一度だけ、休日に街をぶらついていた時に何処からともなく現れた黒塗りの高級車に拉致られ――歩道に横付けされた車の後部座席のドアが突然開き、中から伸びてきた詩莉さんの腕に本当に拉致られたのだ――強制的にドライブを慣行された。思わず少女のような悲鳴を上げそうになったのも致仕方ないだろう。というかちょっと出た。普通に犯罪であった。
「冬馬様、多くは求めません。何も言わずに私のお尻を叩いてください。強く。激しく。他には何もしませんから。本当です。約束します。じゃないと、私もう、抑えきれませんよ?」
完全にキてるのがわかる渦巻いた瞳で俺を見据え、緩んだ口もとから荒い息を吐く詩莉さんに、俺は一も二もなく頷いた。世の中には抗ってはいけない状況というのが存在するのだ。
広い車内のソファーに凭れ四つん這いになる詩莉さんの尻を、俺は遠慮なくリズミカルに叩いた。バシン、バシンと肉が震える音に合わせて官能的な喘ぎが断続的に響き、車内には外の空間と断絶された桃色の空気が広がった。
いったい俺は何をしているのだろうか。シュールな光景が続く中、俺は自問自答をするが、もちろん誰からも返事など返ってこない。声に出したとしても同じだろう。運転席の亜衣里さんは無言でゆっくりと車を走らせている。注意しないとその存在を忘れてしまいそうなほど、亜衣里さんには存在感というものがなかった。隠密の技能まで持っているのか。主人の恍惚の時間を邪魔しないように、正に貝の如く押し黙っていた。
いい加減腕が痛くなってくる。「叩く方の手も痛いんだよ」とは、なんと勝手なもの言いだと思っていたが、なるほど確かにそういうケースもあるようだ。意味が違うかもしれないが。
とにかく永遠に続くかと思われた時間は、唐突に終わりを告げた。気づけば車は停車しており、外の風景はちょうど俺が拉致された場所と同じ辺りにまで戻っていた。スマホで確認すると、実際に経過した時間は一時間に満たない程度であった。確かにギフトは使われていないし、規定の接触時間も超えていない。ルールは守られたのだ。社会的なルールは激しく逸脱していたが。
それが一番大きな出来事で、他にも細々としたことは色々とあったが。押し並べて、平和な時間が過ぎていった。
ランチの卵焼きは、ずいぶんまともになった。うさぎさんチェックがバレた時にはまた逆戻りをするかと危惧したものだが、それとは関係なく、少しずつ色合いは卵本来の鮮やかな黄色に近づいていった。まだ、たまに殻が混じっていることはあったが。
期末テストの結果は、可もなく不可もなくといったところだ。上位に位置する朱里や紫月とは比べるべくもないが、平均よりはいくらか上の順位を保っていた。苦手な化学も赤点は避けられた。追試の心配はない。
長い夏休みが始まり、デートの時間は昼間にシフトするようになった。
詩莉さんを除く四人と、俺は色んな話をした。
色んな場所に行き、色んな話を聞いた。彼女たちの好む食べ物。家族のこと。憧れの芸能人。将来の夢。風呂に入る時、体の何処から洗うか。尻のケアには気を使っているか。
一つずつ、俺は彼女たちのことを知っていった。その期間を経て、俺は前回までに会った女の子たちよりも格段に、彼女たちの
ことを理解できた。その思いの紛れもない強さも。
そうして。
月が変わり、またその時期がやってくる。
ずっとずっと、病院のベッドから動くことのない少女。
彼女に会いに行く、その日が。
道すがらの花屋で、小さなアレンジメントを買う。毎月来るので、店員のお姉さんとももはや顔馴染みだ。会計の際に、にやけた顔をした彼女がつんつんと肘で小突いてくる。
「何よ、やるじゃない。綺麗な彼女ね」
「あー……まあね」
ビニールに包む時に、赤いバラのコサージュをおまけしてくれる。渡せ、ということなのだろう。礼を言って、花屋を後にする。
いつもはひとりで訪れる、あの子の見舞いだが。今日は初めて、同行者を連れ添わせていた。
「おまたせ。これ、よかったら」
「あらあら、ありがとうございます」
いつもどおりの嫋やかな笑顔の蓮さん。その白い帽子のつばに、バラのコサージュを付けてやる。
「似合いますか?」
「とっても。バラの妖精みたいだ」
「あら、お上手ですこと」
なんてことない褒め言葉だが、蓮さんはほんのりと頬を染めた。先日のバイトの時も思ったが、私服の蓮さんはいつもより清楚感が増している。どこぞの変態令嬢よりも、よほどお嬢様らしい。
今日は白を基調とした薄い花柄のワンピースにつばの広い帽子を合わせた出で立ちで、風の吹く草原で帽子を押さえてくれれば、それだけで映画のワンシーンになりそうな佇まいであった。
「悪いな、今日は付き合わせて」
「いいえ。冬馬さんとお出かけするなら、何処でも楽しいですよ?」
「そりゃ光栄だ」
蓮さんを連れての、あの子の見舞い。それには一つの目的があった。
自身や接触した他者の傷を、いとも容易く治癒してしまう蓮さんのギフト、<再生>。それは「傷」と認識できるものであれば、精神的なものにも作用するらしく。可能性として、あの子の――千景の<忘却>により失われた記憶も回復できるのではないかと、俺は考えたわけである。
尤も、異なる二つのギフトの効果がぶつかる場合、その結果は一律に表すことはできない。思いの強い方が勝つというのが定説ではあるが、相性の要素もあるし、何より思いの数値化は通常非常に困難である。要は、やってみなければわからないということだ。
蓮さんのギフトを知った時から、その可能性には思い至っていた。しかしなんやかやと理由をつけて、俺はそれを先延ばしにしていた。千景が目覚めることによって、よかれ悪かれ俺の境遇は大きく変化するだろう。それを俺は恐れていた。
だが、いい加減覚悟も決まった。まずはそこから始めないと、やはり俺は前には進めないのだ。
朱里たちの思いに、どう答えを出すのか。それを決めるためにも、最初で最大のトラウマと、俺は対峙しなければならない。
左手に抱えるのは先ほどの花屋の包みと、先日ゲームセンターで専用ウサギのついでに取った、小さなカメのぬいぐるみ。先月持参したミドリガメの息子だ。
なお、撲殺専用ウサギは非常に手強かった。何しろ長い耳を絡ませて掴んでいるのが、鉄製のバットやハンマー、あるいは巨大な透明の灰皿であり、クレーンの貧弱なアームではとうてい持ち上げることが能わなかったのである。鈍器自体はもちろん、ぬいぐるみ部分を持ち上げても鈍器の重みですぐにアームが抜け落ちてしまうのだ。
こんなの取れねーよと俺はお客様的お申し出を店員に告げようかと思ったが、数回目の試行でその長すぎる耳が片方、絡まる鈍器から少し解れたのに活路を見出だした。狙いを定めて耳を穴の方に寄せると、案の定無駄に長いそれは取り出し口の下までぶらんと垂れ下がった。
取り出し口から直接耳を掴んで引っ張ると、ゴトンならぬドスンと重厚な音を立てて落ちてくる。晴れてゲットできた、火サスのオープニングに出てきそうな撲殺用灰皿付きのウサギを、紫月はいとおしそうに抱きしめるのであった。
病室の棚には、まだぬいぐるみを置くスペースはあっただろうか。そんなことを考えながら病院の自動ドアを潜る。顔を知った受付のお姉さんに会釈すると、にこやかに手を振ってくれた。その後で一瞬、何故か少し不思議そうな顔をする。蓮さんを連れてきたのが気になったのだろうか。ただそれも本当に一瞬のことで、すぐに柔らかな微笑に戻る。
エレベーターで五階まで上がり、行き止まりの部屋へ。
真っ白な扉を開ける、その先には変わらぬ風景が。
白い部屋、白いベッド、棚にところ狭しと飾られた大量のぬいぐるみたち――否。
ベッドに横たわっているはずの、白い少女の姿だけが、そこにはなかった。少女。赤宮千景。この部屋を構成する、最大の要素。
「あれ? トイレか?」
千景は感情を示さないものの、生理的な行動は自発的に取る。今までにもこういうことは何度かあった。タイミングが悪かったか。
「悪い、蓮さん。ちょっと待っててくれ」
「はい」
蓮さんに白いスツールを勧め、俺は持ってきた子ガメを親ガメの甲羅に乗せてやる。アレンジメントを窓辺に置き、そしてベッド端の金具に凭れかかる。
小さな違和感。しかしそれを考えないように、俺は部屋の中を眺める。変わらない。変わらない、はずだ。
五分。まだ千景は戻ってこない。
十分。まだだ。
二十分。まだ――
「おかしいな。何か検査でもしてるのか? ちょっと聞いて――」
そう言いかけて。
立ち上がり。
困ったように微笑む蓮さん、その視線の先。白いベッド。
いよいよもって、自分をごまかせなくなる。
ピン、と張られた清潔そうなシーツ。きちんと整えられた寝台。
誰かが寝ていたとは思えない、皺一つなく丁寧に成されたベッドメイク。
開け放たれた窓から緩やかな風が吹き、白いカーテンをふわりと揺らす。
「――っ」
「冬馬さん!」
蓮さんの声を背中に駆け出し、乱暴に扉を開ける。部屋の前に設置されたネームプレート。五一八号室。そこには。
誰の名前も、掲げられていなかった。
思考が真っ白になる。
なんだ? どういうことだ?
エレベーターを待つのももどかしく、一階まで階段を駆け下り、そのまま受付まで走る。いつものお姉さんのところへ。
「こら、走っちゃ駄目じゃない」
「千景はっ!? 五一八の赤宮千景はどうしたんだ!?」
非難の声を無視して、問いかける。何が起こったのか。病院を移転するなんて話は、ついぞ聞いていない。それにそうだとしたら、何かしら連絡はくれるはずだ。
だが、それならまだどれだけよかったことか。
「赤宮さん? 誰のこと?」
衝撃が。
かつてないほどの衝撃が、俺の頭を揺らす。
視界が渦を巻く。
何を……ナニヲイッテイルンダ?
「それに五一八号室は、しばらく使われていないはずだけど。そうそう、あなた、毎月来てくれてるけど……いったい誰のお見舞いに来てるんだったかしら?」
空惚ける風でもなく。
淡々と、ありのままの事実のように語るお姉さん。
言葉が頭に入ってこない。いや、鼓膜を通してその音は届いているのだが、俺の脳はどうしても、その意味を理解するのを拒んでいた。
「あ、ちょっと!」
制止の声が、聞こえたかどうか。
揺れる視界の中、俺は覚束ぬ足取りでふらふらとその場を離れる。どことも知れぬ通路を夢遊病者のように歩く。
何がどうなっているのか。わからない。いや、わかっている。
混乱した思考でも、その事実には簡単に結びつく。彼女は――忘れられている。
〈忘却〉だ。仔細は不明だが、千景が〈忘却〉でもって自身に関する記憶を失わせたに違いない。
何故? なんのために?
決まっている。タイミングが合いすぎている。
俺の介入から逃れるためだ。先月の時点で、意識があったのかどうかはわからない。何者か、ギフテッドによる横入りがあったのかもしれない。とにかく。
千景は、俺を拒んだのだ。俺との対話を。
何もわからない中、それだけは、純然たる事実であった。
「いてっ、どこ見てんだ――っておい、あんた、大丈夫か?」
肩に何かがぶつかり、誰かの声が聞こえる。しかしその音を、その意味を俺は認識できない。自分が立っているのか転んでいるのか、歩いているのか止まっているのかすらわからない。
視界が暗い。暗闇だ。まるで世界の裏側に迷い込んだかのように、辺りには光が存在していなかった。ここはどこなんだろうか。もはや自分の足音すら聞こえない。
どうすれば――俺はいったいどうすればいいのか。
うまくやってきたはずだった。朱里たちとのデートを重ね、初めて積極的に彼女たちのことを知ろうとし、その思いを少しずつ受け入れてきた。逃げずに、向き合った。それなのに。
そもそも俺は、千景を目覚めさせてどうするつもりだったのか。同じように会話をして、その心に触れたかった。本当に?
暗闇が、俺の心の深く暗い部分を露わにする。赤宮千景。〈忘却〉。その力をもってすれば。
この先、誰かが暴走したとしても、その全てを「なかったこと」にできる。有無を言わさず、被害なく、排除できる。彼女さえ、千景さえ支配してしまえれば。
違う。そんなことは考えていない。違わない。そうだろう? 千景さえいれば、俺の生活は安泰だ。彼女をいいように使えばいい。違う。違わない。違う。違う!!
……もっと恐ろしい推察もある。たま先輩により示唆された存在。俺がギフトに目覚めた際の記憶を失わせた、元凶となる存在。〈イレイズ〉。記憶の消去。それを成すギフト。
無意識の内に考えないようにしていたが。手段としてはぴったりと当てはまる。彼女が――千景が、俺の記憶を消したのか?
なんのために? わからない。そんなそぶりはなかった。そんなことをするような子じゃない。馬鹿か。彼女の何を知っているというんだ。事実、彼女は俺の前から姿を消した。俺に後ろめたい思いがあった? わからない。何もわからない――
「冬馬さんっ!」
誰かが俺の名前を呼んだ気がする。
聞き慣れたはずの声。意味を成さぬ音。
唐突に理解する。
ああ、この暗い暗い世界では。
俺はもう、何も感じ取ることができないのだと。
永遠の孤独だ。何も見えず、何も聞こえず。何も匂わず、何も味わえず。
「冬馬さん! 冬馬さんっ!」
そして今、最後に残った触覚すら、消え失せて――
「んっ――」
柔らかな。
全てが失われる、その間際。
柔らかな感触が、俺を襲う。
それは包み込むような、抱擁するような。
全てを許すような。
甘く、優しげな感触。
味覚が戻っていた。次いで、蕩けるような香りが俺の鼻孔を刺激する。少女の甘い香り。それは他者の存在を、世界の輪郭を、俺に取り戻させるものだった。
光が生まれる。世界が色付く。
暗闇が晴れると、目の前には農緑の髪の彼女が。
閉じられた瞳。長い睫毛。目尻から頬に零れ落ちる雫。その淡い色の唇が。
柔らかに、しかし力強く、俺に押し付けられていた。
静謐な、されど確かな水音が響く。淫靡でありながら、どこか神聖な儀式でもあるような、それは赦しの口づけ。
長いような、短いような時間、俺たちはそうしていた。やがてどちらからともなく、ゆっくりと離れる。
上気した頬の蓮さん。目尻に浮かぶ涙。見上げるその視線。ぎゅっと腰に回された両腕。その匂いを、柔らかさを俺は思い出す。世界に、俺の存在を取り戻す。
気づけば俺は、またあの白い部屋に戻ってきていた。五一八号室。彼女の――消えてしまった少女の部屋。
感覚が戻ったことで、同時に感情も襲い来る。深い喪失感と絶望感。千景を失ってしまったこと。辛うじて存在を保った俺に、その事実が重くのしかかる。
立っているのが辛い。そんな俺を、蓮さんはより強く抱きしめる。
「大丈夫。冬馬さん、大丈夫ですから」
泣き喚く子供を落ち着かせるように。優しく、強く、蓮さんは俺を抱擁する。
柔らかな女の子の感触。仄かに甘い香り。
「私は、何があっても、ずっとあなたの傍にいますから」
蕩けるような囁き。喪失感と安心感がせめぎ合い、俺は体の力を失う。凭れかかるように、彼女に体重を預ける。
「きゃっ」
バランスを崩し、ぽふんと彼女の胸に倒れ込む。白い部屋の、白いベッドに二人して。
「大丈夫……ですから」
甘い声が、脳髄を駆け巡る。焦燥感。もうこれ以上、何も失いたくはない。
確かなものが欲しかった。俺を世界に繋ぎ止める、確かな証が。
……俺を責めないでほしい。
この現実と状況に、いったい誰が耐えられるというのか。
失った溝を埋めるためには、何かを嵌め込まなければならないのだ。
鋼の精神を持ち、この状況に抗える者だけが、俺に石を投げてほしい。
そうして。
俺は彼女を求めた。
――それが破滅に繋がる道だと、俺は知っていたはずなのに。




