戦慄のランチタイム
解放の音色が響き渡る。
それはクラスのみんなにとっては休息を知らせる福音だが、俺にとっては試練の始まりを告げる合図である。
あ、右隣の中西が素早く弁当を持って退散した…。
ふと思うが、このチャイムってやつは音源をどうやって録音しているんだろうな。
四つの鐘を用意して順番に叩いているのか、それとも一つの鐘で音階の異なる箇所が存在するのか。音楽の授業で毎回B評価を取る俺には、分かるわけもないが。
そんなどうでもいい疑問で現実逃避をしようとしていたのだが、既に最初のキーンの時点で後方の扉がガラッと開き、「せんぱーーい!」三つ目が鳴るころには、様々な謀略を駆使して勝ち取った最後尾窓寄りの席まで、小さな少女が駆け寄ってきていた。
「せんぱい、今日のお昼はこの前言ってたマカロンです! 早起きして頑張りました! せんぱいも食べたいって言ってましたよね? ね? いっぱいありますのでさぁどうぞ!」
「いや毎度思うんだが、昼メシにお菓子って凛子……ああいや、何でもない。うまそうだな、うん。いただくよ」
瞬間、しゅんとしおれそうになる金色の二房に、俺は発言を撤回する。するとぱっと輝きを放つ笑顔が戻り、凛子はいそいそと中西の席を俺の机にくっつけた。
「ですよねー。凛子早起きしましたからねー。焼きたてですからほら、冷めないうちにどうぞ!」
既に発言が矛盾しているが、いいのだろうか……。
頑張ったかはともかく、それが今しがた作られたであろうことは疑う余地がないのだが。
それにしても、何でいつも最も距離の遠い凛子が一番最初に来れるのだろうか。中等部は校舎も違うし、授業を早抜けでもしない限りこの速さは通常あり得ないのだが。
紗都美凛子。
中等部三年の小さな彼女は、いつでも元気に満ち溢れたひまわりのような少女だ。
見目麗しい金色の髪をツインテールに結び、くりくりとした翡翠色の瞳は星のような煌めきを宿している。
身長は百八十を超える俺と頭二つ分ほど違うが、そのこじんまりとした体は常にちょこまかと動き、見ている者を飽きさせない。
何とも保護欲を誘う、やはり紛うことなき美少女である。
勧めに応じて、色とりどりの中から無造作に選んだ黄色のマカロンをかじる。
美味い。文句なく美味い。
ただ、できればもう三時間ほどあとに食したかった。
笑顔のまま次々とほおばる凛子に、そう告げることはできなかったが。
「もう、また凛子ちゃんが先なの? というか、駄目じゃない、授業サボっちゃ。また先生に怒られるよ?」
続いて、最前列の席からゆっくりと歩き、俺の疑問を言葉にしてくれたのは、同じクラスの相模朱里。
桃色の髪と瞳が神秘的なオーラを醸し出す、これまたものすごい美少女だ。
腰に手を当て凛子を叱る仕草は、近所のしっかりしたお姉さん然としていて、とても様になっている。もう数年もすれば、誰もが二度見する絶世の美女に成長するであろうことは、誰の目からも窺い知れた。
「だいじょぶですよ、しゅり先輩。ちゃんと身代わりを置いてきましたので。凛子はできる子です!」
「身代わりって……ギフトで?」
「はい。静かに席に座って、もし当てられたら「わかりません」で答えるようになってます」
「そうなの。ならいいのかな?」
いいのか、それで。
さっと想像するだけでも、友達に話しかけられて「わかりません」を連発する凛子もどきの図が浮かぶのだがな。
朱里は何故か納得したようで、俺の前列、前澤の席をくっ付けてくる。当然、既に前澤の姿はそこにはない。
何とも物分かりのいい男どもだが、そこにはやはりというか裏の目的があり、昼休み終了後に朱里の座ったイスに顔面から突っ伏す前澤を見た時は、流石の俺も少し引いた。
なんでも、「女神の残り香で夜のソロプレイが捗る」らしいが。
少しわかってしまう俺は、朱里への告げ口はしないでおいてやるのだった。
「あらあら、みんな早いのねぇ」
次に現れたのは、蓮さん——三枝蓮先輩だ。
ウェーブがかった長い濃緑の髪に穏やかな青い瞳が特徴的な、スタイル抜群のこれまた美少女。
ほんわかした空気をいつも漂わせている、本校随一の癒し系お姉さんである。
蓮さんが重そうな包みを「よいしょっ」と持ち上げると、その見事な胸部装甲もよいしょっと存在を主張した。
相変わらず見事なものである。こちらも本校随一であろう——って何だそのお重は。
「今日はおせちにしてみました。お口に合うといいのですが」
嫋やかに微笑む蓮さんは、およそ季節的には真逆の節句料理の名を告げた。
これこそ本当に早起きして作られたものであろうが、学校の昼食との親和性は著しく低い。むしろ量がある分、まだマカロンの方が救いがあるぞ。
でも、食べなきゃいけないんだろうなぁ……。
ちなみにこの間、左の紫月は黙々と自分の弁当を食べている。唐揚げと卵焼きがメインのオーソドックスな弁当だ。
同じ物が俺の机にもある。母さんがいなくなって以来、昼は紫月の世話になってきた。
その腕前は年々上がってきており、今ではそこらの主婦と比べても遜色ないのではないか、というぐらいには美味い。
だが、ここ最近の昼メシ事情をわかっていながらも作ってくるのは、もしや嫌がらせなのではないかと思ってしまう。残すと機嫌悪くなるしな……。
そういえば、と朱里に目を向けると、さっと視線を逸らされた。……ああ、また失敗したんだろう。
休み時間にスマホで「たまご 爆発しない」を調べていた姿は記憶に新しい。
いや、君はそのままでいいんだ。いいからこの五重の塔を手伝ってくれ。
「冬馬様!」
そして最後に入ってきた詩莉さん——綾女詩莉先輩は、煮えたぎる小鍋を持ってきた。
長い茶色のストレートに、黄緑色の瞳。蓮さんに負けず劣らずのスタイルを持つ美少女だが、現在俺が最も脅威を感じているのが彼女だ。
果たして今日は何を用意してきたのか……。
「申し訳ございません、少々準備に手間取ってしまいまして……本日はおしるこです!」
まさかの甘味第二弾であった。
そして俺の知る限り、おしるこは煮えたぎっていたり紫色だったりはしない。いったいどうやって作っているのか非常に気になるが、味はいたって普通なんだよなぁ。
ともあれ、こうしていつものメンバーが揃い——実はもう一人いるのだが、彼女は昼食には参加しない。十秒チャージで済ますタイプだからだ——俺の周囲には異様にカラフルな光景が広がった。
唯一、黒髪黒目の俺を中心に派手な色合いが並ぶ様は、市民団体を自称するおばちゃんに言わせれば、正に色彩の暴力と呼べるものであろう。我ながら圧巻である。
この状態が始まって、今日でちょうど二週間になる。クラスの連中も慣れたもので、僅かなやっかみの視線を除けば、既に日常の一部として認識されているようだ。
俺も今回が初めてのケースではなく、まぁまんざらでもない気持ちもないことはないのだが。
如何せん、五人前以上のランチが毎日続くのは胃袋的に勘弁してほしいところであった。
そして喧騒の本番は、ここから始まる。
「それでせんぱい、今日はどれが一番おいしいですか? もちろん早起きマカロンですよね?」
あくまでも早起きを主張する凛子の言葉に、周囲の空気がピリッと張り詰めるのがわかった。
ここだ。いいか冬馬、対応を間違えるんじゃないぞ。
大事なのは、比較を交えずに全員を褒め、順位を明確にしないまま次回の希望などを伝えることで話題を逸らし、有耶無耶にすることだ。それで少なくとも、現状維持はできる。
消極的な先延ばし案ではあるが、経験上、この段階を超えると状況は一息に進み、残るのは修羅場待ったなしの陰鬱な日々である。
そうなればもはや俺に安寧の時はなく、彼女たちの関係は修復不可能なほどにこじれ、最後の手段「転校」の発動を余儀なくされる。
前回、最初の高校生活で最短記録をマークしてしまった俺としては、もう少し——できればずっとだが——安全な生活を続けたかった。
「そうだな。凛子のマカロンは専門店で買ったみたいに美味いよ。蓮さんのおせちも本当に美味い。特に伊達巻が最高だ。是非今度は、普段食べるみたいな家庭料理が食べたいな。
詩莉さんのおしるこもさ、こう、まず見た目で楽しませてくれるとは予想外だよ。芸術性を感じた。……朱里もさ、ほら、頑張ってくれたみたいだしさ、もうそれだけで充分嬉しい」
矢継ぎ早に各々を褒め、反応を窺う。
凛子と蓮さんが微笑み、詩莉さんと朱里は薄らと頰を染めた。
よし、いけそうだ。このまま畳みかけ——
「そうですかー。凛子が一番ですかー。やっぱりせんぱいは、凛子が一番好きなんですね!」
両手を頰に添え、クネクネと体を揺らす凛子。
待て。誰もそんなことは言っていない。
「あらあら、凛子ちゃんたら、何を言ってるのかしら。冬馬さんは、私のおせちが毎日食べたいな、こんな奥さんがいたらなぁ、って言いましたでしょ?」
うん、蓮さん、それも言ってません。
いったいどこをどう聞いたらそうなるんだ。
あと毎日おせちは本当に勘弁してください。
「冬馬様、そんな、今すぐ私を食べちゃいたいだなんて……まだお日様も高いですのに。あ、でも、冬馬様がお望みでしたら……」
「わ、私は……」
詩莉さんはもじもじとしながら熱っぽい視線を向けてくるが、思考がぶっ飛びすぎていてもはや理解が追いつかない。
この人の発情スイッチは常時発動型なので、何をどう言ってもピンク色の展開に繋がるのはいつものことなのだが……。
朱里も負けじと何かを言いかけるが、流石にこの状況で自分に発言権がないことを悟ったのか、口を噤む。
「せんぱいは凛子が」
「いえ、私が」
「私の体を」
「……まずいです、このままでは……」
そうして、事態は収集不可能なカオスへと陥るのであった。ここ二週間ほどのテンプレである。
俺は深いため息を吐きつつも、残りの料理たちをいそいそと口に詰めていく。これらを残すことだけは、絶対にしてはいけないことを、俺は身に染みて理解していた。
紫月はというと、終始無言を貫き、我関せずの態度を崩さぬままランチタイムを終えるところであった。
まったく薄情な幼馴染である。今度うさぎさんを全てTバックと入れ替えてやろうか……。
視線が合うと、その赤い瞳は「なに?」とどうでもよさそうな反応を返してくる。
福音の鐘までは、あと十五分。
まだまだ、喧騒の終わる気配はなく。
「……で、お前はいつ俺のこと好きになんの?」
「あほぅか。死ね」
どこまでも冷たい紫月の言葉に、俺は少しだけ安堵を覚えるのだった。