赤宮千影
御門学園駅から、電車を乗り継いで一時間ほど。
各停しか止まらないその駅で降りて、更に歩くこと十数分。
一月ぶりに、俺はまたその病院を訪れていた。
さほど大きくはないが、小さくもない、そこそこの病床数を備えたその病院は、祝福省と提携している施設の一つである。
入院患者たちは、そのほとんどがギフトに関連した症状や後遺症を持つ者たちで、俺が毎月会いに来るあの子も、やはりその内のひとりであった。
入口の自動ドアを分け入り、受付の顔見知りになったお姉さんに軽く会釈をして、エレベーターで本当は四階である五階まで昇る。
静かな廊下の両端に並ぶ病室を通り過ぎ、二つ角を曲がった行き止まりの奥の部屋。
扉の横のネームプレートには、変わらずあの子の名前だけが掲げられていた。
一つ深呼吸をして、ノックの後に扉を開ける。
もしかしたら、という願いを込めて。
白い部屋の白いベッドには、相変わらず白いあの子が、目を閉じて横たわっていた。
「よう、千影」
寝たままの千影——赤宮千影に声をかける。
途中で買ってきた小さな籠盛りの花を窓辺に飾り、これも買ってきたカメのぬいぐるみを、棚の仲間たちに混ぜてやる。
毎月一つずつ持ってきているぬいぐるみは、ずいぶん数が増えてきた。もう立派にパレードができるぐらいには。
週に三回、例のテーマパークに連れていかれたときには辟易したものだが。
陸、海、陸と、何故陸に二回行くのかと問えばイベントの切り替わりだと熱弁され、高性能なデジタル一眼レフを構える彼女に、俺は抗う術を持たなかった。
絶叫系にトラウマを抱えていた俺を半ば強制的に連れ込み、荒療治をしてくれたこともあった。お陰様で、廃坑と滝は問題なく乗れるようになった。宇宙はまだちょっと怖いが。
それらを懐かしいと思えるだけの時間が、過ぎていた。
ベッドに腰掛けしばらくその寝顔を眺めていると、唐突にぱちり、と千影が目を開ける。
ゆっくりと半身を起こすその瞳に、意思の光は宿っていない。
真っ白な長い髪と、摩周湖のように澄んだ青い瞳。瞳の色こそ異なるが、白を基調とするその容貌は、どことなく紫月と雰囲気が似ていた。
医師の診断では、損傷を受けた脳の防御反応だという。行動はするが、そこに情動が伴わない状態であると。
実際のところは、少し異なるのだが。
赤宮千影は、最初に俺に好意を示してくれた三人の内のひとりだ。
さばさばとした快活な性格の少女で、その行動力に俺はいつも振り回されていた。思い悩む様子がほとんどなく、即断即決を常としていた彼女だが、今にして思えば、それはギフトによるところもあったのであろう。
千影のギフトは、発動型<忘却>。自他問わず、あらゆる記憶や感情を失わせてしまう、使いようによっては非常に危険なギフトだ。
その行使により、彼女は辛い記憶や思い出を打ち消していたのではないかと思う。<デッドハーレム>に囚われた要因は、「肉親の死という記憶を忘れたい」と願ったこと。
三人の中で最後まで正気を保っていたのも、嫉妬や憎悪の感情を<忘却>させていたからなのだろう。
あの最後の日。
他の二人は感情を暴走させ、周囲を巻き込みつつ、互いをギフトで害し始めた。
それを制した片方が俺と千影に襲いかかり、逃げ場を失ったところで、千影はその子にギフトを行使した。
<忘却>により、俺に関する記憶を失わせたのだ。
「もう大丈夫だよ」と告げる千影の顔は、満面の笑みを浮かべていた。その笑みは、俺には「もう誰も邪魔しないよ」と言っているように思えた。
「千影——どうして、笑ってるんだ?」
恐れを露わにした俺の言葉に、彼女は窓に映る自分の顔を見て。
「違うの、そんなつもりじゃなくて」
その黒い感情に支配された自分に気付き。
「ごめん……ごめんね」
泣きながら、笑いながら。
「——ばいばい」
自身に向けて、<忘却>を行使した。
彼女が、何をどこまで忘れてしまったのかはわからない。
与えられた食事はするし、トイレにも行く。
ただ、その瞳が意思を示すことはなく、この三年間、一度も言葉を発することはなかった。
「千影、おはよう。もう昼だけどな。なんだ、昨日は夜更かししてたのか?」
俺の言葉に、千影がゆっくりとこちらを向く。その虚ろな瞳は、俺を視界に収めながらも、俺という存在を認識できていないようであった。
「まぁ、俺も昼過ぎまで寝てたけど。今日はさ、夢の中に千影が出てきたんだ」
聞こえているのかはわからなかったが、俺はいつものように言葉を続ける。
「だからさ、今日は千影に会おうと思ったんだ。もしかしたら、お前の方はもう俺の顔なんか見たくないのかもしれないけど」
白い部屋に、俺の言葉だけが響く。
「俺の方は、いつもどおりだ。また新しい学校でさ、やっぱり女の子たちに囲まれて、毎日のらりくらりと躱してるよ」
それは彼女に話しかけるような、俺の独白だった。
「それで、ある子に言われたんだ。俺を好きだって思う気持ちは、「おかしいけれど、偽りじゃない」って」
贖罪のつもりと言いながら。
俺は千影を通して、思いを整理しているのかもしれない。
彼女というフィルターを通した言葉は、どこか綺麗な真実のように思えた。
「だからさ、考えたんだ。
たくさんの女の子たちから、確たる理由もなく好きだって言われて。そんなわけないだろって、俺は偽りだと決めつけて。彼女たちの思いを、蔑ろにしていたんじゃないかって」
朱里の言葉は、俺の深い部分を突き刺していた。
その真っ直ぐな恋心は、作られたものではあっても、偽りではないと伝えられた。
「正直なところ、よくわからない。朱里の言葉は真実のように思える。でもそれもまた、感情の一つの側面なんじゃないか、とも思う」
卵か鶏か、の話だ。感情があるからギフトが反応したのか、ギフトによって感情が生まれたのか。
結果は同じなのに。どんなものも、その過程が人間にとっては大事なことだ。そこに本物と贋作の違いがある。
「でも、今日千影の夢を見て、ようやく一つだけ気付いたよ。結局、俺は誰一人として、きちんと向き合ってこなかった。
もっと話をするべきだったんだ。他愛のないことを。好きなミュージシャンとか、明日の天気とか。そうして彼女たちの人となりを知らなきゃ、判断しようがない。
だって俺は、千影の好きな食べ物すら知らない」
だから千影は、ああ言ったんだ。
俺の好きと、彼女たちの好きは、違うって。
俺は最初から、舞台に上がれてさえいなかった。
「俺は、誰のことも好きじゃない。いや、好きになれていないんだ。こんなにも、お前たちは魅力的なのに。危険なギフトがあるからって、逃げ続けていた」
ギフトの危険性は事実だし、その暴走がもたらす被害が大きいのも現実だ。
ただ、だからといって、その大元となる思いまでが否定されていいはずもなかった。
「だから俺は、ちゃんと向き合うことにしたよ。そうしないと、いつまでも前に進めない。
朱里たち、ひとりひとりと。もっと、ちゃんと話をして。彼女たちの思いを受け取って、そして判断する。
そう——例え、殺されたとしても」
それが。
俺にできる、すべきことで。
俺の決めた、覚悟だった。
真っ白な千影は動かない。
聞こえているのかどうかはわからない。
虚ろな瞳で。何者をも映さずに。
それでも彼女は、俺の話を聞いてくれたのだと、そう思えた。
そう、俺は。
「俺は、お前とも話がしたい」
ずっとずっと、逃げ続けて。
こんなにも、遅くなってしまったけれど。
千影と話す方法に、俺はひとつだけ心当たりがあった。
「今度さ、蓮さんを連れてくるよ。もしかしたら、お前を治せるかもしれないんだ。だから」
おおよそ、三年ぶりに。
「俺と、話をしよう」