もうひとつの懸念
なんとも気恥ずかしい空気が流れていた。
あいにく俺も星崎も、それを打ち消す手段は寡聞にして知らず。付き合いたてのカップルのように、お互いの様子をきょどきょどと窺うばかりの時間が過ぎた。いや、そのとおりだから別にいいのか?
甘く、もどかしい沈黙。先にそれを打ち破ったのは、やはり直情な彼女の方だった。
「……ねぇ、何か喋りなさいよ」
「……そう言われてもな」
「あんた、経験豊富なんじゃないの?」
「色々と事情があってだな」
思えば、〈デッドハーレム〉に因らない色恋はこれが初めてであった。いわゆる、普通のお付き合い。普通ってなんだ? 今までのハーレムと何が違うんだ? そんなことを考えてしまい、妙に心が落ち着かない。つまりは。
「……すごい音」
「――っ」
素早い動きで、星崎の顔が俺の体に寄せられていた。ぴたりとくっついた彼女の耳に、俺の胸中の鼓動が曝される。
「びくん、びくん、ってしてる」
心臓の話だ。
「はち切れちゃいそうね」
心臓の話だ。
「すごい……大きい……」
もちろん、心臓の音の話だ。でもそろそろ別の場所も反応しそうでヤバいので、ちょっと離れてほしい。
「緊張してるのね」
「……まぁな」
「彼女、いっぱいいるのに?」
「あいつらはなんというか、別枠でな」
そのあたりのことも、きちんと説明せねばなるまい。呪いのこと。〈デッドハーレム〉のこと。彼女たちを正式に紹介して――ん?
そうか、朱里たちにも説明が必要だ。なんて言えばいいんだ? 〈デッドハーレム〉とは関係ないけど、彼女がひとり増えたから、と。言うの? 俺が? ヤバくね?
緊張に戦慄が加わり、鼓動がさらに速くなる。……まぁ、なるようにしかならんか。星崎に倣って、あとのことはあとで考えるとしよう。
「ふぅん。よくわからないけど」
俺の胸中を知ってか知らずか、こちらに体重を預けたままの姿勢で、星崎が見上げてくる。薄く染まった頬。伝わる体温と甘い香りに、酔いに似た感覚を覚える。
いや――正しく、酔っているのだ。俺は、この少女に。
「別に、今までどおりでいいわよ?」
「……今までどおり」
「そ。あたしたちの関係は変わったけど、だからって変に気構える必要はないわ。あんたが馬鹿なこと言って、あたしがそれに呆れて。そうね、それでいいのよ。そんな下らないやりとりが、あたしは気に入ったの」
言葉にしながら、星崎は自分の感情を確認しているようであった。心の感じるままに従って、あとからそこに理由を付け足す。それはなんとも、彼女らしい有り方だと思えた。
「ね、四条。あんたも楽しくなかった?」
「……楽しかった」
「でしょ? だったらそれでいいじゃない。恋人の作法なんて、あたしにもわからないわ」
「……そうか」
そのままの俺でいいのだと。構える必要はないのだと、星崎は言ってくれている。
なら、俺も難しいことは考えずに、感情に従うとしようか。
「わかった。なぁ星崎、ひとつ折り入って頼みがあるんだが」
「聞いてあげる。でも空気は読んでね?」
「やっぱりパンツもくれないか?」
「空気読めって言ったわよね!」
「ああ、できれば今履いてるやつの方がいいな」
「台なしよこの馬鹿ぁ!」
「ぐほっ……」
ドン、と胸が叩かれ、その衝撃に息が詰まる。ギフトこそ使っていないようだが、ガチめのいい一撃だった。
「まったく……なんでこんな変態好きになったのかしら」
そう言いながら、深いため息を吐く星崎。でもその顔が、どことなく嬉しそうに見えたのは。
二人の間に流れる雰囲気が、安らいで感じられたのは。
きっと、気のせいではないのだと思う。
「じゃあ、またね」
「おう」
手を振って去り行く星崎に、短く答えて応じる。
聞けば、星崎の住居は我が家からさほど遠くない位置にあるらしく、このまま送っていってもよかったのだが。
実はこのあと、俺にはもうひとつやるべきことがあった。
誰もいなくなった公園で、少し物思いに耽る。今しがた取った選択のこと。星崎を恋人にしたこと。
これで良かったのだろうか。後悔しているわけではないが、この選択により周囲の状況が色々と動くのは間違いない。隠し通すのは不可能だ。俺の拙い演技など一瞬でバレるだろうし、何より紫月がいる。あの覗き見うさぎの前で動揺を見せれば、それは即座に白日の下に晒されてしまう。
言うまでもなく、星崎は死に関する呪いを抱えてはいない。〈デッドハーレム〉に囚われた、救いを求める存在ではない。ギフテッドではあるが、どこにでもいる普通の少女だ。
故に、この選択はひとつのターニングポイントとなる。これで名実ともに、俺はハーレム野郎との誹りを受けてもなんら否定できなくなった。傍から見れば、ただ自分の欲望のために少女たちを侍らせている最低の男だ。
朱里たちとの軋轢も生じる。今まではまだ、ギフトのせいだと言い訳することもできた。それが通じぬ今、例え心が定まっていなくとも、彼女たちには説明しなければなるまい。我ながら、なんと優柔不断なことやら。
「でも。それでも俺は、あいつが欲しいと思った」
確かめるように、言葉にする。そうすれば言葉は力を持つ。ただの開き直りかもしれないけど、何も決めないよりかは遥かにマシなはずだ。そうやって、心を引っ張っていく。
「結末がどうなるのかはわからない。全員を幸せにするだなんて、口が裂けても言えない。ただ、俺はもう自分の感情に嘘は吐かない。その上で、あいつらが俺と同じ思いを抱いてくれるのなら――俺はちゃんと、全員と向き合う」
不安も恐れもたっぷりあるが。
それが俺なりの、決意の言葉であった。
「……と、いうわけなんだが。君はどう思う?」
前を見据えながら、意識は背後に向けて。
ある種の確信を持って、俺は問いかける。
………………
………………
………………あれ?
しばらく待つが、誰からも返事はない。
おかしいな。あれ、マジで? これでは空想の悪の組織と戦う痛い奴じゃないか。やだ、恥ずかしい。
そう赤面しかけた刹那、彼女はそこにいた。
「………………」
「うおっ」
思わず驚嘆が漏れる。跳び起きなかったのは奇跡に近い。
無言の瞳が。アメジストのような濃い紫色が、感情を浮かべずに俺を見つめていた。至近も至近、俺の膝上に跨がる体勢で。
それは恋人の距離だった。小さく綺麗な顔は、されど愛を囁くでもなく、じっとこちらを覗き込んでいた。あたかも、その奥に潜んだ感情を見透かすが如く。
夜の帳が落ち始め、古い街灯がニ、三度瞬きしてから周囲を照らす。誰もいない、いなかったはずの公園。
彼女は――長束氷見は、忽然とそこに現れた。
「……やあ、氷見ちゃん。こんばんわ、いい夜だね」
動揺を悟られぬように、平然を装って話しかける。困った時は天気の話をすればいいと、何処かの誰かが言っていた。
「……こんばんは、です。冬馬先輩……」
微動だにせずに、口だけを動かす氷見ちゃん。俺のパーソナルスペースは激しく侵されていたが、どうやらポジションチェンジをするつもりはないらしい。
「君はアレかな、最近一部で流行りのはかれない系女子かな?」
「……?」
適当なことを嘯いて、氷見ちゃんがそれを考えている内に思考をまとめる。予想自体は、既にできていた。
下着屋の前で佇んでいたという彼女。ただの偶然かもしれなかったが、星崎の依頼を受けた途端に接触があったのは、些かタイムリーに過ぎた。何より、その後見せた星崎への執着には覚えがあった。
そう、俺たちは嫌というほど知り得ていた。それは彼女たちと同じ気配を含んでいた。
故に凛子は言ったのだ。「お手伝いはいりますか?」と。
氷見ちゃんが星崎への執着から、ギフトを発現したのは明白だった。俺たちに接触してきたことから、そのギフトにはどのようにかして、「ティラミス」での会話を把握する性能があることも。
そして今、彼女はなんの予兆もなく俺の膝上に現れた。少年のギフトを遥かに超える隠密能力。
言うなれば。今回の件には、最初から二人のストーカーが関わっていたのだ。
「あいつ、モテモテだなぁ……」
おそらくは、この二人以外にも多くの奴らが星崎に懸想していたのだろう。男前なあいつのことだ、時にそれは性別の垣根すら超えて。伝えられなかった、秘めたる思いまで含めれば、それこそ朱里といい勝負ができるに違いない。
そんな星崎がギフテッドになったことは、果たして本人にとって良かったのか悪かったのか。もしかしたら、俺は一気に敵を増やしてしまったのかもしれない。
「……そう。聖歌先輩は、すごく、モテます……」
それを裏づけるような、氷見ちゃんの言葉。浮かぶ感情は陶酔に近い恋慕だ。
「君も、その内のひとりなんだな?」
「……はい。聖歌先輩、大好き……」
「でも氷見ちゃん、君はそれを星崎に伝えるつもりはない」
「……私なんかが。そんなの、おこがましい、です……」
この距離でなければ、聞こえないほどの消え入りそうな声。その自己評価の低さは、彼女の願いの本質を表していた。
「……私は、ただ。見てるだけで、いい……」
「それが、君の願いってわけだ」
「……はい」
短く答えた、その瞬間。
氷見ちゃんの姿が掻き消える。否、姿だけではない。気配や匂い、膝に感じていた感触、重量、存在感に至るまで、彼女を構成している全ての要素が、一切合切消え失せていた。
そしてまた、ぱっと現れる。先ほどよりも、さらに近い位置に。
――俺の左胸に、ぴたりと掌を添えて。
「……〈観察者〉。と、呼んでいます……」
「――っ」
変わらぬ抑揚のない声に、たらりと冷や汗が流れるのを感じる。華奢な指が、胸を軽くまさぐってくる。その意図は明らかだ。鼓動が早まるのを抑えられない。
ストーカー少年とは、似て非なるギフト。完全な上位互換。何かしらの制限はあるのだろうが、その性能はシングルに勝るとも劣らない、恐るべきものだった。
一切の知覚を無視する。端的に言えば、そういうことだ。
紫月の〈スタンド·バイ〉ですら、付き合いの長い俺や異常に感覚の鋭い朱里には、僅かな違和感を捉えることができた。しかし氷見ちゃんのギフトには、それも通じない。
小さく細い、触れれば折れてしまいそうな、その指でも。
刃を握れば、それは命にだって届き得る。
「……別に。聖歌先輩が、幸せなら。私はそれで、いい……」
ひとり言のような呟き。数瞬置いて、それが俺の最初の問いに対する答えだと気づく。
見ているだけでいい。
ただ、見守りたい。
そんなお淑やかな願いがギフトになるはすがないと、俺は少年に言ったが。
正確には違う。ただそれだけの願いが、ギフトとして昇華されるのであれば。
その思いは、遥か人の身を超えた域にまで達している。
例えるならば――そう、それは正に、神への祈りだ。真摯で一途で純粋な、たったひとつの願い。祈りとはかくあるべし。
穢れなき少女の願いが、紛うことなき奇跡を起こしたのだ。
言葉を選ぶ。なんてこった、またもや深刻な危機だ。
ひとつ間違えれば、このあとの俺の処遇がどうなるかわかったものではない。とはいえ、こうして対話が成立している以上、まだ望みはあるはずだ。
「……俺は認めてもらえた、ってことなのかな?」
「……正直、微妙です。冬馬先輩は、他にも彼女、いるから……」
正論であった。将来、俺に娘ができて俺みたいな男を連れてきたら、絶対にぶん殴る。控えめに言ってもクソ野郎なので、認められるわけがない。
「……私じゃなくても、いい。でも、聖歌先輩は。絶対に、幸せにならなきゃ、いけない……」
まるで使命のように、氷見ちゃんは語る。星崎の部活の後輩だったという彼女。そこには俺の知らない物語が存在していた。
「……聖歌先輩は、誰よりも、誰よりも、頑張ってきました。いちばんに、なるために。誰よりも、早く、朝練に来て。誰よりも、遅くまで、残って。
ギフテッドに、なってしまっても。それは、変わりません、でした。もう、大会には、出れないのに。やっぱり、朝いちばんに、来て。グラウンドの、整備をして。後輩たちに、指導をして。最後の、後片づけまで、全部やって。なんでも、ないように、ずっと笑顔で。でも……」
ぎゅっ、と胸が掴まれる。僅かばかりの通痒。ぽたりぽたりと、流れ落ちる雫。
失意とやるせなさの籠もった、それは彼女の、忘れじの悔恨。
「……ある時。私が、忘れ物を、取りに戻って。まだ明かりが、ついていて。誰もいなくなった、ロッカー室の、片隅で。聖歌先輩は、泣いていました。声を、押し殺して、泣いていました。
悔しいに、決まってます。やるせないに、決まってます。あんなに、頑張ってきたのに。誰よりも、走りたかったのに。そんなこと、おくびにも、出さずに。引退まで、ずっとみんなの、サポートをして。だから。
聖歌先輩は、絶対に。報われないと、いけないんです……」
静かな。されど確かな感情が、溢れ出ていた。
それは彼女たちと同じ、本物であることが、俺にはわかった。
気丈な星崎の、おそらく唯一、弱い部分を見てしまった氷見ちゃん。それなのに、何もできない自分。それを自覚して。
ならばせめて、行末を未届けようと。星崎の弱さを、自分だけは覚えていようと。
その瞬間、彼女はギフテッドとして覚醒したのだ。
「……冬馬先輩でも、いいです。でも、約束して、ください。あなたは。聖歌先輩を。幸せに、できますか……?」
核心を突く問いかけ。語りは静謐なれど、まるで臓腑に短剣を突きつけられているような鋭さを感じた。
これが最後の設問だ。
この返答如何で――俺の運命が決まる。