尻から始まる物語
尻の話をしよう。
もちろん、女の子の尻の話だ。
俺は——四条冬馬は断言できる。
俺がこの世界で一番、女の子の尻が大好きなことを。
尻はいい。特に可愛い女の子の尻は更にいい。
眺めているだけで心は安らぎ、触れればその柔らかさに鼓動は早鐘を打ち、こうわしっと掴めばその弾力は俺の血流を何倍にも加速させる。
状態は何でもいい。スカートの上からでもいいし、それがチラリと捲れ上がって見えた下着に包まれていてもいい。当然肌色一色でもいいし、俺ぐらいのレベルになると真冬に着る厚手のコートの上からでも、尻の形を判別して心の糧にできる。
ぴっちりとしたタイトスカートになだらかな曲線を現しているのもいいし、窮屈そうなジーンズに押し込まれてはち切れんばかりに膨らんでいるのもいい。ショートパンツからはみ出した尻肉は最高だし、食い込んだ水着を直す仕草には感涙が溢れ出るのを禁じ得ない。
とにかく。
好きなんだ。尻が。
だが、世の男たちには俺ほどの情熱を尻に向ける者は少ない。何故か。より興味を引く存在が別にあるからだ。
言わずもがな、胸だ。乳、おっぱいのことだ。
純然たる事実として、胸派と尻派のどちらが多いのかという設問には、既に答えが出ている。
圧倒的大差で、胸派のほうが多い。俺の個人的な感覚では、その比率はおおよそ八対二。
星人とも揶揄される彼らは、非常に数が多い。今後この差が覆ることは、恐らくないであろう。
なお、勘違いしてもらっては困るが、俺は別に胸が嫌いな訳ではない。こっちも人並みには好きだ。
というか女体は全て好きだ。それは神秘であり、俺たちはその柔らかさと美しさを人類誕生の日から追い求め続けている。
ただその中でも、俺は尻を最も愛している。何故なのか、細かな理由付けや自己分析をしたこともあるが、正直そんな理屈はどうでもいい。本能という不明瞭な表現はあまり好きではないのだが、これに関してはもう致し方がない。
いつだったか読んだ恋愛小説の主人公も言っていた。好きに理由はいらないのだ。
だんだんと高ぶる感情に、俺は目を瞑る。
思うのは一つでいい。
純粋な感情ほど、神様は叶えてくれるらしいから。
思いは奔流となって駆け巡り、俺は心の内で叫びを上げる。
ああ——尻が揉みたい。
ごん、という鈍い音。
痛い。頭痛が痛い。
衝撃の来た方向——左を向くと、分厚い国語辞典を構えた紫月が胡乱な視線を寄越してきていた。
「あほぅ」
そう、小さく罵倒してくる紫月。
どうやら、心の叫びがはみ出していたらしい。
その赤い瞳が含む感情は、呆れと蔑みと諦め。
そっちの趣味の人にはたまらない視線だろうが、あいにくと俺の嗜好はニュートラルである。
幸いと言っていいのか、自習と言う名のお喋りタイムと化した教室には、他に俺のスクリームを拾った者はいなかったようだが。
七月、梅雨明けの空には雲も薄く。
御門学園高等部一年五組の教室は、突如降って湧いた自由な時間に姦しい様相を見せていた。
じんじんと痛む頭をさすりながら、俺は紫月を睨め付ける。
「痛いじゃないか。俺の貴重な脳細胞が死滅したらどうしてくれる」
「あら、わかってるじゃない。あんたの数少ない脳みそを守るためにも、あほぅな言動は慎みなさい」
平然と毒を吐いてくる紫月——穂村紫月はそれだけ言うと、再び教科書に視線を戻す。
期末テストまであと二週間ぐらいだったか。真面目な奴である。
ストレートに伸ばした真っ白な髪と、うさぎのような赤い瞳。やや吊り目がちなものの、芸能人もかくやというほどの整った顔立ち。
すらりとした体躯は乳こそ並だが、程良くバランスがとれており、すれ違う者はこぞってその姿を振り返ることだろう。
我がクラスにおいても、紛うことなき美少女として男どもの注目を二分している。
まぁ俺にとっては、ただの小うるさい姉貴か妹みたいなもんだが。
腐れ縁と呼べるほどの長い付き合いに、こいつに異性を感じることはもはや無い。なんたって、尻にあるほくろの位置まで知ってるぐらいだ。
ってああ、そうか。尻だけはまぁなんだ、けっこう成長したんじゃないかね。うん。尻に性格は関係ないしな。
と、俺の臀部への視線を感じたのか、心底呆れた顔で紫月がため息を吐く。
「なに。あんた、あたしにまで欲情してるわけ? ほんとに節操ないわね」
「いや、お前じゃない。お前の尻にだ。尻に貴賤はないからな」
ドヤっと言い放つ。
それが美尻であるのなら、例え性格面に問題があったとしても俺は公平な評価を下す。寛大な心の表れであった。
しかし紫月の顔には、駄目だこいつ、早く何とかしないと、と書かれていた。
心外である。俺はただ、世界中の女の子の尻を追い求めているだけなのに。
「そんなにお尻が好きなら、朱里たちの誰かに頼めばいいじゃない。喜んで触らせてくれるんじゃない?」
……あ、言ったな。
こいつ、人がせっかく忘れようとしていたことを。
恨みがましい目を向けると、返ってきたのは小さな嘲笑の吐息。
この野郎……お前が未だに愛用してるのがうさぎさんパンツだってことをクラスにバラしてやろうか……。
いや、その瞬間俺の尊厳が失われるレベルの黒歴史が複数晒されるだろうから、まったく幼馴染とはやっかいなもんだ。
現在は午前中最後のコマとなる四時限目。
黒板の上の時計を見ると、授業終了までは残り五分を切っていた。
深いため息を吐いて、俺は覚悟を決める。
どうせ逃げることはできないのだ。
願わくば、転校の最短記録を更新しないことを……。
神だか仏だかに祈る俺に、誰かが廊下を走る音がやけにはっきりと聞こえてきた——。