悪魔曰く、今は悪役令嬢が旬なのだとか。
頭を空っぽにしてお読みください。
*
「お兄様、一つ伺いたいのですが」
「……ん? どうしたんだい、アリシア。君が六文字以上話しかけるなんて、ここ数か月無かったと思うけど」
カチリ、とデザート用のスプーンをテーブルに戻す音がやけに大きく響く。
それもその筈、食卓には兄と妹の二人のみ。両親は揃って外出中で、一番下の弟は昨夜から引き籠って私室から出てこない。
クレイシル侯爵家にとってはこれが日常。
やや間を置きつつも少女がその重い口を開くほうが、どちらかと言えば非日常と言えるのだ。
「話したくて話しているのではありません」
「はは、相変わらずだねアリシア。面倒くさがりもここまで極まると、なんだか逆に面白いよ」
「お兄様を喜ばせたところで、私自身のメリットはゼロです」
普段と変わらず淡々とした横顔で一音一音に苦悩するような妹の様子を横目で見ながら、兄のエージルはこちらも普段通り、興味深げに観察をしている。
生まれてこの方、この妹以上に面倒くさがりで、人嫌いで、何事に対しても平等にやる気の欠片も見せない人間をエージルは見たことがない。
だからこそ観察のしがいもあるというものだった。
「長考の末、一番面倒が少なく済むのはお兄様だと判断しました」
「アリシアが長考ねぇ……」
「本題に入ってもいいですか?」
「どうぞ」
ニコニコと笑みを深める兄に対し、これ以上は無いと言わんばかりの億劫さを全身から醸し出しつつ、アリシアはとうとう口火を切った。
「悪魔祓いの方法、ご存じですか?」
「ちょっと待った。教える云々の前に、どういう経緯でその質問をしようと思ったのか聞かせてもらえるよね?」
「……面倒なので省略したいのですが」
「いやいや、さすがにそこは聞いておかないとね」
兄の笑顔という名の圧力に、あからさまな渋面を崩さない妹。
暫しの沈黙を経て、とうとう諦めたのか「分かりました」と頷く妹。
死んだ魚によく似た目を上げた先、食後のお茶を片手間に楽しむ兄に対して、再びその重い口を開いた。
「今夜、十二時の鐘が鳴ったら部屋へ来てください」
「アリシアの部屋? 十二時に何かあるのかい?」
「来れば分かります」
やっとのことで絞り出した、といった風情に兄は苦笑を混じらせながら妹の背中を見送った。
そして食堂に残されるのは彼一人――という訳でもない。
長年にわたって仕える執事頭のミハイルを横目に、エージルはあくまで独り言のような調子を崩さずに呟く。
「やれやれ、アリシアもたまに甘えたかと思えばこの調子。最近のあの子は少し目の下の隈が濃いような気がしていたけれど……」
「エージル様、アリシア様の部屋付きからは特別変わった報告は来ておりません」
「おや、聞いていたんだねミハイル。……特別な報告は特に、ね。わかった。気に留めておくよ」
「念のために、影の配置を変更しておきますか?」
「一応父上に確認をとってからね。ちなみに、人数は増やせる?」
「問題ありません。速やかに手配いたします」
「うん、頼んだよ」
そんな二人の遣り取りがあったことなど露知らず、当の少女は疲労の真っただ中にあった。
おそらくこの世で最も怠惰を愛し、周囲への興味や関心といったものが極めて少なく、そのうえ人嫌いとして周知されているクレイシル家の令嬢アリシア。
彼女は食堂を出て、最短の距離をふらつきながら歩み、とうとう辿り着いた私室の寝椅子に倒れこんだままピクリとも動かない。
「……疲れた」
「今日も頑張りましたね、アリシア様。そのままお休みになる前に、せめて夜着にお着替えになってください」
部屋付きの侍女ミランダの声掛けで、ようやく僅かながら首肯してみせる。
ふらふらと上体を起こし、ゆるゆるとした動作で立ち上がり、ミランダの用意した服に袖を通した直後には、限界が訪れたらしい。
「お兄様が来たら、そのまま通して」
その一言のみを言い残し、寝台へと潜り込む。
そしてそのまま響き始める寝息。
時折、咳き込みながらの主の睡眠を見守りつつ、ミランダは聞こえないことを承知で呟く。
「おやすみなさいませ、よい夢を」
ミランダは知っている。
アリシア・クレイシル。今年で十六歳を数えようとしている彼女についての大抵の事柄を。
そもそも彼女は幼少の頃より、際立って病弱だった。
廊下を歩くだけでもふらつき、階段を昇れば喀血し、階段を降りようとすればゴロゴロと転がり落ち、そのまま生死の境を彷徨ったことも一度や二度ではない。
好奇心といったものは基本ゼロ。勧めた本も、室内で出来る刺繍の類も、総じて目の前に出される時には死んだ魚のごとき目をして、本なら1ページ。刺繍は1針でダウン。
反抗云々ですらなく、ただ日がな一日横倒し、あるいは寝椅子の上でぐったりとしている。
生まれた時からそう定められていたと言わんばかりの、虚弱さ。
また彼女は周囲に人嫌いとして周知されているが、実際のところは少し違うとミランダは解釈している。
アリシアは人が嫌いというよりも、生き物全般に興味を持たないだけなのだ。だから基本的に、家族以外の人間から話しかけられても返答をしない。
そこに身分の貴賤はなく、たとえ国の王であろうと面識がなければ彼女は無視をする。
一度だけ主に問うてみれば、答えは至って簡潔。
そんな気力はないからだと言っていた。
事実、ミランダもこの屋敷に勤めてそれなりの年数を経ているが、アリシアに返答してもらえるようになるまでには数年を要したほどだ。初めて返答してもらった際には耳を疑い、次いで思わず涙ぐんでしまった。
内情を知れば、けして悪い主ではないことはすぐに分かる。
我儘でもなく、非情でもない。
だからこそ、ミランダは彼女が少しでも穏やかな日々を過ごせることに重きをおいて仕えてきたのである。
ここ数日、昼前に起きだす主の顔色が依然と比べても格段に青白いことはずっと気に掛かっていた。要因について執事頭のミハイルとも話し合ったが、前後で特に思い至る部分はない。
そうなれば必然的に、夜間の時間帯に何かがあると思わざるを得なかった。
本来は寝入ったことを確認し、そのまま部屋を出るミランダであるが今宵は寝ずに付き添うことになっている。
健やかと言い切るには少し不安の残る主の寝息を傍らに、ミランダはひっそりとその時を待った。
――広間の大時計が十二時の時を告げ、コンコンと控えめなノックと共に長子のエージルが姿を見せた。
ミランダが扉を開いて招き入れ、足音を消したエージルが妹の傍らに付いたのとほぼ同時であっただろう。
施錠されている筈の窓が夜風とともに広がり、ふわりと音も立てずに私室の床に着地した人影が一つ。
一瞬の間をおき、繰り広げられた攻防は非常にシンプルかつ一方的なものだった。
エージルが物も言わずに抜き放った刃を、事も無げに弾き飛ばして一息。
ミランダが咄嗟に放った暗器を、軽々とかわしてため息を吐き。
部屋の四方から襲い掛かる影たちですらも指先一つでそれぞれの急所を強打し、そのまま昏倒させて大あくび。
やれやれ、といったジェスチャーを挟んだ後には迷うことなく寝台に歩み寄り、ゆさゆさと眠っているアリシアを揺さぶり始めた。
「夜ですよ、アリシア嬢。起きてください」
「……もう、いい加減にして……」
寝息が途切れ、どうにかこうにか寝返りをうったらしい妹が幽鬼のような声を出してのそりと起き上がる。まるで生気の感じられない寝起き顔に、さすがのエージルも侵入者云々の前に妹の体調が気になった。
「アリシア、生きてるかい?」
「……眠くて、死にそうです……」
「妹よ、もう一度寝る前に説明をしておくれ」
「……当人に、お尋ねください……」
今しも血を吐いて倒れそうな妹の、虚ろな目。それが辛うじて焦点を保ち向けられている先の人影。
エージルは警戒しながらも歩み寄り、静かな語調で誰何する。
「まずは名前を聞かせてくれる? あと、ここがクレイシル家の令嬢の私室だと分かったうえでの侵入なのかな?」
「……これは失礼しました。エージル・クレイシル殿」
「以前に面識が?」
「いいえ。お会いしたのは初めてかと。この国の貴族年鑑に記されている内容すべてに一度は目を通しましたから、この国の貴族にあたる人たちの顔はすべて記憶しています」
その声は、夜半に貴族の令嬢の私室に押し入ってきた者とは思えないほどに落ち着きがあり、柔らかな雰囲気を纏っていた。
月明りと、室内の淡い照明に照らし出された相貌はエージルと同じくらいか少し若いくらいだろう。
一言でいえば美しい青年だが、どこか幼さもあり、全体に掴みどころがない印象を抱かせる。
「人にとって夜分の訪問が非常識に当たることは知っていました。結果的にお騒がせしてしまい、その点については申し訳なく思っています」
「人にとって? 随分と妙な言い回しをするね」
「いえ、自然ですよ。自分は人ならざる者に分類されますから」
「……」
「……」
エージルとミランダの沈黙を他所に、人ではないらしい青年は寝台に転がったままピクリとも動かないアリシアを再び起こそうと奮闘している。
ゆさゆさと揺らされるたびに、寝台がギシギシと音をたてる。見ようによっては、若干アダルトな雰囲気を連想させる場景ではあるが、現実はまるで違う。
必死に眠りにしがみつこうとする少女とそれを起こそうとする青年の奮闘劇である。
「アリシア嬢、起きてください。昨晩の約束をお忘れですか?」
「……これ以上私の睡眠を削ったら、質問以前にこの命が尽きるわよ……」
「返答以前に亡くなられては困ります。一言で終わりますから起きてください」
「……もう、放っておいて……」
「あ、駄目ですよ。目を開けてください」
まったく状況が掴めないままの背後の二人であったが、辛うじてわかることが一つ。
それはアリシアの体力が冗談でもなんでもなく限界に近付いているということだ。
「はい、ストップ。とりあえず待った。このままだと妹が死ぬから」
「困りましたね……。こちらとしても、正直あまり時間はないのですが」
「その言葉、そっくりそのままお返し申し上げます。まずはこちらでお話を」
渋る青年をなんとか寝台から引き剥がし、ズルズルとテーブルに向って引き摺るエージルと冷静な話し合いを求めるミランダ。
どうにか青年を椅子に座らせ、エージルが青年の動向を監視している間にミランダが茶器を抱えて戻ってきた。
こうして開かれることになった、夜半の茶会(臨時開催)である。
アリシアの苦し気な寝息を傍らに、こぽこぽと注がれたハーブティーで口を潤したエージル。
改めてここで口火を切った。
「妹の部屋へ忍んで来た目的は何? 見た限り夜這いではないらしいけど」
「それはとんでもない誤解です」
「じゃあ始めから事情を話して貰える? 見たとおり、妹から聞き取りをするのは困難だから」
「……止むを得ませんね。では、端的にお話しします。僕はアリシア・クレイシル嬢と魂を代価にした契約を結びに来た悪魔です」
「「悪魔?」」
「はい、悪魔です。それをアリシア嬢に理解していただくまでに思いがけず二晩も掛かってしまいました。契約の期日が今夜中。従って、月が沈むまでの間にアリシア嬢に了承を得るのが僕の目的です」
悪魔のくせに猫舌らしく、しきりと手に持ったカップを『ふーふー』している青年。
それを横目にエージルとミランダは素早くその視線を交わし、それぞれが抱える戸惑いを確認しあった。
「こいつ正気か?」「さあ、分かりかねます」といった無言の意思疎通の後、次に口を開いたのはミランダである。
ひとまず相手方の話に合わせ、より情報を引き出そうという思惑が落ち着いた口調の中に見え隠れする。
「お嬢様の魂を代価に、何を契約しようと言うのですか?」
「悪魔の契約というのは、一般的にマイナスイメージばかりが先行しがちな部分は否めません。けれども今回アリシア嬢に提示した契約は、良心的といっていい内容だと自負しています」
「……ですから具体的には?」
「まずは病弱な体質を治癒し、怠惰を克服させます」
「悪魔なのに?」
「怠惰と堕落は異なりますよ。悪魔の本分は人を堕落させ、神への信仰を失わせることにあります」
「お嬢様は無信仰ですが……」
「今回の件に限り、そこは重視していません。第一に神が奏でる譜面へ不協和音を投じることで、より多くの人間に不幸と堕落を配ること。その上で、絶望しきった極上の魂を収穫することが最終目標です」
「比喩ではなく、具体例でお願いします」
ミランダの据わりきった眼差しは徐々に剣呑な色を帯びていく。
主の少女に関わることでは海原の如く寛容な彼女の懐も、突然の闖入者の前では鼠の穴ほどのゆとりしかないようだ。
そんな彼女の様子を汲み取った上でのものなのか、それとも端から気に掛けていないのか。いずれにしても自称悪魔の青年は己がペースを少しも崩さない。
「――アリシア嬢には王都エーデンベルグ学園に入学して頂き、神の譜面に示された『悪役』として活躍していただきたいのです」
「……悪役、ですか?」
なんとも掴みどころがない話だと、ミランダはため息を零した。
一方彼女が時間を稼いでいる間に、一旦部屋を出て執事頭のミハイルを連れて戻ってきたエージル。
「お疲れさま、ミランダ」
とその労を労った。
「さて、自称悪魔殿。私からも質問させて頂いて宜しいでしょうか?」
先ほどまではエージルが座っていた席にスマートな所作で腰かけた執事頭ミハイル。
彼の一見したところは柔和な表情が、眼前の敵を見据えた瞬間に狡猾な蛇のごとく細まる様子に対して身震いを隠さないミランダ。
それに対して、肩をすくめる青年はようやく冷めたらしいカップを傾け、一口嚥下する。
「まず、お嬢様を契約主に選んだ経緯をお話しください」
「それを貴方たちに話して、僕が得られる利点は?」
「……恐らくありえないことではありますが、お嬢様に契約を結んでいただいて得られる当家の利点、お嬢様自身にとっての利点、それぞれに我々使用人が納得できるだけの内容を示して頂けるようであればアリシアお嬢様を説得する一助となることをお約束させていただきます」
その返答に微かに笑って見せ、青年はカップをテーブルに戻した。
「このお茶、何か混ぜ物をしてありますね? 元々の美味しさが損なわれていますよ。勿体ないとは思いませんでしたか?」
「……やれやれ、人では無いというのも強ち嘘ではないらしいね」
「ミランダ、ちゃんと致死量は混ぜて出したのか?」
「ええ、ミハイルさん。間違いなく致死量を計って淹れてまいりました」
もはや隠すつもりもない三人の呟きに、青年は苦笑して席を立とうとした。
けれどもふと、何かを思い立った様子で天井を見上げる。
「毒矢も効きませんよ?」
にこりと笑い、指を弾く。同時にドタンと人一人が落下する音がして、背後の三人がため息をついたのが聞こえてきた。
「悪魔に去ってもらう方法はあるのかな?」
「簡単な話です。契約を結んでいただければ、魂の回収まで二度と皆さんの手を煩わせることはありません」
エージルの問い掛けに、事もなげに提示される答え。
猫のように伸びをしてから、再び寝台へと歩み寄った青年は静かな声で問いかける。
「アリシア嬢、一言で構いません。了承の言葉を」
「……面倒なのは御免だわ……」
「人並みの生活を過ごしたいとは思いませんか?」
「……現状に満足しているもの……」
「美しい婚約者が欲しいとは?」
「……思わないわ……」
「周囲からの羨望のまなざしが欲しいとも?」
「……他人の視線を集めて何が楽しいの……」
ふぅー、とここで一息吐いた青年はくるりと反転して背後の面々に問いかける。
「アリシア嬢が興味を抱くような事柄に心当たりはありませんか?」
「……そんなものあるかなぁ?」
「私は特に思い当たるものはございません」
「お嬢様が周囲から怠惰姫と称される所以を、貴方はご存じないのでしょう」
にべもない。
兄をして、妹に関心ごとの類は無いと言い。
部屋付きの侍女をして、一切の悩むそぶりもなく即答し。
屋敷のすべてを把握しているといって過言でない執事頭をして、鼻で笑う。
明らかに普通の貴族家ではない現状を再認識し、悪魔ですら遠い目になる。
これまで長いこと数百の魂の堕落に勤しんできたものの、ここまで頭を悩ませる対象は記憶にある限りない。今回が初だ。
それからも、生産性の無い問答が両者の間で繰り広げられた。
「使い切れぬほどの財を得たいとは?」「思わない」
「その身を彩る宝石は?」「興味がない」
「グルメを唸らせる数々の食材とレシピ」「太る」
「ふわふわモコモコの小動物」「アレルギー」
「望んだことを現実に出来るだけの天倵の才」「いらない」
「目が合った生き物全てを魅了できる魔眼」「……」
終いには、一言も返らなくなる。
だが、めげない。
ややあって口許に苦笑を刻み、悪魔は久しく感じた事のなかった『歓喜』に心を震わせている。
そう、この悪魔は逆境の時にこそ燃えるタイプだった。
悪魔の矜持をして、けして諦めるなどという選択肢は万に一つも存在しない。月の光の一条、その最後の瞬間まで目の前に横たわる少女を『頷かせる』ことに心血を注ぐと決めた。
一呼吸置き、会話の合間で自ら淹れ直した紅茶を一口。神経を研ぎ澄ませ、臨戦態勢へと移行する。
「アリシア嬢、今一度僕にチャンスを下さい」
「……付き合いきれないわ……」
「まぁ、そう言わずに。ここ数日貴女自身を観察させて頂いたところ、どうやら生活の大半を寝台か長椅子の上で過ごされていますね?」
「……否定はしないわ……」
「この地上に存在する素材で最高級のものを集め、理想の寝台作りに協力することも僕なら可能です」
「……理想の寝台……?」
オウム返しで返ってきた、問い掛け。そこにほんの僅か混じった『違い』を悪魔が見逃す筈もない。
ここぞとばかりに打って出る。
「興味がおありですね?」
「……ない、とも言い切らないわ……」
彼女が発した返答に、背後の観衆化していた兄、執事頭、侍女の三人が息を呑んだのが伝わってくる。
内心ではガッツポーズを掲げる悪魔であったが、それを表には決して出さずに柔らかな表情を保ったまま『もう一押し』に勝負を掛ける。
「悪魔の名において、嘘偽りは申し上げません。最高級の眠りをお約束いたします」
「乗るわ」
少女がその一言を言い紡ぐと同時に、にっこりと微笑んだ悪魔。
「ご契約の文言、確かに頂戴しました」と言い置くや、背後の制止を後ろ背から扇のように広げた漆黒の翼で隔絶する。
見事なまでの、その手際。
ふわり、とそのまま少女の右手をその手に取り、その甲に口付けた。
「……これは、消えるの……?」
「いいえ、契約の終わりまでは消えぬ印です。でもご安心ください。貴女以外には見えません」
「……他に見えないならいいけれど……」
ため息を零したアリシアの手の甲には、紅の薔薇を象った文様が一輪。
それは見事に、咲き誇っている。
「これで契約は結ばれました。朝日を浴びると同時に、貴女の病弱な体質は速やかに治癒することでしょう。普通に歩くことも、階段を上り下りすることも、およそ人並みの生活と言える全てが今日から契約の終わる日まで保証されます」
「……寝台は?」
「ご心配なく。今日の日暮れと同時にお届けしますよ。その時に、今後の『役割』についても説明させて頂きます」
「……そう。一つだけ、いいかしら?」
「どうぞ」
膝を付いたままの悪魔に、彼女は感情の見えない目を向ける。
窓から差し込み始めた朝陽を疎むような、眠たげなその両目。そこにほんの一時、色が混じる。
それは純粋な疑問。
「どうして、私?」
「……それは簡単な話ですよ、アリシア・クレイシル嬢。鏡をご覧ください」
悪魔の声に従い、視線を向けた先。
――映り込むのは、息を呑むほどの美貌だ。
陽光を浴び燦然と輝くばかりのその肢体は、まるで国一番の人形師が命を削って作り上げたが如き端麗さ。
憂いを帯びた様な紫紺の双眸と、艶やかな金糸の束はまるで黄金の河のようにうねりながら豊かにその背を覆っている。
「今は、悪役令嬢が旬なのです」
「質問をしてここまで訳の分からない返答を貰ったのは、生まれて初めてだわ」
至極真っ当に首を傾げた彼女と、少々の認識のズレに少しも動じることのない悪魔。
どこまでも噛み合わないままで、契約の火蓋は切って落とされる。
「明日から、吊り目の練習です」
「貴方は一体全体なにを目指したいの?」
「言うまでもありません。二年後の学院転入までに、貴女を非の打ち所のない『悪役』へと仕立て上げることです」
「……言っていることのほぼ全てが呑み込めないけれど、分かったわ」
今まで感じた事のない、全身を覆う清々しい心地。
生まれて初めて得た、身体の健やかさ。
自然と綻んだ口許のまま、ゆったりとした動作で寝台の上に立ったアリシアは悪魔を見下ろし、告げた。
「貴方が私の安眠を保証してくれる限り、悪魔令嬢としてこの生を全うすることを誓うわ」
「正しくは悪役令嬢です。マイ・レディ」
*
漆黒の両翼が、朝日を厭うように飛び去った後。
寝台の上で仁王立ちしたままのアリシアの元へ駆け寄ってきた三人は、何よりもまず絶句した。
その血色の良い肌や危なげのない姿勢、目の下から奇麗さっぱり消え去った隈の数々へと順々に視線を滑らせて感嘆の息を漏らす。
悪魔の仕業と一言で片付けるには、あまりにも上々の出来栄えだった。
「……見違えましたね、お嬢様」
「……そうね。色々と訳の分からない条件はさておき、朝を清々しいと思えたのはこれが初めてだわ」
「お身体に何か、違和感はありませんか?」
「心配はいらないわ、ミハイル。ミランダもよ」
うーん、と猫のように弓なりに背を伸ばしながらアリシアは欠伸を一つ。
すぐ傍に寄り添った兄の手でワシワシと頭を撫でられながら、心地よさげに目を細めた。
「お兄様、私は明日から吊り目の練習を始める予定です」
「あはは。健康になってもならなくても君は変わらずに面白いままだなぁ」
「お兄様を喜ばせたところで、私自身のメリットはゼロです」
「うん、それでこそ僕の自慢の妹だ」
クレイシル侯爵家の兄と妹は笑み交わす。
そして後に稀代の悪女としてその名を馳せるであろう妹――アリシアの続く一言に兄は笑顔のまま固まった。
「あと先んじて、お兄様から『腹黒特有の意味深な笑みの作り方を学ぶ様に』と、悪魔からの言付けが」
「うん、次に会ったらとりあえずぶん殴る」
ほんのり、蛇足。
*
兄エージルのやや黒い微笑みを見仰ぎながら、アリシアは予感する。
やっと始まるのだ。
自分から一番遠いものだと思っていた、人並みの日常。
尊い日々が。
手足の虚脱感、慢性の眩暈、意欲の欠片もない思考、それら全ての反対側にある世界。
風に吹かれて、今ならどこまでも歩いて行けそうな気さえして。
だから思わず、泣きそうになる。
けれども寸前で、涙を堪える。
いつしか遠い日々の中で諦めていた筈のすべてがここにある。泣くことさえ疲れ切って出来なかった自分が、今は存分に涙を流せることを知って、より深く実感する。
今なら、赦される。
美味しくご飯を食べることも。
家族と一日中団欒することも。
邸の中の階段を一人で上り下りすることも。
一日の終わりに心地よく、瞼を下ろすことも。
楽しいことも、辛いことも、それら全てが入り混じる憧れていた日々の中へと、自分はこれから飛び込んでいける。
寝台にずっと横たわっていた時よりも、はるかに広い視野のなかで。
生まれて初めて覚えた意欲そして希望。それらが思ったほど悪くはないと彼女は笑い。
声にならない声で、悪魔に感謝する。
この身、この魂、全てをいずれくる契約終了の期日まで大切にしていきます――と。
アリシアは弾みをつけて寝台を降り、その一歩を踏み出す。
魂を掛けた代償の道へと。
感謝を込めて、歩み出す。
ゆっくりと、一歩ずつ。