〜第七章〜
「もう! 父さんがナポリタン出してやれって言うから作ってたんでしょ! っとと、はいライセさん。お店で一番人気メニューのナポリタンになりますっ」
小走りで走ってきた蘭香という少女は笑顔で大盛りのナポリタンをテーブルに置く。
歳は高校生くらいだろうか、父親には似ても似つかない大きな瞳。
多少上がり気味の目尻が活発そうな雰囲気を醸し、彼女が動く度に栗色のポニーテールが左右に揺れている。
蘭香は人当たりのいい屈託ない笑顔でライセに手を差し出してきた。
「それじゃあライセさん、改めまして私は蘭香っていいます。一応この喫茶店、鉄下駄の看板娘をやってます。父さんの知り合いって聞いてたけど何だか私と同年代みたいだし、仲良くしましょうね!」
「よ、よろしく」
邪気のないその笑顔に、数日前まで一緒にいた少女の事を思い出してしまった。
そんな自分に少し辟易しながら蘭香と握手を交わす。
その時、店の入口からベルの鳴る音が響いた。
「あっぢ~~!」
入ってきたのはニックだった。汗でアロハシャツを湿らせ、暑さで垂れる汗を拭きながら蘭香から水をもらう。
よく冷やされたそれを一気に飲み干すと、どっこいしょと親父臭い言葉と共にライセの隣へと座る。
「もう話は終わったか? ったく、師匠も久しぶりに帰ってきた弟子にいきなりビラ配りとかさせねえでくれよ。俺、日本の夏は苦手なんだよ」
「それはオメエがたるんでるからだろうが! せっかく俺が直々に鍛えてやったってのに女なんぞに殺られそうになりやがって。たるんでた罰だ、今度は水撒いてこい!」
冷房の効いた店内から追い出されるのが嫌でニックも必死に説明するが、今の晋鉄には取り付くシマもない。
「さ、さすがに喋っていい事と悪い事があるだろライセ! お前実は俺が嫌いか! 嫌いなのか!?」
「お前の話はしてないぞ。話したのは俺の事とか……とにかくお前の話なんてこれっぽっちも出てない」
「なっ!? ……し、師匠。あの事件での俺の情報をどうやって手に入れたんだ?」
「んなもん決まってんだ――」
そんな晋鉄の言葉に被さるように車の音が外から聞こえ、続いて店の前にトラックが停車した。
荷台の横腹には引っ越し屋の文字。
と、運転席から誰かが降りてくる。
その顔を確認した時、ライセは驚きに頬の筋肉が引きつってしまった。
「やれやれ、やっと着きましたぞ。飛行場から何時間も運転し続けるのは年寄りには重労働ですな」
痛むのだろうか腰に手をやり、店内へと入ってきた人物は軽く周りを見回すと持っていた袋をまさぐりながら喋りだす。
「全員いるみたいですので話は早く済みそうですね」
「……セバスチャン、さん」
惚けたようにライセが言うと、相手は見覚えのある笑顔で応えてくれた――
「お嬢様が助手席で寝ていますので、すみませんがライセ君連れてきてもらえませんか? 私は晋鉄と積もる話があるような気がしますから」
お土産なのだろうか、思いっきり漢字でと書かれた包みを取り出しながらセバスチャンは事もなげに言う。
しばし思考の停止していたライセは、やや間を置いてハッと気づき驚きの声を上げた。
「な、何でセバスチャンさんがここにいるんですか? お嬢様って、もしかしなくてもシエルの事ですよね。俺が日本に行く事は伝えてないのに……どういう事ですか?」
「そんな事よりもライセ君。早く行かないとお嬢様が暑さで日射病なり熱射病を起こしてしまいますぞ。質問する前にほら、眠り姫を迎えに行ってあげて下さい」
どうやら今はまともに取り合う気はないらしく、どうにも歯がゆい返事をするばかり。
文句を言っても無駄だと分かったので、仕方なくライセは言葉に従う事にした。
「……暑いな」
ドアを開けると容赦のない日射が全身に降り注ぎ、外に踏み出すのをためらわせる。
だがこんな暑さの中で寝ているシエルを放っておけるはずもなく、早く起こして店内へ連れて行こうとライセは駆け足気味でトラックに近寄った。
窓を覗き、思わず息を飲んでしまう。
絹糸を思わせる長い金色の髪。陶器のように白く滑らかな肌がワンピースから覗き、猫みたいに丸まった身体が呼吸に合わせ小さく上下している。
幼いながらも整ったその寝顔にしばらく見とれ、気づかない間に顔には笑みが零れる。
数日しか離れていないのに、まるで何年振りかの再会のように、心は嬉しさと暖かさに満たされた。
「……シエル」
相手が答える事など期待していない。
ただ、呼んでみたかっただけ。
不意に、呼んでみたくなっただけ。
助手席のドアを開けるとライセは静かに手を伸ばす。
寝ているなら起こさないまま店に連れて行こうと思い、華奢な身体に静かに近づく。
「う――ん」
抱き寄せようとした時、少女の瞼はゆっくりと開いた。
起きてすぐの頭はまだ寝ているらしく、目の前のライセの事がよく分からないのだろう。
息がかかるほど顔が近いながら虚ろな感じで見つめるだけのシエル。
しかしそれもほんの数秒、たちまち瞳が水気を帯びだした。
「ライ……セ?」
「お、おはよう」
「――ライセッ!」
抱き寄せようとした身体は逆に抱きついてきて、その小さな身体を震わせながらシエルは泣いた。
嬉しむように、懐かしむように、温もりを伝えるように。
今度こそ離れまいと首に巻きつけた腕に力を込め続ける。
「会いたかった……ずっと、ずっと会いたかった! 連れ去られて、気づいた時には病院のベッドにいたの。すぐにライセに会いたかった! 会いたかったよ……」
「…………」
嗚咽しながらも喋り続けるシエルの言葉に、ライセの腕は自然とその身体を引き寄せる。
ライセは黙って、シエルの純粋な想いに耳を傾けた。
「お母様から屋敷であった事を教えられて、精密検査を何度も受けさせられて、気づいた時にはもうライセはいなかった。でもまさか――こんな所で会えるなんて!」
その言葉に、ちょっと待ってくれとライセは言う。
「ちょっと、いいか? シエルとセバスチャンさんは、俺を追いかけて日本に来たんじゃないのか?」
「え? 私達はセバスチャンの知り合いの人がいるからって日本に来たんだよ? まさかライセがいるなんて思ってなくて、だから今凄く嬉しいの! だって、もう会えないって思ってたから!」
泣き顔から一転、太陽に負けないくらいの笑顔を弾けさせるシエル。
このまま抱き合ってる訳にもいかないので離そうとするが、シエルが頑としてそれを拒むので仕方なく抱え上げて店へと向かった。
「……もう一回確認だけど、本当にここに俺がいる事は知らなかったんだな?」
「う、うん。ライセがいるって知ってたら、ここに着いてすぐ会いに行くもん! 寝てたりなんかしないよ!」
お嬢様抱っこの密着具合に少し頬を染めながらシエルは焦ったように答える。
「……いや、何も言わずに行った俺も悪かった」
自分の未練を断ち切るために黙っていたのに、どうやら少女の心に要らない動揺を招いたようだった。
自分を罵倒したい気持ちを抑え、先ほどからの疑問を考える。
(偶然じゃないよな。昔からあの二人は知り合いだったみたいだし――まさか)
とりあえず店内にいる二人に聞けば疑問は晴れてくれるだろうと思い、ライセは店のドアを開けた――
「いやはや、まさかニックさんが晋鉄の弟子だったとは私も見抜けませんでした。だから伝説の傭兵の弟子と言っていたのですね。確かにその情報は間違っていませんでしたな」
「なんだ、オメエそんな事いってんのか! 俺の弟子ってんなら女なんぞに負けてんじゃねえこの馬鹿弟子がっ!」
店内に戻ると、セバスチャンと晋鉄の大声が響いていた。
さっきドアを見たら『終』の看板がかけてあったので、どうやら営業は終わりなのだろう。
ニックは不機嫌そうな顔でナポリタンを食べ、蘭香はカウンターの奥に戻り何かまた作っている模様。
ライセはシエルを床に降ろし、しかし手はしっかりと握られながら目当ての人物の場所に向かう。
「おやライセ君、お嬢様を連れて来て下さったのですね。ありがとうございます」
「おっ、この子がオメエの言ってたシエルちゃんか。本当人形さんみてえだな! これからよろしくな!」
いかつい手で頭を豪快に撫でてきた晋鉄に、シエルは屋敷でやっていた作り笑顔を向けた。
握る手の力が強くなったので、もしかしたら晋鉄のようなタイプは苦手なのかもしれない。
「それより二人とも、話があるんですけど今いいですか?」
同じテーブルの席に腰掛けシエルも横に座る。
一体何なんだろうと訝しむ二人に、ライセは先ほどからの疑問をぶつけた。
「セバスチャンさんとシエルが日本に来たのは偶然じゃないですね? いつから二人は――連絡を取り合ってたんですか?」
「さすがに気づきましたか。そうですね、何と言いましょうか」
苦笑し答えたのはセバスチャン。
白いヒゲを触りながら、思い出すように唸って考え込む。
「そうそう思い出しました! 確かライセ君を初めて見かけたときでしたから、奥様と旦那様をライセ君が警護する頃ですよ」
「……そんな前から、ですか」
「計画というのは人知れず進行しているものなのですぞ?」
いやそんな悪戯っぽく笑われても……しかし、それならばここにセバスチャンとシエルが来た事も納得がいく。
晋鉄を頼ってきたという理由は納得できるが、それがライセのたずねる時、しかも日にちや時間まで同じというのはさすがにおかしい。
ライセは一つのある考えを思い浮かべずにはいられなかった。
「……えっと、どういう事なの?」
「お嬢様、つまり私はライセ君がここに来る事を彼が決めた瞬間から知っていたのですよ」
「えっ!? な、なら何で私に教えてくれなかったの! ひどいよセバスチャン!」
「私も、出来る事ならお伝えしたかったです。しかしこういうのは黙っておいて思いがけず会ったほうが感動は更に大きくなるというもの。私も心を引き裂かれる思いだったのです分かってください」
「そ、そうなんだ――まあ、確かに会えた感動は凄く大きかったかな?」
えへへと照れ笑いと浮かべながらライセに擦りよるシエル。
セバスチャンに振り回されている事を気付かないのは、果たしていい事なのか悪い事なのか。
とりあえずは黙っておいた方がいいとライセは思う。
「……それはそれとして。ここに来た本当の目的は何ですか? あのトラックの荷台はおそらく荷物ですよね」
「そうですね。いい加減こんなじめじめして暑苦しい島国に来た理由を話さないといけませんな。ライセ君ならもう気付いてると思いますが……ライセ君、今から言う依頼を受けてくださいませんか?」
「え!?」
セバスチャンの言葉に驚いた顔をしたのはシエルだけだった。
ライセはただ、神妙な顔をするだけ。
「依頼内容はお嬢様の日本での生活の保障、及びそれの補助になります。期間はシュバレニア家の状況が落ち着くまでの……言ってしまえば未定になります。依頼料はいつになるかは分かりませんが、ちゃんと期間に見合った金額をお支払いすると奥様は言っておりました」
「なぜ、晋鉄さんに頼まないんですか? 昔からの知り合いならそっちの方が安心じゃないんですか?」
「俺は情報の売買が主であって、そういった依頼は受けねえんだ。けどまあ、良かったじゃねえか。その子と一緒にいれる上に、いきなり仕事をもらえたんだからな!」
晋鉄はそう言うがライセの表情は変わらない。
暗いまま、伏せられた目はセバスチャンへ合わせようとしない。
(大体予想はついていた。けど、この依頼は……)
頭に浮かぶのは、屋敷での隊長との邂逅。
再び噛みあった運命の歯車の、かくも恐ろしいほどの残忍さ。
それに身を晒されるのは――自分一人だけで、充分だ。
「……残念ですが俺には、受けられ――」
「――嫌だよ」
遮るように、シエルの凛とした声が聞こえた。
最初ライセは自分の答えに反論したのだと思ったが、シエルの眼差しはこちらではなくセバスチャンに向いている。
「私は、私はもうライセとそんな関係でいるのは嫌。依頼者と護衛、近いようで遠い存在……そんなのもう、私は嫌だよ」
「……お嬢様」
シエルの瞳はいつの間にかライセを見つめ、儚く、けれど強く想いを言葉に変えていく。
「ねえライセ? 私は依頼なんてしない。ただ私は、ライセが必要なの。一緒にいたいの。ライセにとっては何の利益も無いけど、迷惑かもしれないけどでもっ……お願い」
少女の目にすがりの色はなく、代わりに不安と恐怖が滲み出ていた。
「どうか私を、ライセの傍にいさせて」
精一杯、シエルは心の奥の気持ちを搾り出した。
不安で身体を震わせ、顔を上げられず瞼は閉じられたまま。
それでも握った手は、二度と離したくないと繋ぎ続ける。
「……ライセ君。お嬢様は若いながら周りをよく見渡せる子です。今のシュバレニア家の状況だってちゃんと理解している。でもその中で、お嬢様はあなたを選んだ。あなたに想いを伝える事にした。想いをどう受け取るかはライセ君自身が決める事。ただ、分かってください。苦難というのは乗り越えるためにあるのです。一人で無理なら周りに頼ればいい。今、あなたの周りはこんなに人で溢れているのですからね」
「…………俺、は」
セバスチャンの言葉は、心の深い場所まで染み入った。
シエルの言葉は、自分の心全体を優しく包み込んでくれた。
思った時があった、この二人となら一緒にいられるのではないかと。
だがすぐに、夢と笑った。
否定した。あり得ないと、諦めた。
しかしそれが今、手の届く所にある。
伸ばせばきっと届いてくれるはず。
だけど、自分は汚れている。
隊長が生きてると分かった今、この手はきっと更に汚れていくだろう。
自分の近くにいればシエルはきっと巻き込まれる。
どうしようもないほど大きな悪意の渦に、飲み込まれてしまうかもしれない。
「悪いが……その気持ちに応えることは出来ない」
「――そ、か」
ライセの言葉を聞いたシエルはそれだけ言った。うつむいて、しかし泣いたりはしない。
それが更にライセの重荷になるはずと唇を噛み締めて必死に堪える。
握った手はいつの間にか、少女のほうから離されていた。
「代わりに、セバスチャンさんの依頼を受けさせてもらいます」
「……依頼を、ですか? つまりお嬢様とは、護衛として付き添うという事ですかな?」
その声には答えずライセはシエルを見た。
依頼を受けると聞き、僅かばかり顔を上げたシエルの肩にそっと手を置き――そして、自分も紡ぐ。
今伝えられる、最大限の想いを言葉にして。
「……俺は昔、大切な人を失った事がある。それはどんなに酷い怪我をするよりも、ずっとずっと痛いものだった。シエル、俺は弱い。臆病で弱虫で、卑怯者だ。お前の想いを受け止められるほど、心は強くなんてない」
「…………」
シエルは無言で聞いている。少女が今何を思っているのか想像できず不安に駆られるが、それでも紡ぎを止めるわけにはいかない。
想いを出せずに後悔するのは、もう嫌なのだ。
「――――だから、俺は強くなる」
シエルの顔が、ゆっくりと上げられた。
「……今は壁を作ってしかお前には近づけない。それ以上、踏み込む事が出来ない。だから俺は強くなる。その壁を取り外せるか分からない、その間にシエルは離れているかもしれない。それでも、弱いこの心を強くさせていきたいと思う」
少女の惚けたような顔は昔のアイツに重なりながらも、別の存在になっていると確かに実感できる。
不安はある。恐怖はある。絶望は、いつも自分を見つめている。
失う事を怖れるより一緒にいる喜びを選んだ、脆く弱い自分に、そばにいたいと言った少女に近づくために。
ライセは自分の分岐点を定めた。
繋がる先が絶望でも、傷つく事になろうとも、後悔のない選択をできたと思って進みたかった。
――だって、こんな言葉でも、泣いてくれる人が傍にいたいと言ってくれたのだから。
「……いつか俺も、お前のそばで笑っていたい」
今までで一番柔らかな笑顔で言った言葉は、あの日から逃げ続けてきた青年がやっと言うことのできた、純粋な心の奥からの叫びのようであった――――