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〜第六章〜

先ほど貰った双眼鏡を慌てて覗いてその人物を見る。

瞬間、驚きで目を見開いた。


「……マジかよ」


そこに立っていたのは、知り合いの男が警護をしているはずの少女を抱く銀髪の女であった――




「隊長、予定通りシエル・シュバレニアを連れてきました」


屋敷の敷地内に着地すると、ミレリアは無線機を取り出し報告を始めた。

周りからは濃い血の匂いが漂っているが彼女は気にした風もなく悠然と立つ。

もしも彼女の両手に抱かれているシエルが起きていたらその匂いに吐いていたかもしれない。

しかし少女は瞼を閉じ、浅く規則的な息を吐くだけであった。


「――確かにそのような雰囲気が見受けられました。M・О・Sを渡しておきましたので貴方の読み通りなら、恐らくは。それで、この子はどうするのですか?」


耳と肩で挟んだ無線機に言いながら視線はシエルへと送る。いまだ目覚めぬ少女を見つめながら、その瞳は何か別のものを見るようにズレた印象を持たせる。

感情を表に出さないミレリアの心の奥深く、もう呼ぶ事の出来なくなった名前が夜明け前の星のように儚く、弱く、存在を示すように明滅を繰り返していた。

彼女の中で、シエルはその名前の人物と重なって見えていた。

と、無線機の向こう側から隊長の返事が返ってくる。それを聞いた瞬間、ミレリアの表情が僅かに曇った。


「……それは必要なのでしょうか? もうシエル・シュバレニアをさらった時点で彼は冷静ではありませんでした。何も、殺さなくても」


いつも付き従い従順な彼女にしては、珍しく反論気味た言葉。しばらく問答が続いた後、ミレリアは小さく息を吐く。


「……分かりました。では、指示通りシエル・シュバレニアは殺します」


そう言って無線を終了するとミレリアはしばらく無言で立ち尽くした。

瞳を細め、彼女は抱きかかえていたシエルをゆっくりと地面に降ろす。


「貴女に罪はない……ただ、運がなかった。そう思うしかないのよ」


ミレリアの腕は手刀の形を取り、真剣のような鋭利さを感じさせる指先を少女の細い首元へと向ける。

殺される本人も気付かないほど、素早く命を絶つため腕に力を込めた、その時。


「待ちなっ!」


「……?」


シエルとミレリアだけの空間に割り込む突然の男の声。

ミレリアは視線鋭くそちらを向き、手刀は寸での所で止められる。

だが少し食い込んだのか赤い血の線が一筋、シエルの首元を垂れる。


「誰だなんて関係ねえ! その子を置いてとっとと消えろ、じゃないと痛い目見ることになるぞ!」


茂みから勢いよく飛び出したニックは、今出来る精一杯の虚勢を張り手に持つ銃を見せつける様に構える。

一瞬で様変わりしてしまった屋敷。

そこに降り立った見知らぬ女。そして、気絶し抱えられていた屋敷の主の娘。

先ほどの電話の男の事も気になっているし、セバスチャンも探さなくてはならない。

多めの謎に頭が一杯になりながら、それでもニックは最優先にやらなければいけない事をしっかりと見据える。

それは、目の前のあの少女の安全の確保。


「その子は俺の知り合いが警護しているはずだぞ。何で今その子はここにいる! 何でその子の首から血が出てんだっ!?」


降り立った直後に女は無線機で誰かと話していた。

内容までは分からないが、それでもさっきの行動で大体の予想は付く。

また、護っているはずのライセがいない辺りの予想も。

最悪の予想ではあるが、今はそんな状況としか思えない。


「貴方には関係のない事。ハニス・エンドバーンを警護する為に雇われた貴方達はただ、殺されるだけでいいのよ」


ミレリアの小振りな唇がそう動いた刹那、視界から消えた。

常人では認識できない速度で動いたミレリアをニックが捕らえる事は不可能といえ、よって、彼が手刀をかざし振り下ろそうとするミレリアの額に銃口を突きつけ発砲するなど――彼女はまったく予想の出来なかった事だった。


「!?」


それでもM・О・Sの効果のお陰で身体能力は上がり、ギリギリながらかわす事ができた。

崩れた体勢を引っ張るようにジャンプして、ミレリアはニックから距離を取る。


「……何者なの?」


まさか黒服の一人でしかないニックに反撃されるとは思っておらず、警戒した声でミレリアは問う。

しかし、なぜか問われたニック自身が一番驚いた顔をしており、冷や汗の垂れるそこに強者の余裕は微塵も感じられなかった。

ニックの態度に訝しむミレリアは、だが警戒を怠らず自然に腕を垂らせる体勢になる。

辺りを包む雰囲気はそれだけで一段と重苦しくなった気がする。


(あ、あっぶねえ~!? 師匠の修行受けてなかったらさっきので死んでたぞ!)


心臓が太鼓のように大きな音で鳴り、冷や汗は流れ続ける。

まったく目では追えなかったのに身体は無意識に反応してくれた。

まさしく師匠のしごき、もとい修行のだろう。

血も涙もない修行を耐えた昔の自分に感動しつつ、ニックは平静を装いながら再び銃をミレリアに向ける。


「も、もう一度だけ言うぜ。その子をこっちに渡せ、あんたがどんなに速く動けても俺は追いつけるんだ。選択肢はねえぞ!」


少し引き笑い気味に頬が吊り上がったが、ミレリアは表情を変えずニックを見続けた。

地面に寝かされたままのシエルはまだ起きる気配はなく、ニックはこのまま虚勢を張り続けなければいけない状況にあった。


(ぶっちゃけあんな奇跡がまた起こせるかって言われたら分かんねえ。頼むから降参しろよ~……)


なかば祈る気分で相手の返答を待っていると、ミレリアは目線を伏せ小さく息を吐いた。


「そうね。選択肢は無いのよね……」


これを諦めの言葉と受け取ったのかニックも大きく安堵の息を吐き、銃を下ろそうとした。

――しかし。


「選択肢など、今の私達に残っているはずないのよ」


微かに風を切る音。俊足というより風そのもののような、言うなれば疾風。

それでも、意識で捕らえられぬ近づくミレリアにニックの無意識は反応した。銃の引き金を引いた。

時間にすれば数秒もないやり取り。

しかし、それで二人の間には勝敗の色がはっきりと分かれていた。


「……マジ、かよ」


「例え追いつかれようと、弾を止めてしまえば意味はないのよ」


顔を覆う形で被せられた手には、まるで出来の悪い玩具のように潰れた弾丸が握られていた。本物と認めざるを得ない白煙を薄く発しながら、それはただの鉄塊に成り果てている。


「こんな事が人間に出来る訳……」


「私を人間と思った時点で貴方の負けね」


僅かに滲んだ自嘲を乗せ、腕を弓のようにしならせミレニアは身体へ引きつけられる。

そうして、振られた腕に覆われるようにニックの視界は何も見えなくなった――




「…………う」


見えなくなった、というには閉じた視界には光が溢れていた。

ただし身体の平衡感覚は無く、うるさい風の唸りが聞こえる。


「……うう」


ジェットコースターに休み無しで乗せられたみたいだな、とニックは何となく思い、そしてとうとう我慢の限界を迎えた。


「うええ~」


「吐くなよな……」


心底嫌そうな声で言ってきた人物は、ニックを脇に抱え高く空を舞っていた。

人ではあり得ない高さの跳躍は頂点までいくと静止し、加速度的に地面へ落ちていく。


「お、俺高いのは駄目なんだよ……」


吐しゃ物は胃液を少々に止まったが、しかしそれでもニックは今にも死にそうな顔をしていた。


「助けるならもう少し考えてくれよ――ライセ」


名前を呼ぶと同時、着地の振動が身体を襲い舌を噛みかけた。

格好の悪い大惨事を何とか起こさずに済んだニックが一息つくと、その身体は地面に下ろされる。


「今は力の加減が難しいんだ……それに」


言うとライセの瞳は前方に向けられる。

先ほどのニックの立ち位置から距離が開いたが、前方に立っている人物は変わっていない。


「あの女はシエルを連れ去った。目の前に敵を見つけて、他の事なんて考えられるか」


ライセの心に渦巻くのは、ミレリアへの憤怒。

己の不甲斐なさへの落胆。

そして、戦いへの歓喜。

それら感情は混ざって一つとなり、研ぎ澄まされた殺気となってミレリアに向けられる。

鋭く、ただただ鋭く。明確なる殺意だけを乗せてそれは相手を射抜く。


「……」


その殺意を真正面から受け止め、だが揺るがずにミレリアは見つめ返していた。

シエルに向けていたものとは違う、感情の欠落した瞳で。


「……やはり来たのね。その様子だとM・О・Sへの拒絶反応はないようだけど、昔使っていたのなら問題はないと思ってたわ」


言うとミレリアは腕に付いた血を払った。

見ればニックの肩部分のスーツは刃物に切られたように破れ、隙間から覗く肌は血を滴らせていた。


「別に、お前の思惑に乗ったんじゃない。ただ、約束したからな……護ってやると」


「まさかその怪我で、私に勝てると思ってるの?」


ふらつく足元に注意しながらニックが改めてライセを見ると、その姿に驚愕する。


「おい! その腹の血どうしたんだよ!?」


真っ白なシャツに広がる血の跡。

断続的に地面に滴る血は止まる事なく、赤い点々を描き続けていた。


「だから、何だ」


ライセは、取るに足らない事だと言うようにミレリアを睨んだ。

そんな事、今の自分には足枷にすらならないと己の身体に力を込める。


「例え血の一滴まで出尽くしたとしても、俺は決めている。その子を、シエルを護ると。それに――」


口元を歪めて形を嘲笑に変えた。


「お前ぐらいにはハンデが必要だよ」


それが向けられたのは、もちろん先ほど戦った相手。

自分の腹に大きな風穴を開けたミレリア。


「……M・О・Sを使ったから対等になったと思わない方がいいわよ。貴方が戦場から離れていた期間は、決して無くなりはしないのだから」


隊長が妙に気にかけ、どうやら期待をしている人物のようであるが、それでもミレリアはライセが自分より上とは思っていなかった。

ライセが戦場から逃げるように過ごしてきた間、ミレリアは死んだほうがマシと思えるような実験を繰り返された。

生き残るのが困難な、死線も何度もくぐってきた。

全てはM・О・Sに身体を対応させるために。

その力を、自由に操れるようになるために。

過信ではない、ミレリアの自信は過去の全てに裏打ちされた確かなものだった。


「そうか――なら、なんでお前はシエルが連れ去られた事に気づいてないんだ?」


一瞬何を言っているのか分からなかった。

しかしそれが自分の意識を逸らせるものだと推察すると、ミレリアからは笑いが零れた。

あまりに幼稚。ライセの言葉は作戦ともいえない、あまりにお粗末な気の逸らせ方だ――そう思った時、初めてシエルの気配が遠ざかっているのに気付いたのであった。


「……な、ぜ」


見れば門の近くに停められているワゴン車へ、ニックが今まさに乗り込んでいるところであった。

シエルの気配もまた、車のほうから感じられる。


「この薬を飲むと身体の機能は格段に向上する。それは神経、感覚も同じ事だ。薬を飲み続けていればこのくらいは分かるだろ? だが、これには大きな落とし穴がある。相手の気配が自分より巨大だと鋭敏に感じすぎ、結果周りへの集中は途切れて感覚は相手のみに向く事になる。今のお前は、俺しか見えてないって状態なんだよ」


ライセの言葉を聞いても、ミレリアは困惑した表情をしていた。

あり得るはずがない、自分は死ぬような思いを何百と繰り返し、この絶対的とも言える力を手に入れたのだ。


「……貴方に、私が気圧されたとでもいうの?」


「簡単に言えばそうだ」


何を馬鹿な、言おうとした時、ライセが何かを指差した。


「無線機、さっきからずっと鳴りっぱなしだ」


「!?」


これには何事よりも集中し、聞き逃しがないように細心の注意を払っているはずなのに……なぜ、気付けなかったのだ。

動揺するミレリアをよそに、その間も無線機からの呼び出しは絶え間なく鳴り響く。


「この薬が『MADNESS・ОF・SUPPRESSОR』――通称M・О・Sと呼ばれる理由、知ってるか?」


「…………」


微かにミレリアの指が無線機に触れた。


「させるかよ」


「くっ!?」


瞬時に近づくとライセが掌打を放つ。

かろうじて首をねじり回避するが、ライセからの攻撃は止まない。


「仲間を呼ばれたら面倒だ、お前はここで終われ」


「っなめないほうがいいわよ!」


ライセの突きの拳を受け流し、それと同時に襲ってきた側頭部への蹴りは屈んで避ける。

攻撃後に出来る僅かな隙に滑り込むように、ミレリアはライセへ前蹴りを繰り出した。

身体を横に反転させ避けたライセへ猶予なく後ろ蹴りが飛ぶ。

交差させた腕で受け止めるもその一撃は重く、少しだけ姿勢が崩れた。


「そこだっ!」


好機を見逃さず更に踏み込んだ攻撃を加えようとするミレリア――身体に寒気が走ったのは、ちょうどその時。


(しまった!?)


相手の誘いだった事に気づいた時はもう遅く、胸元を衝撃が襲ってくる。

恐ろしく重く、とてつもなく速い一撃。

自分の反応できない速度のそれに身体は無造作に晒され、次いで骨の砕ける嫌な感じと共に痛みが襲ってきた。


「かっ、は……」


それでもミレリアは倒れなかった。

プライドか、命令遂行への忠誠心か。

彼女は倒れる事を無意識ながらも拒み続けた。


「――狂気の鎮圧者、かつて戦場で血の雨を降らせたこの薬には大層な名前だと思うが、これの指す狂気が何か分かるか?」


「……そんなの、決まってる。戦場に渦巻く数多の狂気、人を人だと思わない、狂っていて腐っている、そんな狂気を全て鎮圧する事が出来るのがM・О・Sの力なのよ!」


痛みはM・О・Sのお陰で溶けるように消えたが、鈍い感覚は胸に残る。

反応する事さえ出来なかったあの攻撃は、ライセとミレリアの間にある確然とした実力の差なのか。

そう思うとミレリアは屈辱に顔を歪める。


「俺の考えは違う。狂気とはつまり、自分の中のもの。力に溺れ、欲に溺れ、自身に溺れる、それは狂気といえる感情だ。それらの鎮圧を成し遂げた時、M・О・Sは完全に身体に浸透したといっていいはずだ」


「結局、何が言いたいの。貴方自身が私より薬を受け入れている、そう言いたいの!?」


「……どうだろうな」


「っそんな事あるはずないでしょう! 私は、私は適合者として選ばれるまでどんな事にも耐えてきた! 死もいとわぬような実験にも耐え、死と隣り合わせの戦場を駆け抜けた! そしてM・О・Sを使いこなせるようになったの! 隊長と昔何があったか知らないけど……貴方なんかに負けられないのよっ!」


ミレリアの言葉に、少しだけ感情が乗った。

それは、怒り。

今までの自分を打ち砕くような相手への、純粋な怒り。

憎悪に近いそれは激流となって彼女の中に渦巻く。


「……感情全てを鎮圧し、頭に思うのは一つの事柄だけにするんだ」


風を裂く音と、後ろから響いた地面を擦る音。

両方の音が聞こえた時にはもう遅く、視線の合ったライセの行動は終わりを見せていた。


「――敵の死、のみ」


拳が肉にめり込む感覚を全身に感じ、細胞の潰れる音が脳に直接聞こえたようだった。

衝撃で何メートルも吹き飛ばされ、身体を地面に強打する。

フラッシュバック状態のお陰で痛みが微細に抑えられるとしても、身体機能は過負荷のダメージに声ならぬ悲鳴を上げる。

立ち上がろうと下半身に力を込めるが、それも敵わずミレリアの身体はぴくりとも動かせなくなってしまった。


「くそ! くそ、くそっ……くそ……」


たった数回。数えるしか受けていない攻撃でもう身体は限界を迎え、相手に自由を奪われた。

何が悪かったのだろう? 死に物狂いで手に入れた薬の力で、なぜ自分は地面に倒れ伏しているのだろう。


「ちがうっ、これは……」


「実力の差だ」


いつの間にか眼前に来ていた相手に二の句を奪い、喋る事さえ奪おうとする。


「そんな風に思えるのは殺人狂のあの男ぐらいか、何も知らないガキくらい。心を知ってる、護りたいものがあるやつに感情全てを鎮圧なんて出来るわけない」


見下ろすライセの視線は冷たく、ミレリアを見透かすように見つめてくる。


「お前の信念は知らない。知りたいとも思わない。ただ、お前が俺の大事なものに手を出した事、これは事実だ」


「……ふ、ふふふ。たった数日一緒にいただけで大事なものなんて、随分な入れ込みね。でも貴方がどんなに想いを強くしても彼女がそれに応える事はないわよ?」


「……別に、俺はこの想いが報われる事もどうにかなろうとも思ってない。ただ、あの子の笑顔を消そうとするやつは許せない。自分が傷ついても、再び誰かを殺す事になろうとも、俺は――」


途切れた言葉に続く言葉を出さず、ライセは無言で腕を伸ばした。

ミレリアはそれを見て、やがて観念したように溜め息が漏らす。


「まだ殺しはしない、お前には色々と聞きたい事があるからな。……だけど、その腕は目障りなんだよ」


ライセの腕が伸びてきてもミレリアの身体は言う事を聞かず、心に広がったのは諦めの思いだった。

それと、瞬いていた星のように輝く、もう決して手の届かない一つの名前。


(……ごめんね。やっぱり、姉さんには無理だったよ)


その謝りを受け取る者はなく、そしてとうとうライセの腕はミレリアに触れる――







「………………ま、さか」


ミレリアに触れた手をそのままに、ライセの声と顔は彼女とは別の方向を向いていた。

見つめる先は遠くに停まっている一台のワゴン車。

それにゆっくりと近づいている、一人の男の姿。

後ろ姿しか確認できないがその背中には見覚えがあり、ライセが幼い頃にいつも見た、見紛う事ないあの男の背中だった。

放たれる気配も懐かしく――吐き気がするほどの怒りを呼び起こしてくる。

ミレリアと対峙した時より更に凶暴な殺気が噴出し、それに呼応するように腕は濃い紅に染まっていく。

先ほどまで冴えていた頭は殺意に支配され、足は地面に力強くめり込んでいく。


「……貴方の、焦がれ続けた人の登場ね。しかしこれじゃあ、また昔と同じみたい」


いつしか離されていた手に警戒しながら、ミレリアはライセに嘲笑を向ける。

あの人は少女を殺す。

そしたらこの男は、もう二度と立ち直れないはず。

暗く澱んだ考えが浮かび、思わず侮蔑の笑みが零れた。

それと同時に彼女の頬には一筋の涙が流れた。

まるで今の自分を嘆くように、心に瞬いていた星が零れ落ちるかのように。

無意識のその涙に、しかしミレリアが気付くことは無かった。

そしてライセもまた、ミレリアの言葉に気付いていないよう。

もう、彼の心に入り込めるのは憎悪以外無くなっていた。


「――ああああああぁぁぁっ!」


轟かせるようにライセは叫び、地面を蹴る。凄まじい速度で身体は動きだし、そして男の元へと一瞬で辿り着く。


「おおおおおおぉぉぉっ!!」


怒声にも似た声を張り上げライセは隊長へと殴りかかった。

それを難なく交わした隊長だったが、避けることを予め予測していたライセはすかさず第二打を放つ。

狙い済ました拳は綺麗に右の脇腹に刺さり、揺らいだ相手に更に追撃しようと蹴りを放つ。

――しかし。


「……軽いな」


「!?」


僅かに後ろへと身体を逸らしただけで隊長はかわすとライセの頭に岩のような拳を叩きつけた。


「がっ!?」


脳が揺さぶられ、自分の意思とは関係なく身体が折れる。

揺らぐ視界に映る隊長を睨み、しかしなおも噛み付こうと牙をむく。


「やはり実戦を離れていたのが影響しているようだな。今の貴様では、俺たち真紅のメンバーになる事はできんぞ」


「何を訳の分からない事言ってるんだよ! お前は、お前だけはたとえ死んでも殺してやる! 相打ちでも何ででもだっ!」


目を見開き揺れる身体を無理やりに動かす。

計算した動きでなく、ただ怒りに任せた拳。それを隊長は難なく受け止める。


「くっそ! お前のその手で俺に触るな!」


「――くく、貴様も似たような血まみれの手をしているだろう? しかしまさかここまでとはな。期待外れもほどがあるぞ」


「……期待、だと? 笑わせるな! お前の殺人衝動のために俺はいるんじゃないっ……俺が今お前と相対しているのは、アイツの仇を討つためだ!」


掴まれていない手を振るうと袖口からナイフが飛び出し、ライセは隊長へと斬りかかった。

セバスチャンとの時よりも更に速い斬撃、それでも隊長はまたも難なく受け止める。


「その憎悪は評価してやる。だがこの実力差を見せ付けられて、貴様はまだ勝てる気でいるのか? 考えが甘いぞ」


隊長の丸太のような足が瞬時に上がり、膝がライセの腹へとめり込んだ。

身体が地面から離れるほどの衝撃を受けライセは血を吐く。

腹からも血は大量に溢れ出し、ライセの足元には血だまりが出来ていく。

歯を食いしばり未だ立ち向かおうとするライセだったが身体は言う事を聞かず、とうとう片膝が地面に付いてしまう。


「ライセ、あの時感じた貴様の殺気はこんなものではなかったぞ。やはり大切に思う者を無くさないと、貴様は力を発揮できんのか?」


「何、だと」


「ならば依頼に背く事になるが、あの娘は殺すことになるな」


冷淡といえる隊長の瞳はワゴン車へと向けられる。

そういえば乗っているはずのニックが姿を現さないが、それよりも早く、早く身体を動かさなくてはいけない。


「何を、する気だ!」


「今更答えなど必要ではないだろう――だがまあ、それは最後の手段だ」


「っつ」


踏ん張り、身体を持ち上げようとしていた動きが止まる。

目の前の男の言葉にライセは自分の耳を疑った。


「殺すのは貴様がどうにもならんと判断した時だ……昔と違い、全ての準備が整った今欲しいのは貴様自身。あの時の娘同様に殺せば、貴様が仲間にならない事は承知している」


「今の時点でも、俺はお前の仲間になる気はない」


「近い将来、必ず貴様は自らの意思で俺の所に来るはずだ。そして、それまでにM・О・Sを更に使いこなし俺を満足させるほど強くなっていろ」


目の前に、手が十分に届く距離に仇がいた。

アイツの仇が近くにいるというのに、ライセは何も出来ない。

今は何をしても届く事なく、近いようで遠い距離はライセの憎悪を強くする。


「俺の狂気に殺されず、その紅色の腕を磨き続けろ! 俺を殺せるほどに! 娘を護れるほどに! そして忘れるな。貴様が拒否すれば代償を払うのは別の者になる事をな」


「……この、外道が」


「くくく、最高の褒め言葉だな! ――――行くぞ! もうここに用はない!」


隊長が無線機に叫ぶと飛行場から微かにモーター音が響いてきた。

ライセは目の前の男を止められない、弱い自分に歯噛みする。

歩き出した隊長の後ろ、辛うじて歩いているミレリアはそんなライセを一瞥し、視線に負の感情を滲ませる。


(隊長が何と言おうと……ライセ、貴方は私が殺す)


そんな彼女の心に気付きながらも、何も言わず隊長は口を笑いに歪めた。


(もっと、もっと強くなれライセ! 俺を満足させるまで牙を研ぎ澄ませ! そして知るのだ、護るのも壊すのも所詮は力なのだと。その時まで俺は貴様に試練を与え続けてやる。大切な者を護り続けたいのなら、その血に濡れた腕で護り続けろ!)


隊長達が消え静寂を取り戻した敷地に佇んでいたライセだが、限界といった風にとうとう地面に力なく倒れた。

しかしその途中で誰かの腕に支えられ、澱んだ意識の中それがセバスチャンの差し伸べる手だと気づく。


「……無事、だったんですね」


「ええ……あの男と取引をしましたから」


「とり、ひき?」


「先ほどの場面に介入しない事。それを守ればお嬢様やニックさんの命は助けると言われたのです。ライセ君には……本当に悪い事をしてしまいました」


目を伏せ、申し訳無さそうにするセバスチャンにライセは微笑んだ。

そして頷く、それで良かったのだと伝えるように。


「なら、二人は……無事、なんですね」


意識が朦朧としてきた。瞼が重く、M・О・Sで帯びていた全身の熱が下がっていくのを感じる。

死ぬのかと思うが不思議と恐怖はなく、心はさっきの激情が嘘のように落ち着いている。


「はい、二人とも無事です。ニックさんはあの場面に割り込みそうなので仕方なく私が眠らせました。お嬢様は、安らかに寝息を立てていますよ」


「良かった」


そうしてライセは瞼を閉じる。

その顔は穏やかに、眠るように静かで安らかなもの。


「すぐに君を病院に連れて行きます。必ず、死なせたりさせませんぞ……お嬢様の泣き顔を見るのは嫌ですからね」


こうしてライセの警護期間は終了し、一週間という長くも短い二人の『関係』は幕を閉じた――







イギリス構成主体の一つであるスコットランドの首都、エディンバラ。

その大都市の空港にライセの姿はあった。

退屈そうに電光板を見ながら自分の乗る飛行機の案内が開始されるのをぼんやりとした表情で待っている。


「シエルちゃんが見送りに来なくて淋しいのか?」


「……何でそうなるんだよ」


隣に座っていたニックがからかい気味に言ってきたので、ぶっきょう面をいつもより三割増しほどにしてライセは答えた。


「仕方ねえだろ? 屋敷であんな事があったんだから。しかも――ハニスも死んでたらしいしな。当分ごたごたで家から出れねえだろうな。そんな淋しそうにしなくても、日本に着いたら美味いそば屋とかに連れてってやるよ」


「――もういい」


溜め息をついて目線を何となく辺りに向けた。

カフェの中にある大型のテレビのスクリーンには、今しがたニックの話した事件が報道されていた。


『――シュバレニア貴族を襲った謎の組織。居合わせていたエンドバーン家次男のハニス・エンドバーンは殺され、屋敷はそこだけ戦争が起こったような惨劇に見舞われていた』


このようなタイトルの報道が事件から二週間経った今でも連日されており、大した新情報も無いまま世間を賑わせていた。


(あれから二週間か……)


昏睡状態で病院に運び込まれたライセは、奇跡的に一命を取り留める事ができた。

その後は医者も驚くほどの回復力を見せ、通常なら二ヶ月は絶対安静の身体は二週間で自力で歩けるまでになっていた。

そして入院しているときに、見舞いにとエルダとセバスチャンが来た。

そこで簡単に、事件のその後を教えてもらった。

それによると、シュバレニア家で起こった事件は貴族に不満を持つ者のテロにされたらしい。

なぜかというと、殺されたハニスが滞在していた部屋には少女らの死体があり、それは報道されれば確実に家名を失墜させるもので、それを嫌がったエンドバーン家は事実を捻じ曲げ事件をテロリストによる無差別殺人。

そして、運悪く巻き込まれた大貴族の次男として、あの屋敷で起こっていた事実を全て消そうとしたいらしい。

その提案は責任を追及されると思っていたシュバレニア家にも願ってもない事だったので、その後はエンドバーン家の力でされたニュースが世間に飛び交っている。

幸いといえるのか、屋敷には当時使用人達がいなかった事もありシュバレニア家の被害は少なかった事。

しかしそれでもあの屋敷にもう住む事は出来ない。襲った本当の犯人であるが、これも闇に葬られる事になった。

身体能力を強化するM・О・Sという薬を使い人を虫けらのように殺した組織――『真紅』

ライセがその中の隊長と面識がある事や、薬を持っている事など隠す場所は隠し伝えられる情報は全部伝えたが、それでも警察は信じてはくれなかった。

確かにあれだけの惨事を起こしながら痕跡らしいものを一つも残さなかった組織の存在を、実際に見ていない者が信じるのは難しいだろう。

一時生き残ったライセやニックが疑われた事もあったらしいが、その時はなぜかエンドバーン家からの口添えがあり見逃されることとなった。


「シエルは今、精密検査を受けてるんだけど問題なくすぐに退院できるそうよ。でもライセ君に会える時間はないかもしれないわ。あの子も事件の生き残り、そしてシュバレニア家の者としてやらないといけない事があるから」


エルダは悲しそうな表情でそう言って、病室を後にした。

残ったセバスチャンとも今後の事で少し話しただけで、それから退院した今日まで一度も会っていない。

護衛料はニックに預けられ退院の直後に渡された。

そしてライセはそのお金ですぐ日本行きのチケットを買った。

真紅と名乗ったあの集団。

そして、隊長に再び近づく手は日本にしかないと思ったからだ。


「しっかし驚きだぜ。まさかライセまで日本に行くなんてな」


缶コーヒーに口をつけながら、ニックは何度目か分からぬ驚きの声を出す。


「しかも俺の師匠と知り合いだなんてな。偶然ってのは凄えな!」


「俺も、まさかニックが晋鉄しんてつさんの弟子って事には驚いた。伝説の傭兵の弟子の割にあんまり強くない事もな」


「お、俺は身体を使う事は向いてねえんだよ。今回の事でよく分かった、これからは今師匠がやってる情報屋に転向するぜ!」


にっかりと笑うニック。その後は他愛の無い事を喋ってくるニックの話を聞き流しながら、何となく買った新聞を広げてライセは改めてこれからの事を反芻する。

――昔、依頼で行く事になった日本。

片親のどちらかは日本人だろうと、紅にいたとき日本人であった隊長から言われ、それからは何となく気にしていた国。

その国での依頼遂行中、一緒に仕事をしたのが晋鉄という男であった。

ニックの言うように情報屋をしていた彼はライセを見るなり驚きの声を上げた。

突然の事にライセも驚いたが、晋鉄はまるで古い友人との待ち望んでいた再会をしたように声を潤ませ喋りかけてきた。

話をすれば晋鉄は、とある女性と親友だった仲で仕事をしていた時期もあったらしい。

ライセはその女性の面影を、何より違う色をした二つの瞳を持っていた。

その女性は晋鉄の前から急に姿を消したが、消える前に彼女がよく言っていたのは子供の事だったそう。

自分の宝物といっていた、自分そっくりの男の子。

女性の息子で間違いないと晋鉄は言い切り、その後もライセは度々仕事で世話になったりなど、ライセと晋鉄の少し不思議な関係は続いていた。

そんな時に言われた、困った事があったら頼れという何気ない言葉。

絶対にそんな事はないだろうと思っていたが、先日ある決意を胸に晋鉄へと電話をかけたのだ。


『まもなく――時――分発、日本行き飛行機の離陸時間です。ご搭乗になられる方は――番ゲートまでお越しください』


アナウンスが聞こえライセは顔を上げた。

いつの間にか搭乗時間になっていたようで、ニックも背伸びをしながら席を立つ。


「やっと飛行機の時間か。行こうぜライセ」


ニックが欠伸を噛み殺しながら歩き出す。ライセも新聞を畳むと固いロビーのイスから腰を上げる。


「ああ、行こう」


結局、シエルに一度も会う事のないままライセは日本へと飛び立った。

少しの名残惜しさと、これからやらねばならない事への僅かな不安。

たった数日だけでも一人の少女の分岐点に関われた事。

それを思い出とし、時には糧とし、心にいまだ燃えているどす黒い炎の赴くまま進もうと思う。

血塗られた、腕と共に。


「……行ってしまったわね。さて、あの子は未知の国でもちゃんと馴染めるのかしら?」


飛行場の敷地内にある駐車場。

そこに停められているリムジンの中にいたエルダは、楽しそうな声でそう呟いた。


「でも好きな人と一緒なら何とかなるでしょうね――娘をよろしく、ライセさん」


エルダの口元が笑みになったのを見て、運転手は顔も知らないライセの今後に同情の念を抱くのであった――







「しかし……本当にそのライセという男はミレリアを圧倒したのですか? 真紅の副隊長であるあなたが負けるなんて、私にはどうも信じがたい話です」


「そうだよ! ミレ姉が負けるなんてあるわけないだろ! ミレ姉、嘘だって言ってよ」


大型の軍用ヘリの中、その中ではロウとキリが困惑の表情をしながらミレリアに問答を繰り返していた。

しかし返事は、ライセと戦って負けたというミレリアの無感情な声であった。

軍用ヘリの中は見れば多くの男達が乗っていた。

皆一様に軍服らしきものを着て、肩には軍用の小銃を下げている。

まるで軍隊を思わせる男達の中で、浮いた格好の三人に近づく者が一人いた。


「その表情を見ると、ライセに手ひどくやられたようだな」


「隊長……」


いつものように冷静で冷徹、冷淡な顔をしている隊長。ライセと会った時の狂気じみたものはそこには無く、手に持った缶を渡すとミレリアの目の前に腰を降ろす。


「飲め。少しは疲れが取れる」


「……ありがとうございます」


受け取るミレリアは、しかし顔を下げたまま。

殺すと思っていたシエルを見逃し、あまつさえ失望したと言いながらも隊長がライセに向けていたのは期待の目だった。


「隊長、前に話していただいた事なんですが」


ミレリアは思う、今の自分ではあの男に近づけない。

このままでは、自分は隊長に見限られ生きる場所を失ってしまう。

それなら、それならばいっそ――


「――『限界超過』の実験、受けさせてはもらえないでしょうか?」


「ミレリア!?」


「ミレ姉っ!?」


ロウとキリが同時に驚きの声を上げるがミレリアはそれに動じない。

それを聞いた隊長は無言でミレリアを見つめ、やがて口の端を持ち上げた。


「その言葉待っていたぞ、ミレリア!」


――男の狂気は止まることなく、仲間でさえも飲み込み増大していく。


(これでいい。もう後戻りは出来ない。なら、どこまでもこの人の狂気に浸かってやる……)


想像を絶する実験の苦しさと痛みを思い出すと、ミレリアの心は少しだけ怖さに揺らいだ。

しかしそれは一瞬で、彼女はすぐにいつもの感情の乏しい顔になる。

彼女の心の奥深くで瞬く名前は、隊長の狂気と共にその身を底の見えない闇へと引きずり込まれていく――







『それなら一つ処にいた方が情報は集まるだろうよ。ちょうど俺の所有してるビルの二階が空いてんだ。オメエになら格安で貸してやるぜ? 後はまあ、探偵なり何でも屋なりやってれば勝手に情報は入ってくるもんだ。俺も良心的な値で欲しい情報を売ってやっていいしな』


シエルの護衛中に起こった事を話すと、電話の向こうで晋鉄はそう提案してきた。

その言葉に従うようにライセは日本に飛び立ち教えてもらった住所に向かう。

ニックもどうやら目的地は同じようで、そうして二人は古い感じのするビルへと辿り着いた。

詳しく言えば一階に入っている、鉄下駄という名の喫茶店でコーヒーを飲んでいるところであった。


「……驚きました。まさか晋鉄さんが喫茶店を経営してるなんて」


「経営つっても面倒くせえ事は全部娘に任せちまってるけどな。それに俺の本業は情報の売買よ。隠れみの的な職業も必要になってきちまうんだ。ま、今じゃあ俺が淹れたコーヒー飲んで喜んでくれる客を見るのが楽しくなってきたがな!」


スローテンポのジャズのかけられた店内。

落ち着いた雰囲気の店内でライセの向かいに座る男は豪快に笑っていた。

恰幅ある身体にサーフィン焼けらしい黒い肌。白髪混じりの髪と顔に刻まれたシワが歳を感じさせはするが、鋭く生気溢れた目は男の雰囲気を若々しいものに見せていた。


「おい蘭香! お前も奥に引っ込んでないでライセに挨拶しろ。すぐに二階に引っ越してくるだろうからな!」


地の声量らしい大声をまた轟かせて、晋鉄はカウンターの奥へと声をかける。

と、晋鉄に負けず劣らずの大声でカウンターから女の子の声が返ってきた。



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